地の底の祭壇
深い闇の中で、何かが動いた。
長いあいだ、そこには光も音もなかった。
冷えた石と、澱んだ空気だけがある。
その静けさの中へ、かすかな音が届いた。
一つ。
また一つ。
遠い。
けれど、確かに近づいている。
人の足音だった。
やがて闇の向こうに、小さな光が揺れた。
何かが、ゆっくりと頭をもたげる。
低い呼吸が、石の奥で鳴った。
◇
「この先じゃ」
弁慶が言った。
片手には、ひびの入った薙刀。刃は大きく欠け、肩には昨夜巻いた布が残っている。
深い傷だったはずだが、歩くぶんにはほとんど気にしていないようだった。
それよりも今は、志乃と圭介の位置ばかり気にしている。
「弁慶さん」
圭介が少し困った顔をした。
「何だ」
「近くないですか?」
「何がだ」
「俺たちとの距離が」
弁慶は圭介と志乃を見る。
「危うき時に届かねば意味があるまい」
「もう始まってません? 守るやつ」
志乃が小さく笑った。
「始まってるね」
「何か問題があるか」
「今のところはないですけど。昨日まで薙刀振り回してきた人が、今日は急に近いので」
「その節はまことに済まなかった」
「真面目に謝られると何も言えないな……」
アラタが前を歩きながら笑った。
「そのうち慣れるじゃろう」
地下の通路へ、四人の足音が続いた。
弁慶が加わったことで、四人になった。
それだけなのに、昨日までより道が狭く感じる。
志乃は曲がり角へ来るたび、壁へ小さな印を残していた。
さらに紙を開き、今通ってきた分かれ道と下り道を簡単な線で書き足す。
弁慶が覗き込む。
「道を紙へ残しておるのか」
「はい。帰る時のためです」
「道など覚えておけばよかろう」
圭介が横から聞いた。
「弁慶さん、来る時ちゃんと覚えてたんですか?」
弁慶が黙る。
「……強き武器を探すことしか考えておらなんだ」
「やっぱり」
志乃は紙を畳んだ。
「私たちは帰るところまで含めて探索です」
「なるほど」
弁慶は素直に頷いた。
◇
さらに進むと、石造りの通路は少しずつ姿を変え始めた。
ここまでにも人工的な壁や床は見ている。
だが、今度は規模が違う。
壁を作る石そのものが大きくなり、天井も少しずつ高くなっていた。
二人並べば窮屈だった場所が、いつの間にか四人並べるほどの幅になっている。
壁には、これまでより深い彫刻が残っていた。
円。
獣のようなもの。
人にも見える細長い姿。
その横には、見覚えのない文字が刻まれている。
「読めぬなら進めばよい」
弁慶が言った。
圭介が振り返る。
「強い武器は読んでも出てこない、とか言いそうですね」
「その通りだ」
「本当に言った」
志乃が口元を押さえた。
その先で、通路が終わった。
正確には。
壁も天井も、灯りの中から消えた。
アラタが足を止める。
前方には、黒い空間だけが広がっていた。
「ここじゃ」
弁慶の声が少し低くなる。
「拙僧が見たのは」
四人は並んで、その先へ出た。
誰も、すぐには言葉を出さなかった。
◇
広い。
そう言うだけでは足りない。
アラタが灯りを高く掲げる。
天井まで届かない。
志乃も隣で灯りを上げるが、闇の中へ光が吸われていくだけだった。
左右の壁も遠い。
自分たちが出てきた通路だけが、巨大な壁に開いた小さな穴のように見えた。
「……地下ですよね?」
圭介が呟く。
「そうじゃな」
「分かってますけど……これ、どれくらい広いんですか」
「灯りでは測れんのう」
足元から長い階段が下へ続いている。
その先には、町の建物より太い石柱がいくつも立ち、さらに奥には大きな石台らしき影が見えた。
「祭壇……でしょうか」
志乃が言う。
「そう見えなくもないのう」
弁慶まで黙って見上げている。
圭介が横を見る。
「弁慶さんも初めて見た時、驚きました?」
「……うむ。拙僧も、これは大きいと思った」
少し間を置く。
「強き武器がありそうだとも思った」
「やっぱりそっちなんだ……」
圭介の声が、遠くから何度も返ってきた。
四人の足音も、少し遅れて返る。
自分たちとは別の誰かが歩いているようにも聞こえた。
志乃は入口の壁へ大きめの印を残し、床にも同じ印を付ける。
紙には階段と巨大空間の位置を書き足した。
「ここは絶対に分からなくなりたくないです」
「同感じゃ」
四人は階段を下り始めた。
◇
石段は長かった。
途中の踊り場には、壊れた石像があった。
人の形に見える。
だが頭部は失われ、腕も元がどんな形だったのか分からないほど崩れている。
台座にも文字が刻まれていた。
志乃は少し眺め、紙を出しかけてやめた。
「これ、全部写してたら終わりませんね」
灯りを動かせば、柱にも床にも同じような文字や模様がある。
「全部調べに来たわけではないからのう」
アラタは奥を見る。
「まずは目的のものじゃ」
「黒い金属ですね」
「うむ」
弁慶も頷いた。
「強き武器だな」
「弁慶さんの分まで探すことになってません?」
「良いものが多くあるなら、一つくらい拙僧にも」
「まず今の武器を壊さない練習からでは?」
弁慶が欠けた薙刀を見る。
「……一理ある」
「認めるんだ」
階段を下り切ると、空間はさらに広く感じた。
足元の石床には亀裂が走り、遠くには崩れた壁や石の山がある。
「魔物がいませんね」
志乃が周囲を見る。
ここまで来る途中には、何度か気配があった。
だが、この場所には生き物の音がない。
「静かすぎますね」
圭介も自然と声を落とした。
アラタは祭壇の向こうまで視線を走らせる。
隠れる場所はいくらでもある。
それなのに何も聞こえない。
「気を抜かぬ方がよさそうじゃな」
四人は祭壇らしき石台へ近づいた。
近くで見るとかなり崩れており、上には何も残っていない。
正面には、これまでより大きな文字が刻まれていた。
「これも読めんのう」
「前の世界の文字にも似てません?」
圭介が聞く。
「似ておる部分はあるかもしれん。じゃが、それだけで同じものとは言えんのう」
レグナルシアでも、アラタは古い遺跡をいくつも見てきた。
滅びた国の城。
地下神殿。
魔族の古い祭壇。
それでも、その記憶だけで目の前の場所を決めつける気はなかった。
「金属を探そう」
四人は離れすぎない範囲で周囲を調べ始めた。
柱の根元。
崩れた床。
石の割れ目。
圭介が黒い石を拾って指で弾く。
鈍い音。
「違いますね」
「違うのう」
さらに進む。
圭介が倒れた石像へ近づこうとした瞬間、襟が後ろへ引かれた。
「ぐえっ」
弁慶だった。
「何するんですか!」
「足元を見よ」
石像の手前に細い亀裂が走り、その先の床がわずかに沈んでいる。
「……危な」
「落ちれば、守れぬ」
圭介はしばらく黙った。
「守るの、思ったより早く本格化してますね」
「でも助かったね」
志乃が笑う。
弁慶は気にせず前へ出た。
ただし志乃の正面には立たない。
弓を上げれば、その横から矢を通せる位置だった。
アラタはそれを見て、何も言わず先へ進んだ。
しばらく探した頃。
「アラタさん」
志乃が足を止めた。
床の一部が大きく崩れている。
その下には岩盤が見え、割れた岩の内側に黒いものが露出していた。
近くには拳ほどの塊も転がっている。
アラタが一つ拾った。
掌が少し沈む。
「重い」
圭介も小さな欠片を持つ。
「本当だ」
アラタが指先で塊を弾いた。
キィン――。
澄んだ音が、巨大な空間へ伸びた。
四人が黙る。
音は柱の向こうへ消え、少し遅れて遠くから細く返ってきた。
アラタが笑う。
「これじゃな」
志乃も小さく息を吐いた。
「見つかりましたね」
周囲には同じ黒い塊がいくつもある。
岩の割れ目にも黒い筋が見えていた。
「これだけあれば、剣一本分には足りるじゃろう」
圭介の顔が明るくなる。
「じゃあ、持って帰れますね」
「欲張らなければのう」
志乃も頷く。
「必要な分だけにしましょう。帰りがありますから」
「うむ」
持ち帰る塊を選ぶ。
その横で弁慶が、一番大きなものを片手で持ち上げた。
「それ持つんですか?」
「持てるぞ」
「それは見れば分かりますけど」
弁慶は塊を眺める。
「これなら良い武器ができよう」
「弁慶さんのじゃないですよ」
「余れば」
「狙ってる」
アラタが笑った。
「その大きいのは弁慶に頼むかのう」
「任されよ」
圭介が頷く。
「適材適所ですね」
「拙僧が重い物係ということか」
「一番向いてます」
「否定はせぬ」
四人で持つ量を分け、荷を整える。
十分だった。
「よし。これで鍛冶屋への土産はできたのう」
圭介が笑う。
「帰ったらすぐ持って行くんですか?」
「もちろんじゃ」
「完成まで待てます?」
「待つしかあるまい」
「今すぐ欲しそうですね」
「欲しいに決まっておるじゃろう」
少しだけ笑い声が響いた。
その返りが消えたあと。
別の音が混じった。
アラタが顔を上げる。
志乃もすぐに弓へ手を伸ばした。
「今の、聞こえました?」
圭介が槍へ手をかける。
もう音はない。
アラタは奥を見る。
探していたものは手に入った。
これ以上、留まる理由はない。
「戻るかのう」
三人が頷いた。
志乃が紙を開き、来た道を確認する。
入口へ続く印も残っている。
弁慶は二人の少し前へ出た。
「帰るまでが探索であろう」
圭介が見る。
「玄馬さんみたいなこと言い始めた」
「誰だ、それは」
その時だった。
祭壇のさらに向こう。
光の届かない巨大な通路から、低い音が響いた。
ズ……ズズ……。
何かが動いている。
圭介が槍を構え、志乃が弓を上げる。
弁慶はひびの入った薙刀を握り直した。
アラタも剣へ手をかける。
音が止まった。
一瞬。
巨大な空間から、すべての音が消えた。
そして。
咆哮が響いた。
一つではない。
低い声と太い声が重なり、いくつもの獣が同時に吠えたように聞こえる。
巨大な石柱が震える。
足元の石床まで細かく揺れ、上方の闇から砂が落ちてきた。
圭介の顔から笑みが消える。
「……何ですか、今の」
志乃は答えず、弓を引き絞った。
弁慶が二人より半歩前へ出る。
もう一度。
今度は、さっきより近く。
咆哮が響いた。
アラタは剣を抜く。
「どうやら」
闇の奥を見ながら呟いた。
「このまま帰らせてはくれんようじゃのう」




