靴と討伐者
翌朝、アラタは新しい革靴の履き心地を確かめていた。
「どうです?」
「悪くない。昨日の草履より随分と動きやすいのう」
「当たり前です。あれ、サイズ合ってませんでしたからね」
町の一角にある履物屋だった。
壁には草履や下駄だけでなく、革靴や編み上げ式の長靴まで並んでいる。棚ごとに時代が違うような品揃えで、昨日見た町並みと同じく、ここでは何もかもが妙に混ざり合っていた。
役所でもらった貸与札を使い、アラタが選んだのは脛の下まで覆う茶色の革靴だった。
数歩歩き、軽くつま先を上げ下げする。
昨日の借り物の草履とは違い、足裏が滑らない。踵も浮かず、踏み込んだ時に力が逃げなかった。
「随分と頑丈じゃな」
「町の外へ出るつもりなんでしょう?」
「その予定じゃ」
「だったら草履よりこっちです」
アラタはもう一度足元を見た。
「これなら蹴っても脱げん」
「最初に出てくる感想がそれなんですか?」
「履物は大事じゃぞ」
「昨日まで裸足だった人が言わないでください」
店の奥で、店主らしい老人が声を殺して笑っていた。
巴が気まずそうに会釈する。
「すみません。朝から」
「構わんよ。元気なのは結構だ」
白い眉を垂らした老人は、アラタの足元を一度確認すると、「その革は馴染めばもう少し柔らかくなる」とだけ教えてくれた。
店を出ると、朝の通りはすでに人で埋まり始めていた。
魚を並べる声。
荷車の車輪。
鍛冶場から響く金属音。
朝の町を歩くのは、これが初めてだった。
「今日は討伐者の登録でしたよね」
「うむ」
「先に言っておきますけど、登録したからって好きな魔物を好きに狩っていいわけじゃないですからね」
「分かっておる」
「本当に?」
「お主、わしを何だと思っておる」
巴は少し考えた。
「強そうなのに、妙なところで雑な人」
「昨日会ったばかりで随分な評価じゃな」
「昨日だけで十分分かりました」
言い返そうとして、やめた。
自覚がないとは言い切れなかった。
討伐者の詰所は、昨日の役所から二本ほど通りを離れた場所にあった。
石造りの一階部分の上へ木造の二階を載せた大きな建物で、入口には巨大な角や牙がいくつも吊るされている。
飾りではない。
どれも刃物の跡や焦げた傷が残っていた。
中へ入ると、役所とは空気が違った。
朝から酒を飲んでいる者はいないが、剣や槍を持った人間が多い。革鎧、胴丸、見慣れない金属製の防具。装備も時代も揃っていない。
壁の大きな板には依頼書が並び、その前では数人が声を潜めて相談していた。
「巴じゃないか」
奥から太い声が飛んできた。
振り向いた男を見て、アラタは自然に足を止めた。
四十を少し越えたくらいだろう。
短く刈った黒髪には灰色が混じり、日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。左の顎から首筋へ細い傷痕が一本走り、藍色の上着の下には使い込まれた革鎧。腰の刀も、飾り気はないが柄だけが妙に手へ馴染んだ色をしていた。
派手さはない。
だが、立ち方に隙が少なかった。
「玄馬さん」
巴が手を上げる。
「この人です。昨日来たばかりで、討伐者になりたいって」
「昨日?」
男――榊玄馬は、アラタを頭から足まで見た。
新しい革靴のところで一度視線が止まる。
「装備はそれだけか」
「今のところはのう」
「武器は?」
「ない」
「鎧は?」
「ない」
玄馬は巴を見る。
巴は無言で両手を広げた。
「だから最初に靴を用意しました」
「正しいな」
「じゃろう?」
「お前じゃない」
「む」
玄馬の口元がわずかに上がった。
「榊玄馬だ。ここで新人の確認と、外仕事の割り振りを手伝ってる」
「小佐々新じゃ。よろしく頼む」
「……随分と若いな」
「それも昨日からよく言われる」
「そうか」
玄馬はそれ以上聞かなかった。
代わりに、受付台から一枚の板札を取り出す。
「討伐者になるだけなら難しくない。読み書きができて、規則を理解できて、町の外で自分の命に責任を持てること。それから最低限、他人を巻き込まずに戦えることだ」
「筋は通っておる」
「腕自慢ほど最後を忘れる」
そう言って、玄馬は建物の裏手へ向かった。
巴も当然のようについていく。
「お主も来るのか?」
「見ますよ」
「信用されておらんなあ」
「昨日会ったばかりですから」
裏庭には、土を固めた広い訓練場があった。
木の杭。
藁を巻いた人形。
丸太。
壁際には木剣や木槍が並んでいる。
すでに何人かが稽古をしていたが、玄馬が入ってくると場所を空けた。
「剣でいいか?」
「何でもよいぞ」
「何でも、か」
玄馬が木剣を一本投げる。
アラタは片手で受け取った。
重さを確かめる。
軽い。
木だから当然だが、形は悪くない。
「構えてみろ」
言われ、アラタは木剣を下げたまま立った。
玄馬の眉が少し動いた。
「構えないのか?」
「構えておるよ」
「そうは見えんが」
「そう見えるなら、それでよい」
巴が小声で「ああいう言い方するから怪しまれるんですよ」と呟いた。
聞こえていたが、アラタは無視した。
玄馬は壁際から自分用の木剣を取る。
「簡単に打ち込む。受けるか避けるかしろ。反撃してもいい。ただし頭と喉への強打は禁止だ」
「分かった」
「行くぞ」
合図の直後。
玄馬の足が土を蹴った。
見た目より速い。
一歩目を小さく、二歩目で一気に間合いを詰める。木剣は肩口へ向かうと見せて、途中で手首が返った。
脇腹。
新人相手の一撃ではあるが、きちんと反応を見ている。
アラタは半歩だけ前へ出た。
「な――」
玄馬の木剣が届く前に、柄を持つ右手首へ自分の左手を添える。
力で止めない。
軌道を僅かに外へずらし、そのまま身体を入れ替えた。
玄馬の剣が空を切る。
次の瞬間。
アラタの木剣の先が、玄馬の胸元で止まっていた。
訓練場が静かになる。
巴が目を丸くした。
玄馬だけは動かなかった。
しばらく胸元の木剣を見て、それからアラタを見る。
「……もう一度」
「よいぞ」
二度目は速かった。
玄馬は最初から様子を見る動きを捨てた。
踏み込みながら袈裟に振り下ろす。
アラタは避けない。
剣先が肩へ届く寸前に木剣を立て、玄馬の刀身へ斜めから触れさせる。
乾いた音が一つ。
受け止めたのではない。
流した。
玄馬の重心が前へ崩れる。
アラタはその横を通り過ぎながら、木剣の腹で背中を軽く叩いた。
「今のでよいか?」
玄馬は数歩先で止まった。
怒るでもなく、振り返る。
目つきだけが、先ほどまでと変わっていた。
「どこで習った」
「長く生きておれば、色々ある」
「十五歳でか?」
後ろで巴が吹き出した。
「その話、長くなりますよ」
「何だそれは」
「私もまだ全部聞いてません」
玄馬は二人を交互に見て、深く息を吐いた。
「まあいい。過去を話したくない討伐者なんて珍しくもない」
木剣を壁へ戻す。
「合格だ」
「随分あっさりじゃな」
「これ以上やって何を見る?」
もっともだった。
玄馬は詰所へ戻りながら続ける。
「ただし、腕があるのと、この世界の魔物を知ってるのは別だ。初仕事は新人向けからにする」
「異論はない」
「意外と素直ですね」
巴が言う。
「わしはいつでも素直じゃよ」
「昨日、武器より靴って三回言わせた人が?」
「昔のことをよく覚えておるのう」
「昨日です!」
玄馬が前を歩きながら肩を揺らした。
笑っているらしい。
受付へ戻ると、玄馬は小さな金属札を一枚出した。
木札より薄く、端に一つ穴が開いている。
「仮登録証だ。しばらくは低危険度の依頼だけ受けられる。問題を起こさず、何度か仕事を終えれば制限が外れる」
アラタは札を受け取った。
「魔物の危険度は?」
「依頼書に書いてある。だが数字だけ信じるな。同じ種類でも、場所や数で変わる」
「当然じゃな」
玄馬の眉がまた僅かに動いた。
「本当に新人か、お前」
「この町では新人じゃよ」
それ以上は答えない。
玄馬も追及しなかった。
「なら明日の朝、また来い。近郊の森で小型魔物が増えてる。新人を何人かまとめて出す予定だ」
「一人では駄目か?」
「駄目だ」
「即答じゃな」
「強い奴ほど最初に他人と組ませる」
アラタは首を傾げた。
玄馬は依頼書を一枚取り、机へ置いた。
「自分だけなら生きて帰れる奴が、仲間を見捨てるかどうか。逆に、助けようとして全員死ぬ馬鹿かどうか。腕だけじゃ分からん」
アラタは依頼書ではなく、玄馬を見た。
「なるほど」
今度の返事には、少しだけ感心が混じった。
「よい仕組みじゃ」
「褒めても危険な依頼は回さんぞ」
「残念じゃ」
「残念がるな」
巴と玄馬の声が重なった。
アラタは笑った。
詰所を出る頃には、昼が近づいていた。
通りの向こうから、出汁の匂いが流れてくる。
アラタがそちらを見る。
巴がすぐ気づいた。
「お昼にします?」
「うむ」
「さっき真面目な話してたのに、切り替え早すぎません?」
「仕事は明日じゃろう?」
「そうですけど」
「なら今日は町を覚える日じゃ」
アラタは歩き出す。
新しい靴は、もう足に馴染み始めていた。
背後で巴が追いついてくる。
「午後は共同宿の使い方と、お風呂の場所も教えますからね」
アラタの足が止まった。
「風呂があるのか?」
「ありますけど」
「それを早く言わんか」
「食べ物の時と同じ反応しないでください!」
明日の魔物より。
今日の昼飯と風呂の方が、今のアラタには少しだけ重要だった。




