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純白の竜王

アラタはしばらくリーズの横顔を見ていたが、やがて鉄剣を肩へ担いだ。


「なら、わしは他を助けに行くかのう」


「それがいい、我が主」


リーズは当然のように頷いた。


アラタは歩き出しかけて、ふと足を止める。


「リーズ」


「何だ、我が主」


「本気を出すなよ?」


リーズが少しだけ眉を寄せた。


「安心しろ、我が主」


「いや、お主の安心しろは信用ならんのじゃ」


「失礼だな、我が主」


「昔から何度それで酷い目に遭ったと思っておる」


「今回は大丈夫だ、我が主」


アラタはしばらくリーズを見つめた。


「……本当にじゃぞ?」


「分かった、我が主」


そう答えてから、リーズはチンギスへ視線を戻した。


「そもそも、こんなネズミごときに我が主が関わる必要はない」


「リーズ、その言い方はやめておけ」


だが、リーズはもうチンギスしか見ていなかった。


アラタが歩き出そうとした、その時だった。


「……ネズミ」


低い声が響いた。


チンギスは俯いたまま、湾刀を強く握っている。


「何度も何度も、この儂をネズミと呼びおって!」


顔を上げた。


幼い顔に浮かんでいたのは、笑みではない。


むき出しの怒りだった。


「儂は草原の覇者、大ハーン・チンギスだ!」


湾刀の切っ先をリーズへ向ける。


「蒼き狼。国を呑み、敵を踏み越え、ここまで来た!」


リーズは動かない。


「この儂をなめるな!」


チンギスが吠えた。


「本物の帝王は――この儂だ!」


静寂が落ちた。


アラタの足が止まる。


「……ああ」


片手で額を押さえた。


「また言いおった」


リーズは何も言わない。


その無言の方が、アラタにはよほど嫌な予感がした。


白銀の髪が、ゆっくりと浮き上がる。


風はない。


それなのに衣が揺れ、足元の土が細かく震え始めた。


チンギスは湾刀を構え直す。


「来い」


次の瞬間。


リーズの姿が白い光の中へ溶けた。


人の輪郭が崩れる。


広がる。


高く。


さらに大きく。


アラタの顔が引きつった。


「リーズ。待て待て。本気を出すなと言うたじゃろう」


返事はない。


「……おい、リーズ?」


当然のように無視された。


兵たちは、何が起きているのか理解できないまま見上げた。


誰かの剣が地面へ落ちる。


純白の鱗。


夜を覆う巨大な翼。


大地を踏みしめる四肢。


長い尾。


そして、高い位置から戦場を睨み下ろす紅い瞳。


一人の女がいたはずの場所に。


巨大な白い龍が立っていた。


誰もが、そう呼ぶしかなかった。


だがアラタにとっては違う。


百年近い時をともに過ごした、見慣れた姿。


巨大な翼を持つ、純白のドラゴン。


竜王リーズ=アルヴァレイン。


それが、彼女の本来の姿だった。


誰も声を出さない。


正面だけではなかった。


北でも、剣を振るっていた者たちの手が止まる。


南でも、宿場へ押し込んでいた兵が振り返った。


馬が怯え、前脚を跳ね上げる。


敵も味方も関係ない。


戦場にいた者たち全員が、突然現れた巨大な龍を見上げていた。


玄馬も例外ではなかった。


「……何だ、あれ」


返事をする者はいない。


治療場所の外へ出ていた者たちも、宿場の屋根越しに見える白い巨体を呆然と見つめている。


つい先ほどまで鳴り響いていた剣戟も、怒号も、ほとんど消えていた。


アラタは北を見る。


止まっている。


南も同じだ。


宿場へ入り込んでいた敵兵まで、完全にリーズへ意識を奪われていた。


アラタは鉄剣を下ろした。


「……これは助けに行く必要もなさそうじゃのう」


純白のドラゴンを見上げる。


「本気を出すなと言うたばかりじゃぞ」


リーズは反応しない。


巨大な紅い瞳は、ただチンギスだけを見ていた。


「……聞こえておらんな」


アラタが小さくため息をつく。


チンギスも巨大な白い龍を見上げていた。


その顔から先ほどまでの怒りが消えている。


代わりに浮かんでいたのは、初めて見るものへの驚きだった。


「……龍」


リーズの喉の奥から、低い唸りが漏れる。


空気が震えた。


それだけでチンギス軍の馬が一斉に暴れ、兵たちが必死に手綱へしがみつく。


「落ち着け!」


「馬を抑えろ!」


「隊列を崩すな!」


声が飛ぶ。


だが、誰もリーズから目を離せない。


チンギスだけが湾刀を下ろさなかった。


やがて、驚きの中に笑みが戻る。


「そうか」


巨大な白い龍を見上げたまま、口元を吊り上げる。


「それがお前の本当の姿か」


リーズの紅い瞳がさらに細くなる。


「でかくなれば、儂が退くと思ったか」


「おい、チンギス」


アラタが声をかける。


「その辺でやめておけ」


チンギスは答えない。


ただ、白い龍を睨み上げた。


「儂をネズミと呼んだ」


「そこか?」


「何度もだ」


「妙なところを気にするのう」


「そして、儂の帝王を否定した」


アラタが顔をしかめる。


「ああ、それ以上は言わん方が――」


「儂が間違っているというなら」


チンギスは湾刀の切っ先をリーズへ向けた。


「力で証明しろ」


巨大な顎が、ゆっくりと上がった。


アラタは目を閉じる。


「……知らんぞ」


リーズが大きく息を吸う。


戦場の空気そのものが、純白のドラゴンへ引き寄せられたように感じた。


その口元から、赤い光が漏れる。


アラタの目が開いた。


「おい、待て」


光が一気に強くなる。


「リーズ! 兵まで巻き込むなよ!」


返事はない。


次の瞬間。


炎が吐き出された。


夜が赤く染まる。


轟音とともに、巨大な炎が一直線に大地を走った。


狙いはただ一人。


チンギス。


「大ハーン!」


近くの兵たちが左右へ飛び退く。


チンギスも地面を蹴った。


だが、遅い。


炎の端ではない。


ドラゴンの吐息が、その小さな身体を正面から飲み込んだ。


姿が消える。


熱風が戦場を駆け抜け、周囲の兵たちが顔を庇う。


炎はチンギスの後方まで突き抜け、誰もいなくなった地面を焼きながら遠くへ伸びた。


草は一瞬で消え、土が赤く焼ける。


アラタは片腕で顔を庇っていた。


「……加減という言葉を忘れおったか」


リーズは聞いていない。


まだ炎の先を睨んでいる。


やがて炎が消えた。


焼けた大地の上に、小さな影が倒れている。


誰も動かなかった。


チンギスだった。


衣服の大半は焼け、肌も酷く傷んでいる。


湾刀は手から弾き飛ばされ、数歩離れた焼け跡に転がっていた。


胸も動いていなかった。


「大ハーン……」


兵の声が震える。


その時。


アラタが眉を寄せた。


チンギスの身体の奥で。


一瞬だけ。


黒い何かが脈打ったように見えた。


煙でも影でもない。


見間違いと言われれば、それまでのものだった。


だが。


リーズの紅い瞳も、同じ場所を見ていた。


低い唸りが響く。


次の瞬間。


チンギスが大きく息を吸った。


死んだ身体へ無理やり空気を戻すような、荒い呼吸だった。


指が動く。


肩が震える。


やがて腕をつき、ゆっくりと身体を起こす。


「……生きておるか」


アラタが呟いた。


焼けた皮膚の一部で、流れていた血が止まり始めている。


だが、これまでの傷とは違う。


立ち上がるだけで全身が震えていた。


チンギスは膝をついたまま、巨大な白い龍を見上げる。


「……なるほどな」


声は掠れている。


リーズの喉が鳴った。


チンギスは血の混じった息を吐き、笑った。


「今の儂じゃ……届かない」


周囲の兵たちが息を呑む。


大ハーンが、自分の口で敗北を認めた。


それでも。


その目から光は消えていない。


恐怖でもない。


絶望でもない。


届かなかった相手を、焼きつけるように見ていた。


「大ハーン」


近くの兵が声をかける。


チンギスが片手を上げた。


「退く」


兵が目を見開く。


「全軍、撤退だ」


「ですが――」


「ここで続けても、兵を捨てるだけだ」


声は弱い。


それでも命令には迷いがなかった。


「北と南へ伝えろ」


「はっ!」


角笛が鳴った。


低い音が夜の戦場へ広がる。


一度。


二度。


三度。


北の騎馬が向きを変え、南へ入り込んでいた歩兵も宿場から離れ始める。


宿場側の兵が追おうとした。


「追うな!」


玄馬の声が飛んだ。


「隊列を崩すな! 逃げる奴はそのまま行かせろ!」


アラタが小さく頷く。


「さすがじゃのう」


リーズは動かない。


ただ、退いていくチンギス軍を見下ろしている。


近くの兵が焼け跡へ走り、落ちていた湾刀を拾い上げた。


チンギスは一度だけそれを見る。


「持て」


掠れた声で命じると、兵は湾刀を抱えたまま撤退列へ戻った。


チンギス軍の撤退は速かった。


敗走していても、軍の形までは崩さない。


動ける者が負傷者を支え、騎馬が外側へ回って追撃に備える。


アラタはその様子を見ながら、鉄剣を鞘へ戻した。


「負けてもあれか。やはり厄介な男じゃ」


北から戻ってきた玄馬が、その横に立った。


視線は巨大な白い龍に釘付けだった。


「……まず、あれを説明しろ」


「昔の仲間じゃ」


玄馬がアラタを見る。


もう一度、巨大な白い龍を見る。


「それで済ませる気か?」


「長くなるんじゃよ」


「長くていい」


「戦が終わってからのう」


「もう終わってるだろ」


アラタは答えず、苦笑した。


その頃。


撤退する軍の中で、チンギスは一度だけ振り返り、巨大な白い龍と、その足元に立つアラタを見た。


竜王が誇らしげに並べた、いくつもの称号。


意味はまだ分からない。


ただ、自分の知らない世界には、今の自分では届かない場所がある。


それだけは分かった。


チンギスは口元の血を拭う。


身体中が焼けるように痛む。


敗北。


それも、言い訳のできない完敗だった。


だが。


白い龍を見る目には、まだ飢えが残っている。


いや。


負ける前よりも、強くなっていた。


「大ハーン?」


隣を歩く兵が顔を上げる。


チンギスは前を向いたまま言った。


「次は」


少しだけ間を置く。


「ネズミとは呼ばせんぞ!」


その声だけは、敗者のものではなかった。


角笛の音とともに。


蒼き狼の軍勢は、夜の向こうへ消えていった。


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