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竜王リーズ=アルヴァレイン

「リーズ」


アラタが、その名を呼んだ。


大声ではない。


戦場の喧騒に紛れれば、すぐに消えてしまうほどの声だった。


それなのに。


胸の奥で、何かが弾けた。


これまで何度も触れては離れていた気配が、一気に近づく。


細い糸だったものが太くなったのか。


距離そのものが消えたのか。


アラタにも分からない。


ただ、届いた。


そう思った。


次の瞬間。


アラタの目の前で、夜の空気が大きく揺れた。


風ではない。


光でもない。


そこに何もなかったはずなのに、景色だけがわずかに歪む。


チンギスが目を細めた。


「何だ」


アラタも答えられない。


歪みの中に、白いものが見えた。


最初は髪だった。


月明かりを集めたような白銀。


次に、白を基調とした衣。


そして、紅い瞳。


一人の女が、そこに立っていた。


アラタは動かなかった。


女も動かない。


互いに、ただ見ている。


長い時間だったように感じた。


実際には、数呼吸ほどだったのかもしれない。


女の紅い瞳が、アラタの頭から足元までゆっくりと動く。


黒い髪。


幼い顔。


細い身体。


かつて寝台の上で息を引き取った老人とは、何一つ似ていない。


それでも。


女の瞳から迷いは消えた。


「……我が主?」


声が震えていた。


アラタの口元が緩む。


「久しいのう、リーズ」


その一言で、女の表情が崩れた。


「アラタ……?」


一歩。


リーズが近づく。


さらに一歩。


そしてアラタの目の前まで来ると、両手でその顔を挟んだ。


「我が主アラタ」


確かめるように呼ぶ。


「うむ」


「本当に」


「わしじゃよ」


「……本当に?」


「何度聞く気じゃ」


リーズの指が、アラタの頬をなぞった。


そのまま額へ。


髪へ。


肩へ。


姿の違う身体の中から、知っている何かを確かめるようだった。


「若い」


「そうじゃのう」


「小さい」


「それは言わんでよい」


「我が主が小さい」


「聞こえておるぞ」


リーズの唇が震えた。


笑うのかと思った。


だが違った。


紅い瞳から、大粒の涙が落ちる。


アラタが少し困った顔をした。


「リーズ」


「我は……」


声が続かない。


竜王。


レグナルシアで白き龍たちを束ね、多くの者が名を聞くだけで身構えた女。


そのリーズが、人目も戦場も気にせず泣いていた。


「我の目の前で、死んだじゃないか」


アラタの表情から笑みが少し消える。


「そうじゃな」


「手を握っていた」


「覚えておるよ」


「息が止まった」


「うむ」


「それなのに……どうして、ここにいる」


アラタは少し考えてから答える。


「それは、わしも知りたいところじゃ」


リーズはしばらくアラタを見つめた。


やがて、何かを諦めたように息を吐く。


「……そうか」


次の瞬間、アラタを強く抱き寄せた。


「おっと」


細い少年の身体が、白い衣の中へ埋まる。


「リーズ、少し苦しいぞ」


「黙れ」


「再会して最初の命令がそれかの」


「死んだ者に言われたくない!」


「わしが好きで死んだように言うでない」


「我を置いて死んだんだぞ!」


「寿命じゃ!」


かつてと変わらない。


アラタは小さく息を吐き、それでもリーズを引き剥がそうとはしなかった。


◇


少し離れた場所で、その光景を見ていた者たちは動けずにいた。


宿場側の兵も。


チンギス軍の兵も。


戦っていたはずの何人かまで、何が起きているのか分からず武器を下げている。


北や南ではまだ戦いが続いている。


アラタは一度だけ、そちらへ視線を向けた。


鐘も怒号も止んではいない。


だが正面だけ、奇妙な空白が生まれていた。


その中心で、チンギスが地面に落ちていた湾刀を拾う。


「おい」


返事はない。


リーズはアラタから離れない。


「お前」


チンギスがもう一度呼ぶ。


今度は声が少し低くなった。


「何者だ」


リーズは反応しなかった。


聞こえていないわけではない。


アラタには分かる。


聞く価値がないと判断している時の態度だった。


「リーズ」


アラタが小声で呼ぶ。


「どうした、我が主」


一瞬で返事が来る。


チンギスの眉が動いた。


「儂を無視するな」


それでもリーズはアラタを見ている。


「その身体はどうした」


「まあ、色々あってのう」


「説明になってない」


「わしも全部は分からんのじゃ」


「またそれか」


「またとは何じゃ」


「昔から肝心なところで分からないと言う」


アラタが苦笑した。


その時、チンギスが踏み込んだ。


湾刀の切っ先がリーズへ向かう。


アラタが止めるより早く、リーズの手が動いた。


振り返りもしない。


ただ片手を横へ出しただけだった。


チンギスの湾刀が止まる。


刃を、二本の指で挟まれていた。


「……何?」


リーズがようやく顔を向ける。


紅い瞳が、初めてチンギスを映した。


「さっきから何だ」


チンギスが湾刀を引こうとする。


動かない。


リーズは刃を挟んだまま、わずかに首を傾げた。


「ネズミか?」


空気が止まった。


「……ネズミ?」


「我が主との再会を邪魔するな」


指を離す。


チンギスが一歩下がった。


その顔から笑みは消えていない。


むしろ、興味が増していた。


「面白い」


リーズの眉がわずかに動く。


「何がだ」


「お前だ」


「我に興味を持つな。鬱陶しい」


「儂の刃を指で止めた」


「それがどうした」


「強いな」


リーズは答えず、アラタを振り返る。


「我が主、こいつは何だ」


「今、戦っておる相手じゃ」


「そういう意味じゃない」


「なら何を聞いておる」


「なぜ、この程度の相手に時間を使っている」


チンギスの目が細くなった。


アラタは額を押さえた。


「リーズ。その言い方は――」


「事実だろう?」


「お主は昔からそういうところがのう……」


「我が主が優しすぎるんだ」


リーズは当然のように言った。


チンギスが笑う。


「この程度、か」


リーズがまた面倒そうに目を向けた。


「まだいたのか」


「ここは儂の戦場だ」


「知らない」


「儂の軍が攻めている」


「興味がない」


「儂はチンギス・ハーン」


リーズは無言だった。


チンギスは湾刀を肩へ担ぐ。


「大ハーン。蒼き狼。そして――」


幼い顔に、自信に満ちた笑みが戻った。


「帝王だ」


その瞬間。


リーズの表情が消えた。


アラタが気づく。


「……あ」


まずい。


リーズがゆっくりとチンギスへ身体を向けた。


先ほどまでの涙も。


再会の喜びも。


全部が消えていた。


紅い瞳だけが、静かに細くなる。


「今、何と名乗った?」


チンギスは退かない。


「帝王だ」


沈黙。


リーズの周囲の空気が一変した。


正面にいた兵たちが、敵味方を問わず息を呑む。


何が起きたのか、誰にも分からない。


ただ、その場にいた者たちは反射的にリーズへ意識を向けた。


アラタは小さくため息をつく。


「リーズ」


「我が主は黙っていろ」


「やはりそうなるかのう……」


「当然だ」


リーズはチンギスだけを見た。


「ネズミ」


その声には、先ほどまでとは違う怒りがあった。


「誰の前で、その名を名乗っている」


チンギスの笑みが深くなる。


「誰の前?」


リーズは一歩前へ出た。


「いいだろう。教えてやる」


白銀の髪が、風もないのに揺れた。


「貴様が今、誰の前に立っているのかをな」


アラタが嫌な予感に目を細める。


「リーズ。別にそこまで――」


「我が主は黙っていろ」


「わしのことじゃぞ?」


「だからだ」


即答だった。


リーズは胸を張る。


誇るのは自分のことではない。


昔から、そうだった。


「救世の勇者」


チンギスの目がわずかに動く。


「七種族の王」


アラタが片手で顔を覆った。


「また始まったのう……」


リーズは気にしない。


むしろ、少し胸を張った。


「ドラゴンの父」


「リーズ」


「魔族の庇護者」


「もうよいじゃろう」


「人民解放の王」


「聞いておるか?」


「古代魔法を統べし者」


リーズの声が、ますます得意げになる。


アラタは額を押さえたまま、深くため息をついた。


「昔から、なぜお主は人のことになるとそこまで威張れるんじゃ……」


「我が主のことだからだ」


即答だった。


「神々の代弁者」


「まだあるのかのう……」


リーズはアラタへちらりと目を向けた。


その顔は、どう見ても誇らしげだった。


そして最後だけ、少し間を置く。


チンギスへ向き直り、胸を張った。


「帝王とはただ一人! ここにいる――救世帝アラタのみだ!」


その声が戦場を貫いた。


正面で武器を構えていた兵が動きを止める。


少し離れた北側でも、剣戟の音が途切れた。


南から響いていた怒号も止まる。


敵も味方も、言葉の意味をすべて理解したわけではない。


それでも、その一瞬だけ。


戦場全体が静まり返った。


アラタの肩が落ちた。


「……来て早々、これかのう」


「何が不満だ」


「全部じゃ」


「一つも間違ってない」


「そういう問題ではないんじゃ」


リーズは納得していない顔をする。


「むしろ足りないくらいだ」


「増やすでない!」


リーズは得意そうに顎を上げた。


チンギスはしばらく黙っていた。


やがて、湾刀の切っ先をアラタへ向ける。


「それがお前か」


アラタは肩をすくめた。


「昔の話じゃよ」


「違う」


リーズが即座に遮る。


「我が主は今も我が主だ」


「……そういうところじゃぞ」


リーズは聞いていなかった。


代わりにチンギスへ向き直る。


「一つだけ覚えておけ」


「何だ」


「貴様が軽々しく帝王と名乗った、その言葉を」


リーズの声が冷える。


「我は認めない」


チンギスが笑った。


「お前の許可がいるのか?」


「いらない」


リーズは一歩前へ出た。


「名乗るのは勝手だ」


さらに一歩。


「ただし、我が主と同じ場所に立ったつもりでいるなら――」


正面の兵たちが、無意識に後ずさる。


チンギスの笑みが消えた。


目の前の相手を、改めて測り直すような顔になる。


そして、ゆっくりと湾刀を構えた。


「やってみろ」


リーズは鼻で笑う。


「言われなくても、そのつもりだ」


アラタは二人を見比べ、深く息を吐いた。


「再会して早々、これかのう……」


リーズは振り返らない。


「安心しろ、我が主」


「何をじゃ」


「すぐ終わる」


その言い方だけは。


アラタがよく知っている、昔のリーズそのものだった。


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