敗者は牙を研ぐ
夜が明けても、チンギスの機嫌は直らなかった。
東へ続く街道を、傷ついた軍勢が進んでいた。
馬蹄の音。
荷車の軋み。
負傷兵の呻き。
それ以外は、妙なほど静かだった。
誰も大声を出さない。
誰も笑わない。
軍列の中央を進む一頭の馬へ、できるだけ視線を向けないようにしている。
その背に、チンギスがいた。
焼け焦げた衣はすでに脱ぎ捨てられ、胸から肩にかけて新しい布が巻かれている。腕にも酷い火傷が残っていた。
本来なら馬に乗っていられる傷ではない。
それでも降りなかった。
細い目で前だけを見つめ、手綱を握っている。
誰も休めとは言わない。
少し前、一人だけ言った。
治療を担当していた兵だった。
「大ハーン、傷が開きます。少しだけでも――」
そこまでだった。
チンギスが顔を向けただけで、兵は口を閉じた。
「儂がいつ休むか、お前が決めるのか」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だからこそ、その場にいた全員が動きを止めた。
兵は青ざめて首を振る。
「……いいえ」
「なら、二度と言うな」
それから誰も何も言わなくなった。
チンギスは前を向く。
頭の中では、同じ言葉が何度も繰り返されていた。
――ネズミ。
奥歯が鳴った。
まただ。
――ネズミ。
手綱を握る指へ力が入る。
あの女。
自分を見下ろし。
帝王を否定し。
何度も何度も、ネズミと呼んだ。
白い龍へ姿を変えた時のことも覚えている。
空を覆うほどの翼。
見上げなければ顔すら見えない巨体。
そして、炎。
真正面から受けた。
一瞬だけ、何もなくなった。
熱さも。
痛みも。
音も。
死んだ。
そう思った。
だが、次に気づいた時には、また息をしていた。
どうやって戻ったのかは分からない。
以前から、自分の身体がおかしいことは知っている。
普通の人間より傷が塞がるのが早い。
深く斬られても、致命傷になりにくい。
だが、昨夜のあれは違う。
あれで生きている。
理由は分からない。
チンギスは胸元へ手を当てた。
傷はまだ痛む。
それでも治り始めている。
「……気に入らん」
自分の身体なのに、自分でも分からない。
なら、いずれ分からせればいい。
使えるものなら使う。
それだけだ。
「ネズミ……」
声が漏れた。
周囲を進んでいた兵たちの背筋が固くなる。
誰も振り返らない。
少し後ろを進んでいた董卓も同じだった。
普段の董卓なら、チンギスへ何か言ったかもしれない。
敗北して軍門へ下った今でも、完全に牙を抜かれたわけではない。
気に入らないことには顔をしかめる。
言うべきことがあれば口にもする。
以前、自分がアラタに敗れて戻った時、チンギスにはまだ余裕があった。
董卓の敗北を聞き、アラタの話を聞き、最後には楽しそうに笑っていた。
今は違う。
董卓は前を行く小さな背中を一度だけ見て、すぐに視線を外した。
今は触らない方がいい。
そう判断した。
腹立たしいほど幼い背中なのに、その周囲だけ空気が張りつめている。
チンギスは負けた。
それも、何一つ言い訳のできない形で。
董卓には、その屈辱がどれほどこの少年の腹を煮え立たせているか想像できた。
だからこそ、何も言わない。
軍列の前方で荷車が止まった。
車輪がぬかるみにはまり、負傷兵を乗せたまま動けなくなっている。
数人が必死に押していた。
列が詰まり始める。
「どけろ」
短い一言。
兵たちが顔色を変えた。
「急げ!」
「押せ!」
一人が泥へ転ぶ。
別の兵が腕を掴んで引き起こす。
チンギスは待たず、その横を馬で通り過ぎた。
「遅れるな」
背後で、兵たちがさらに必死に車輪を押し始めた。
しばらく進んだところで、前方から一騎が駆けてきた。
斥候だった。
軍列を縫うように進み、チンギスの前まで来ると馬から飛び降りる。
「大ハーン!」
チンギスの視線が落ちる。
「言え」
「東から報告です」
「早くしろ」
斥候の喉が鳴った。
「支配地の外れに置いていた兵が、やられました」
「誰に」
「男が一人です」
「何人やられた」
「四十七」
少し後ろにいた董卓も顔を上げた。
「一人で?」
「はい」
「武器は」
「長柄の武器を使ったと」
「術は」
「分かりません」
さっきまで胸の内を焼いていた怒りとは違うものが、チンギスの顔に浮かび始める。
「生き残りは」
「二人」
「連れてこい」
「はっ」
斥候が立ち上がりかける。
「待て」
動きが止まる。
「逃げてきたのか」
斥候は答えに詰まった。
「……はい」
チンギスの口元がわずかに歪む。
「連れてこい」
声が冷たくなる。
「儂の前へ」
しばらくして、生き残った兵が二人連れてこられた。
一人は片腕を布で吊り、もう一人は頭から血の滲んだ布を巻いている。
チンギスを見るなり、その場へ膝をついた。
「大ハーン……」
「顔を上げろ」
二人が恐る恐る顔を上げる。
「何を見た」
腕を吊った兵が答える。
「大きな男です」
「そんなことは聞いてない」
兵の顔が強張る。
「何をした」
「槍を……」
「どう振った」
「横に、一度――」
「それで」
「三人が飛びました」
チンギスの眉がわずかに上がる。
「斬られたのか」
「分かりません。気づいた時には……三人とも地面に」
「次」
もう一人が慌てて口を開く。
「馬もやられました」
「何頭」
「二頭です。乗っていた者ごと」
「火は」
「出ていません」
「光は」
「見ていません」
「何か言ったか」
「ほとんど……」
チンギスの口元が上がった。
幼い顔に似合わない、獰猛な笑みだった。
「腕だけか」
二人は答えられない。
四十七人。
一人。
術らしいものは見ていない。
長柄の武器一本。
「面白い」
小さな声だった。
だが、近くにいた者は全員聞いた。
兵たちの間に別の緊張が走る。
董卓もチンギスを見る。
敗北して以来、初めてだった。
チンギスが楽しそうに笑ったのは。
「なぜ生きている」
突然の問いに、生き残りの二人が固まった。
「……え」
「四十七人やられて、お前たちだけなぜいる」
腕を吊った兵が俯く。
「逃げ……ました」
チンギスの笑みが消えた。
「そうか」
兵の肩が震える。
「申し訳――」
「もういい」
チンギスは興味を失ったように目を逸らした。
「そいつらを下げろ」
近くの者が動く。
「次は逃げるなと伝えておけ」
二人の顔が上がる。
「次……?」
「儂の兵でいるならな」
それだけだった。
「案内できるか」
「はい」
「今から行く」
周囲がざわついた。
誰も大声では止めない。
それでも、視線がチンギスの傷へ集まる。
包帯にはまだ血が滲んでいる。
白い龍の炎を受けてから、一日も経っていない。
チンギスはその視線に気づいた。
「何だ」
ざわめきが止まる。
誰も答えない。
「儂が行くと言った」
それで終わりだった。
チンギスが馬首を東へ向ける。
そこで初めて、董卓へ顔を向けた。
「董卓」
呼ばれた董卓の眉がわずかに動く。
「何だ」
声はいつも通り低く太い。
だが、自分から近づこうとはしない。
「本隊を戻せ」
「……分かった」
「負傷者と荷もだ。遅い奴は置いていけ」
董卓の目が細くなる。
それでも反論しない。
「お前は軍を立て直せ」
「チンギスはどうする」
「見れば分かる」
董卓は東へ向いた馬首を見た。
次に、包帯から滲む血を見る。
口を開きかける。
だが、何も言わなかった。
今のチンギスに何を言っても止まらない。
董卓は低く息を吐く。
「分かった」
それだけ答えた。
チンギスも、もう董卓を見ていなかった。
「二十騎」
命令が飛ぶ。
「儂について来い」
すぐに二十騎が軍列から外れた。
誰も迷わない。
選ばれたことを誇る者もいれば、顔を強張らせる者もいる。
チンギスはそんなことに興味を示さなかった。
案内役の兵へ顎を向ける。
「行け」
「はっ!」
馬が走り出す。
チンギスも続いた。
傷が痛む。
身体の奥が熱い。
それでも止まる気はなかった。
白い龍に負けた。
その事実は消えない。
今の自分では届かなかった。
なら。
届くまで強くなればいい。
どうやって。
そんなものは後で考える。
戦う。
奪う。
踏み潰す。
自分より上にいるものを、一つずつ引きずり下ろす。
最後には、あの白い龍も。
「ネズミ……」
馬上で、また言葉が漏れる。
口元が引きつった。
次は。
あの女の顔から余裕を消す。
そう考えるだけで、胸の奥を焼いていた屈辱が少しだけ別の熱へ変わった。
東へ進むにつれ、人の気配が減っていった。
やがて、最初の死体が見えた。
街道脇に兵が一人倒れている。
首が妙な方向へ曲がっていた。
その先に二人。
さらに先にも。
血はある。
だが、戦った跡が妙だった。
激しく斬り合ったようには見えない。
地面へ大きく抉れた跡があり、その周囲へ兵が倒れている。
馬の死体もあった。
一頭は胴が大きく陥没している。
チンギスが馬を止めた。
下りる。
傷ついた身体で歩き、地面へ残った跡を見る。
「ここで振ったのか」
案内役が頷く。
「はい。あの男が一度……」
チンギスが抉れた地面へ手を触れる。
土が深く割れていた。
笑みが戻る。
「いい」
兵たちは黙っている。
「強い」
声に喜びが混じっていた。
つい昨夜、完膚なきまでに敗れたばかりだというのに。
その様子を見ていた兵の一人が、ごく小さく息を呑む。
チンギスは気にも留めなかった。
再び馬へ乗る。
「近いな」
「この先です」
「急げ」
丘を一つ越えた。
その向こう。
街道から少し外れた草地に、人影があった。
大きい。
遠目でも分かる。
異様に大きな男だった。
周囲には折れた槍。
倒れた馬。
散らばった武具。
その中心で、男は岩へ腰を下ろしていた。
何かを食っている。
四十七人を倒した直後とは思えないほど、平然としている。
チンギスが馬を止めた。
男も顔を上げた。
視線がぶつかる。
チンギスの笑みが深くなった。
説明などいらなかった。
強い。
見ただけで分かる。
男もまた、ゆっくりと立ち上がった。
傍らに置かれていた長柄の武器を掴む。
立ち上がると、さらに大きい。
広い肩と太い腕。長い黒髪は後ろで無造作に束ねられ、精悍な顔から鋭い目だけがチンギスを真っ直ぐ捉えていた。
二十騎の兵が無意識に馬を止める。
チンギスだけが前へ出た。
馬から降りる。
「お前」
男がこちらを見る。
「名は」
少しの沈黙。
やがて、低い声が返ってきた。
「項羽」
チンギスの目が細くなる。
知らない名ではない。
覇王。
秦を滅ぼし、天下を争った男。
その名を持つ者が、目の前にいる。
男――項羽が長柄の武器を肩へ担ぐ。
「お前は」
チンギスは笑った。
敗北の屈辱も。
傷の痛みも。
その瞬間だけは遠のいていた。
獲物を見つけた狼のような顔で。
「チンギス・ハーン」
一歩、前へ出る。
「大ハーン」
さらに一歩。
「蒼き狼」
そして、項羽の目を真っ直ぐ見上げる。
「帝王だ」
項羽は黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ口元が上がる。
チンギスも笑う。
今度は目の前にいる。
届くのか。
届かないのか。
それを確かめられる相手が、そこにいた。




