迷宮へ
朝。
宿の食堂には、焼いた黒パンと薄い野菜のスープの匂いが残っていた。
アラタは最後の一切れを口へ放り込み、椅子から立ち上がる。
「では、行くかのう」
「待って」
巴がすぐに止めた。
「何じゃ?」
「傷薬、入れた?」
「入れたぞ」
「予備の灯りは?」
「それも入れた」
「縄」
「ある」
「水」
「ある」
「食料」
「お嬢ちゃん、わしは子供ではないぞ」
巴は机の上の袋を開き、中を覗いた。
「昨日、玄馬さんに言われたものを確認してるだけ」
灯り。予備の灯り。縄。水。食料。傷薬。それから壁へ印を残すための白い石片。
必要なものは一通り揃っていた。
向かいでは、志乃が昨夜写した地図をもう一度確認している。
圭介は背負い袋の紐を締め直していた。
「俺の方も大丈夫です」
「圭介くん、重かったら途中でちゃんと言うんだよ」
「はい」
巴は今度は志乃を見る。
「志乃ちゃんも。無理だと思ったら戻るんでしょ?」
「そのつもりです」
「ならよし」
アラタが首を傾げた。
「お嬢ちゃんは本当に来んのか?」
「行かないよ」
巴はあっさり答えた。
「迷宮まで付いていっても、私は足手まといになるだけだし。まだ町で診た方がいい人もいるから」
「そうか」
「その代わり、怪我して帰ってきたら怒るからね」
「怪我をした上に怒られるのか?」
「無茶したらね」
圭介が小さく笑った。
「玄馬さんと同じこと言ってますね」
「みんな同じこと言うのう」
「みんなそう思ってるってことでしょ」
巴はそう言って、アラタの袋へ傷薬をもう一つ押し込んだ。
「多くないか?」
「少ないよりいい」
アラタは何か言おうとして、やめた。
「では、行ってくる」
「うん。ちゃんと三人で帰ってきて」
その言葉に、志乃が小さく頷いた。
圭介も「行ってきます」と答える。
三人は宿を出た。
町の門を抜けると、朝の空気はまだ少し冷たかった。
古い坑道は、町からしばらく歩いた岩場の先にある。
最初は道らしい道が続いていたが、やがて草が増え、轍だけが細く残るようになった。
かつて鉱石を運んでいた名残だろう。
アラタは先を歩きながら、何度か周囲を見回した。
戦場へ向かう朝とは違う。
敵軍の数を考える必要もない。
誰が死ぬかを考えて歩くわけでもない。
知らない場所へ行き、知らないものを見る。
それだけで胸の奥が少し軽くなる。
百年以上生きても、こういうものは変わらないらしい。
「アラタさん」
後ろから圭介の声がした。
「何じゃ?」
「ちょっと楽しそうですね」
「そう見えるか?」
「かなり」
志乃も横から言う。
「昨日からずっとそうです」
「……皆、わしの顔を読みすぎではないか?」
二人が少し笑った。
しばらくして、斜面の下に黒く口を開けた坑道が見えた。
入口を支える木材は古び、一部は傾いている。
脇には何度も火を焚いた跡が残っていた。
圭介が中を覗き込む。
「思ったより暗いですね」
「坑道なんだから当たり前でしょ」
志乃が灯りを点ける。
「分かってますけど。入口から見ると、なんか……」
「帰りたくなったか?」
アラタが聞く。
「まだ入ってもいませんよ」
「なら大丈夫じゃな」
「そういう問題ですか?」
志乃が地図を開き、入口の形と見比べる。
「ここで合ってます。浅いところは地図がありますから、まずはその通りに進みましょう」
圭介が深く息を吐いた。
三人は灯りを掲げ、坑道へ入った。
外の光は十数歩も進めば細くなった。
壁にはつるはしの跡が残り、ところどころに朽ちた支柱が打ち込まれている。足元には砕けた石と湿った土が続いていた。
水の落ちる音が、思ったより遠くまで響いている。
アラタは腰の剣へ手をやった。
鍛冶屋で買った安い予備の剣。
試しに少しだけ腕を動かす。
右には壁。
左にも壁。
大きく振るには狭い。
「確かに、これは窮屈じゃのう」
「昨日、玄馬さんに言われてましたよね」
圭介が後ろから言う。
「まだ何もしておらんぞ」
「しようとしてましたよね?」
「お主まで巴お嬢ちゃんのようなことを言うようになったのう」
その時だった。
志乃が足を止めた。
「待って」
声が低くなる。
全員が止まる。
坑道の先。
石を擦るような小さな音。
次に、低い唸り声。
暗がりから、二本の白い牙が覗いた。
一頭。
その後ろに、もう二頭。
三頭の裂牙犬がゆっくり姿を現す。
圭介の顔から笑いが消えた。
槍を構える。
「アラタさん」
「うむ」
アラタは剣へ手を掛けたまま、抜かなかった。
圭介が一瞬だけ横を見る。
「……やらないんですか?」
「三頭じゃろう?」
「三頭ですけど」
「前にも倒したではないか」
「それは、そうですけど」
志乃はすでに矢をつがえていた。
「圭介。正面だけ見て」
その声に、圭介の視線が戻る。
裂牙犬の一頭が姿勢を低くした。
圭介も槍を下げる。
突きに行かない。
穂先を置く。
以前、アラタに教えられた構え。
「来る」
志乃が言った。
裂牙犬が地を蹴った。
圭介は動かなかった。
飛び込んできた身体が、自ら槍の穂先へ突っ込む。
衝撃で足が半歩下がった。
それでも槍は離さない。
同時に右側の一頭が壁際を抜けようとした。
弦が鳴る。
志乃の矢が肩口へ刺さり、裂牙犬の身体が横へ流れた。
「圭介、そっち!」
「はい!」
圭介が槍を引き抜き、向きを変える。
傷を負った裂牙犬が飛びかかる。
今度も振り回さず、一歩下がってもう一度穂先を置く。
牙が届くより先に、槍が胸へ入った。
残った一頭が唸る。
だが二頭が倒れたのを見ると、ゆっくり後ずさった。
志乃が弓を向ける。
裂牙犬はさらに下がり、そのまま暗闇へ走り去った。
しばらく、圭介は槍を構えたままだった。
「……行きました?」
「行ったね」
志乃が弓を下ろす。
圭介もようやく息を吐いた。
「緊張した……」
アラタが近づく。
「上手くなったのう」
「めちゃくちゃ怖かったですけど」
「怖くても動けたなら十分じゃ」
圭介は倒れた裂牙犬を見た。
「前よりは、ちょっとだけ」
「それでよい」
志乃も矢を拾いながら言う。
「私も余裕なかったけどね」
「志乃さん、普通に見えましたよ」
「外したら圭介に行くと思ってたから必死だった」
「それ今言わないでくださいよ」
アラタは二人を見て、少し笑った。
初めて会った頃なら、もっと固かった。
怖さが消えたわけではない。
それでも、自分の役目を選べるようになっている。
「では進むかのう」
坑道は何度も枝分かれした。
そのたびに志乃が地図を開く。
壁には過去の探索者が残した印があった。
二本線。
丸。
矢印。
意味の分からない傷も多い。
三人も曲がり角ごとに白い石で小さな印を足していく。
「これなら帰りも分かりますね」
圭介が言う。
志乃は壁の印を確認した。
「そうだといいけど」
「昨日の話、気にしてます?」
「気にはしてる」
帰りに見つからなかった目印。
玄馬は見落としや魔物の可能性もあると言っていた。
何が起きたのかはまだ分からない。
だから今は、自分たちで確かめながら進むしかない。
奥へ行くほど、人の痕跡は減っていった。
朽ちた支柱。
錆びた金具。
捨てられたつるはし。
やがて、それらもほとんど見なくなる。
何度目かの分かれ道で、志乃が立ち止まった。
「ここです」
アラタと圭介も足を止める。
志乃が地図を灯りへ近づける。
一本の線が、そこで終わっていた。
その先には何も描かれていない。
白紙。
しかし目の前には、さらに奥へ続く暗い道がある。
圭介が道と地図を交互に見る。
「……本当にここから何もないんですね」
「地図にはね」
志乃が答える。
アラタは灯りを少し持ち上げた。
光は数歩先までしか届かない。
その向こうは、何も見えない。
黒い金属があるのか。
魔物がいるのか。
さらに別の何かが待っているのか。
まだ誰も知らない。
アラタは二人を見る。
「ここから先は地図がない。戻りたくなったら、すぐ言うんじゃぞ」
志乃が頷く。
「はい」
圭介も少し遅れて頷いた。
「行きます」
アラタは笑った。
「では、行こうかのう」
三人の灯りが、まだ誰も地図に描いていない暗闇へ入っていった。




