報告
東方でチンギス軍が退いてから、しばらく後。
その報せが西方戦線へ届く頃になっても、アレキサンダーの軍は大きく動いていなかった。
小競り合いはある。
斥候同士がぶつかり、遠くで弓が飛び、時折、騎馬の一団が土煙を上げる。
死人も出る。
それでも、織田信長が待っている戦にはならない。
攻められないのではない。
攻めてこない。
あれから、その一点だけは何も変わっていなかった。
陣の前に立ち、信長は遠くの敵陣を見ていた。
旗の数は減っていない。
馬もいる。
兵糧を運ぶ車列も途切れていない。
崩れているようには到底見えなかった。
横に立つ武将が口を開く。
「本日も、大きな動きはありません」
「そうであるな」
「兵の中には、向こうも攻めあぐねているのではないかと見る者もおります」
信長の目が細くなる。
「締めろ」
「は」
「そう思い始めた兵から死ぬ」
武将が頭を下げた。
信長は再び敵陣を見る。
アレキサンダーには、まだ兵がいる。馬も物資もあり、前線を押し出すだけの力は残っている。
それでも来ない。
何かを待っているのか。
迷っているのか。
こちらにそう思わせたいだけなのか。
理由は、まだ読めない。
「面倒な男だ」
信長が呟いた。
「アレキサンダーですか」
「他に誰がおる」
その時だった。
後方から馬が駆けてくる。
泥まみれの伝令が陣へ入り、馬を飛び降りた。
「殿!」
信長が振り返る。
「東より急報です!」
周囲の者たちも顔を向けた。
「申せ」
伝令が息を整える。
「チンギス・ハーンの軍が退きました」
信長の表情が止まった。
「……本隊か」
「はい。本隊です。宿場周辺へ展開していた各部隊も東へ撤退。追撃は行われておりません」
近くにいた武将たちがざわめく。
信長だけは伝令を見たままだった。
「何があった」
伝令は一瞬だけ迷った。
「報告が……少々、信じ難く」
「信じるかどうかは俺が決める。言え」
「はっ」
伝令が顔を上げる。
「白い龍が現れたとのことです」
誰も声を出さなかった。
「龍?」
「巨大な白龍です。チンギス軍の前へ現れ、戦況を一変させたと」
「どこから現れた」
「それが……」
伝令の表情が曇る。
「以前ご報告した、アラタという少年と関係があるようです」
信長の眉が動いた。
「続けろ」
「龍は人の姿にもなったと。白銀の髪をした女で、アラタを……」
伝令が言葉を選ぶ。
「何と呼んだ」
「『我が主』と」
周囲から小さなどよめきが起きた。
「十五ほどの少年を、龍が主と呼んだというのか?」
武将の一人が思わず尋ねる。
「複数の証言が一致しています」
信長の口元がわずかに上がった。
「ククク……」
「殿?」
「面白いではないか」
董卓を退けた少年。
軍を率いていたわけでもない。
敵将を追うより民を守った。
今度は、その少年を主と呼ぶ白い龍まで現れた。
「龍の名は」
「リーズ=アルヴァレイン、と名乗ったとのこと」
信長は一度だけ、その名を口の中で転がした。
聞き覚えはない。
少なくとも、信長が知る歴史上の英雄ではなかった。
「チンギスは死んだか」
「いえ。重傷を負ったものの、撤退しています」
信長の笑みが消える。
「生きておるのか」
「はい」
「アラタ本人は」
「生きています。チンギス本人とも直接刃を交えたとの報告があります」
信長の目が変わった。
「ほう」
龍だけではない。
あの少年自身も、チンギスと戦った。
「勝ったのか」
「そこまでは判然としません。途中で白龍が現れ、その後は――」
「分かった」
信長は止めた。
分からない部分を想像で埋めても意味はない。
「前に命じた調べはどうした」
別の男が一歩前へ出る。
「続けております」
「出たものだけ言え」
「アラタという少年が、あの町へ現れたのはそう古くありません」
「どこの生まれだ」
「不明です」
「家は」
「確認できません」
「親は」
「同じく」
信長が鼻で笑う。
「何も分からぬではないか」
男の顔が強張る。
「申し訳ありません。ただ、町へ来た後の動きは追えております」
「申せ」
「役所で新参者として登録。その後、討伐者として仕事を始めています。どこかの軍へ属していた形跡はありません」
信長の目がわずかに笑った。
「それで董卓を退け、チンギスと刃を交え、龍に主と呼ばれるか」
「……はい」
「ますます分からんな」
だが、声には不快さがなかった。
未知を嫌っているのではない。
分からないままにしておくことを嫌っているだけだ。
「会ってみたいものだ」
近くの武将が信長を見る。
「東へ向かわれますか」
信長の表情が一瞬で戻った。
「馬鹿を申すな」
「はっ」
「あれを置いてか?」
視線が西へ戻る。
アレキサンダーの軍は、まだそこにいる。
東方からの圧力は一旦引いた。
だが、チンギスは生きている。
そして西には、まだ別の帝王がいる。
「アラタの調べは続けろ」
「はっ」
「急ぐ必要はない。分かったものから上げればよい」
「承知しました」
信長はそれ以上、アラタについて口にしなかった。
今すぐ会う必要はない。
東の少年が何者であろうと、目の前の敵が消えたわけではない。
信長は再び西を見る。
「さて」
小さく呟いた。
「東の圧が引いたぞ」
その声は、遠くの敵へ向けたものだった。
「お主はどうする、アレキサンダー」
◇
同じ頃。
アレキサンダーの陣にも、東方からの報せが届いていた。
大きな幕舎の中。
卓上には何枚もの地図が広げられている。
街道、川、高地。
信長軍の陣と、その向こうにある町々。
アレキサンダーは報告を聞き終えると、しばらく地図を見ていた。
「チンギス・ハーンは撤退」
部下が確認する。
「東側からの圧力は、一旦弱まったと見てよろしいかと」
「そうだね」
柔らかな声だった。
戦場の王とは思えないほど穏やかに聞こえる。
「信長はどう動くと思う?」
「東方の脅威が弱まった以上、西への備えを厚くする可能性があります」
「僕もそう思う」
部下は地図へ目を落とした。
「ならば、今のうちに攻めるべきでは」
アレキサンダーは返事をしなかった。
「敵が態勢を整える前に主力を押し出せば、崩せる可能性があります」
「分かってるよ」
声は穏やかなままだった。
男が黙る。
軍事だけで考えれば、間違ってはいない。
東方の脅威が薄れた以上、信長が西へより集中できるようになる可能性は高い。
その程度のことは、アレキサンダー自身が一番よく分かっている。
なのに。
視線が地図の一角で止まる。
信長軍。
その中心にいる男。
織田信長。
アレキサンダーはしばらく、その名の書かれた札を見ていた。
「陛下?」
「ん?」
「いかがなさいました」
「いや」
少し間を置いて、笑う。
「本当に、やりにくい相手だと思ってね」
「信長が、ですか」
「うん」
部下は特に疑問を持たなかった。
敵将として厄介だという意味に聞こえたのだろう。
アレキサンダーも、それ以上は言わない。
「斥候を増やして」
「は」
「信長軍の配置に変化がないか確認して。補給路ももう一度洗ってほしい」
「本隊は」
短い沈黙が落ちる。
「まだ動かさない」
部下の顔に、ほんの僅かに疑問が浮かんだ。
だが口にはしない。
「承知しました」
頭を下げ、幕舎を出ていく。
残されたアレキサンダーは椅子へ腰を下ろした。
兵はいる。
馬もいる。
物資も足りている。
あとは、自分が命じれば動く。
その命令を、今日も出さなかった。
「困ったなあ……」
誰もいない幕舎で、小さな独り言が漏れる。
王らしい言葉ではなかった。
本人も気づいたのか、少しだけ苦笑する。
その時。
幕舎の入口から声がした。
「陛下」
「どうしたの?」
「もう一つ、東から妙な報告が」
アレキサンダーが顔を向ける。
「妙?」
「チンギスを退かせた戦場に、白い龍が現れたと」
「龍?」
「そして、その龍が一人の少年を『我が主』と呼んだそうです」
アレキサンダーの表情が変わった。
「少年?」
「名は、アラタ」
「アラタ……」
一度だけ、その名を繰り返す。
「どんな子?」
「十五ほどに見える少年だと。以前、董卓本人を退けた者と同一人物です」
「軍人?」
「いえ。少なくとも、どこかの軍を率いているわけではないようです」
「へえ」
妙に軽い返事だった。
だが、視線は地図へ落ちたまま動かない。
「その龍は?」
「リーズ=アルヴァレインと名乗ったとのこと」
「聞いたことないな」
アレキサンダーは指先で机を軽く叩き、少し考えた。
「そのアラタって子のこと、調べておいて」
「詳しく、ですか」
「うん。できるだけ」
「承知しました」
部下が退出する。
また一人になった。
アレキサンダーは地図を見る。
西には信長。
東にはチンギス。
そして今度は、龍に主と呼ばれる少年。
少し前まで、世界はもっと単純に見えていた。
敵がいて、進むべき道があり、勝つか退くかを決めればよかった。
なのに最近は、知らないものばかり増えていく。
「アラタ、か」
もう一度だけ呟く。
それから、地図の向こうにある信長軍の陣へ視線を戻した。
「ほんと、面倒になってきたなあ」
口調だけを聞けば、戦場を前にした大王のものには聞こえない。
だが、その声を聞く者は誰もいなかった。




