竜王は帰らない
焼けた草の匂いが、まだ夜の空気に残っていた。
遠ざかる角笛の音が聞こえなくなる頃、巨大な白い龍の輪郭がゆっくりと縮み始めた。
純白の鱗が光へほどけ、翼が消える。
やがて、そこには白銀の髪を揺らす女が立っていた。
人の姿へ戻ったリーズは、何事もなかったようにアラタへ歩いてくる。
「我が主」
つい先ほどまで戦場を焼いていた竜王とは思えないほど、機嫌のよい声だった。
だが、アラタは笑っていない。
「リーズ」
低い声だった。
リーズの足が止まる。
「……何だ、我が主」
「何だ、ではない」
「我はちゃんと兵を巻き込まなかったぞ、我が主」
「そういう問題ではないわ!」
少し離れたところで片づけを始めていた者たちが、思わず振り返った。
リーズは目を逸らす。
「本気を出すなと、何度言った?」
「……何度か言っていたな、我が主」
「何度かではない。何度もじゃ」
「だが、あのネズミが――」
「言い訳するでない」
「……」
「帝王と名乗ったから腹が立ったのは分かる。じゃが、だからといって龍に戻ってあれを吐く奴があるか」
リーズは黙った。
少しして、唇を尖らせる。
「我が主と同じ名を名乗った」
「知っておる」
「しかも本物だと言った」
「聞いておった」
「なら――」
「リーズ」
名前を呼ばれただけで、言葉が止まった。
「……悪かった、我が主」
「うむ」
「次から気をつける」
「本当かのう」
「信用がないな、我が主」
「誰のせいじゃと思っておる」
リーズは不満そうだったが、それ以上は言い返さなかった。
その様子を、すぐ近くにいた玄馬が見ていた。
血と土で汚れた剣を下げたまま、リーズを警戒するように見る。
「なあ」
リーズは反応しない。
「おい。あんた」
やはり返事はない。
リーズはアラタの袖についた土を払っている。
「我が主、こんなところで寝起きしているのか?」
「話を変えるでない」
「服も安物だな、我が主」
「聞いておるか?」
「剣までただの鉄ではないか。我が主、どうしてこんな――」
「おい!」
玄馬の声が大きくなった。
リーズがようやく目だけを向ける。
「何だ」
「何だじゃない。さっきから聞いてるだろ。あんた、結局何者なんだ?」
「我に話しかけるな」
「は?」
「今、我は我が主と話している」
それだけ言うと、本当に興味を失ったように視線を外した。
玄馬の額に青筋が浮かぶ。
「こいつ……」
「リーズ」
アラタの声が落ちた。
「何だ、我が主」
「その態度はやめんか」
リーズは不思議そうに瞬く。
「なぜだ、我が主」
「玄馬だけではない。ここにおる者たちには、わしがずいぶん世話になったんじゃ」
リーズの表情が変わった。
「我が主が?」
「うむ。巴には、わしがこの世界へ来たばかりの頃から世話になった。何も分からんわしに、町のことも、飯や寝床のことも教えてもろうた」
アラタは玄馬を見る。
「玄馬にも何度も助けてもろうた。今回の戦でものう」
リーズが、ゆっくりと玄馬を見る。
さっきまでとは明らかに違う目だった。
ちょうどそこへ巴もやってきた。
袖には血がつき、顔には疲労が残っている。
「アラタ」
「巴。怪我人は?」
「まだいる。でも、ひとまず動ける人は落ち着いた」
巴はそう答えてからリーズを見る。
「この人が……さっきの?」
リーズは一瞬だけ黙った。
アラタがじっと見る。
「……リーズ=アルヴァレインだ」
玄馬と巴が顔を見合わせる。
リーズは二人へ向き直った。
「我が主が世話になったようだな」
一拍置く。
「礼を言う。我が主を助けてくれて、ありがとう」
玄馬が眉をひそめる。
「変わりすぎだろ」
「我が主の恩人だ。最初に言え」
「俺が悪いのか?」
「そうだ」
「そうなのか?」
アラタが額を押さえる。
「リーズ、そこは違う」
「そうか、我が主」
巴が思わず笑った。
リーズが巴を見る。
「お前は、我が主がここへ来た頃から世話をしていたのか?」
「まあね。最初は町を案内したり、生活のことを教えたり」
リーズの表情が、さらに変わった。
巴の両手を取る。
「ありがとう」
「え?」
「何も分からない我が主を助けてくれたんだろう。本当にありがとう」
「いや、そんな大げさな……」
玄馬が横から口を挟む。
「俺との差がひどくないか?」
リーズが玄馬を見る。
「お前にも礼は言った」
「温度差の話だ」
「何の問題がある?」
「もういい」
アラタが小さく笑う。
「分かりやすい奴じゃろう」
「我が主のことだから当然だ」
「そこを当然と言い切るから分かりやすいんじゃ」
巴がリーズとアラタを交互に見る。
「本当に昔からこんな感じなの?」
「こんな感じじゃ」
リーズがすぐに胸を張る。
「違うぞ、我が主。我は昔から我が主が一番だった」
アラタがリーズを見る。
「いや、初めて会った時はわしを殺そうとしたじゃろ」
リーズが黙った。
玄馬が眉を上げる。
巴は二人を見比べた。
「ちょっと待って。殺そうとしたって何?」
「長くなるからのう」
アラタは苦笑する。
「そのうち話そうかの」
「気になるんだけど」
「そのうちじゃ」
リーズは何事もなかったように頷いた。
「それでいい、我が主」
「お主が決めることではないじゃろ」
玄馬が小さく息を吐く。
「やっぱり面倒くさいな、お前ら」
◇
負傷者の確認と最低限の片づけが進み、アラタたちは宿場の端に腰を下ろしていた。
リーズはアラタの真正面に座り、先ほどからじっと顔を見ている。
「何じゃ」
「我が主」
「うむ」
「やはり、おかしい」
アラタが眉を上げる。
「何がじゃ」
リーズはアラタの腕を掴んだ。
手首から肩へ触れ、確かめるように眺める。
「おい、リーズ」
「我が主、ずいぶん弱くなっているな」
玄馬がアラタを見る。
巴も見る。
「……これで?」
玄馬が言った。
「これで弱いの?」
巴まで続いた。
「やめい。二人まで乗るでない」
リーズは真剣だった。
「いや、本当に弱いぞ、我が主」
「二度言うでない」
「剣の使い方は変わっていない。動きも我の知っている我が主だ」
リーズはアラタの腕を持ち上げ、首を傾げる。
「だが、力がない」
「力がないと言われると傷つくのう」
「まるで、我と初めて会った頃みたいだ」
アラタの表情が少し変わった。
「……そこまでか?」
「そのくらいだ、我が主」
リーズは何度か頷く。
「なるほど。だからあんなネズミに時間がかかっていたのか」
「チンギスは普通に強かったぞ」
「我から見ればネズミだ」
「お主基準で話すでない」
玄馬が腕を組む。
「俺には、アラタも十分おかしいけどな」
「お主まで何を言っておる」
巴も頷いた。
「うん。普通ではないと思う」
「巴お嬢ちゃんまで……」
リーズが少し満足そうに頷く。
「当然だ。我が主だからな」
「何に納得しておるんじゃ」
アラタは自分の手を見る。
少年の手。
何度見ても、前の人生で最後まで使っていた老人の手とは違う。
「身体ごと若返ったからのう」
指を握り、開く。
「技や覚えておることは残っておる。じゃが、向こうで長いことかけて身につけたものまで、全部この身体についてきたわけではなさそうじゃ」
リーズがじっと聞いている。
「わし自身、どこまで失っておるのかは分からんがの」
「そうか」
リーズの口元が、少し上がった。
アラタがそれを見逃さない。
「……何で嬉しそうなんじゃ」
「嬉しいからだ、我が主」
「何がじゃ」
「また我が主が強くなっていくところを、最初から見られる」
「お主なあ……」
「今度は我もいる、我が主」
リーズはますます嬉しそうになる。
「その身体も鍛え直さないとな。我が主ならすぐ戻る」
そして、アラタの腰へ視線を落とした。
「それと、我が主」
「何じゃ」
「その剣はもう駄目だ」
「ん?」
アラタが鉄剣を抜いた。
改めて見ると、刃にはいくつもの欠けがあり、根元近くには細い亀裂が走っている。
「ずいぶん酷使したからのう」
アラタが刃を傾けた。
小さな音がした。
次の瞬間、亀裂の入っていた場所から鉄剣が折れた。
半分になった刃が地面へ落ちる。
「……」
アラタは折れた剣を見る。
リーズも見る。
玄馬と巴も見る。
「我が主」
「何も言うな」
「そんな物であのネズミと戦っていたのか、我が主」
「何も言うなと言ったじゃろう」
玄馬が折れた刃を覗き込む。
「それ、戦いの途中からかなり欠けてたぞ」
アラタが玄馬を見る。
「早く言わんか」
「普通、自分で気づくだろ」
「戦っておったんじゃぞ」
「俺も戦ってたよ」
巴が小さく笑った。
リーズだけは真顔だった。
「駄目だ、我が主」
「何がじゃ」
「今後、武器は我が確認する」
「保護者になるでない」
「我が主がこんな剣を平気で使うからだ」
「使えておったからよいではないか」
「折れたぞ、我が主」
アラタは言葉に詰まった。
玄馬が吹き出す。
「負けたな」
「うるさいわい」
リーズは満足そうに頷いた。
「次は、もっと我が主に相応しいものを持たせる」
「お主、わしを育て直す気でおらんか?」
「そのつもりだ、我が主」
即答だった。
「やめい」
「なぜだ、我が主」
「なぜ嬉しそうなんじゃ」
「我が主とまた最初からできるんだぞ?」
本気で分かっていない顔だった。
アラタはため息をつく。
だが、その口元は少しだけ笑っていた。
リーズもそれを見て笑う。
「決めたぞ、我が主」
「今度は何じゃ」
「我もここに残る」
アラタがリーズを見る。
「向こうはどうする」
「問題ない、我が主」
「竜王がいなくなって問題ないとは思えんが」
「もう平定されている。それに、我がいなくても任せられる者は育ててある」
「ずいぶん準備がよいのう」
「我は長く生きているからな、我が主」
リーズは当然のようにアラタの隣へ座り直した。
「だから、これからはずっと我が主のそばに――」
言葉が止まった。
リーズが自分の右手を見る。
指先が、薄く透けていた。
「……何だ?」
アラタも気づく。
「リーズ?」
リーズが立ち上がった。
右手だけではない。
腕の輪郭まで、少しずつ光へほどけ始めている。
「待て」
左手で右腕を掴む。
当然、止まらない。
「何だこれは」
さっきまでの余裕が、一瞬で消えた。
「我が主」
アラタも立ち上がる。
「落ち着け」
「落ち着いている、我が主」
「そうは見えんぞ」
「我は帰らないぞ、我が主」
声が強くなる。
「やっと会えたんだ」
リーズがアラタの腕を掴む。
その手にも、うっすらと向こう側の景色が透けていた。
「我は残る。向こうのことなら問題ない。我が主のそばにいる」
「リーズ」
「何とかしろ、我が主」
アラタは答えられなかった。
自分の意思でリーズを呼んだわけではない。
どうやって道が開いたのかも知らない。
閉じかけているものを、どう止めればいいのかなど分かるはずもなかった。
「すまん。わしにも分からん」
リーズが唇を噛む。
「またそれか、我が主」
「わしも好きで言っておるわけではないわ」
光が胸元まで広がる。
リーズの輪郭が少しずつ薄くなった。
玄馬も巴も、今度は何も言わずに見ていた。
アラタはリーズの手を握る。
まだ感触はある。
「たぶんじゃが」
リーズが顔を上げた。
「お主を呼び出した、という感じではなかった」
「では何だ、我が主」
「道が一度つながった、とでも言えばよいのかのう」
アラタは自分でも確信のないまま言葉を選ぶ。
「わしがお主を引っ張ってきたというより、一時的に開いた道を、お主がこっちへ来たような……そんな感じじゃ」
「なら、もう一度開け、我が主」
「簡単に言うな」
「我が主ならできる」
「無茶を言うでない」
リーズの身体が、さらに薄くなる。
それでも握った手だけは離さなかった。
「またつながる」
アラタが言った。
リーズの紅い瞳が揺れる。
「本当か、我が主」
「保証はできん」
「保証しろ、我が主」
「無理じゃ」
「そこは嘘でも保証するところだろう!」
「お主、さっきまで竜王らしく威張っておったのにのう」
「今はそんなことどうでもいい!」
リーズがアラタの手を強く握る。
「我が主」
「うむ」
「絶対に、また呼べ」
「努力はする」
「絶対だ」
「分かった分かった」
「分かったではない、我が主」
リーズの姿が、ほとんど光へ溶ける。
最後まで残った紅い瞳が、アラタだけを見ていた。
「次は」
声が少し遠くなる。
「次は絶対に帰らないからな、我が主!」
「それは道に言ってくれんかのう」
アラタが苦笑した、その瞬間。
リーズの姿が消えた。
あとには何も残らない。
風だけが、静かに通り抜けた。
しばらく誰も口を開かなかった。
玄馬が最初に息を吐く。
「……本当に帰ったのか?」
アラタは、ついさっきまで握っていた自分の手を見る。
「たぶんのう」
玄馬は少し間を置いてから言った。
「……静かになったな」
「聞こえておるぞ、と向こうから怒鳴ってきそうじゃのう」
巴が小さく笑った。
アラタも笑う。
もう気配はない。
それでも、不思議と前ほど遠くは感じなかった。
「まあ」
アラタは空を見上げた。
「また来るじゃろう」
あれほど帰りたくないと騒いだリーズが、このまま諦めるとは思えなかった。




