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届かない手

チンギスの湾刀が、再びアラタの喉元へ走った。


東正面。宿場へ続く街道の手前で、二人は数歩の間合いを挟んで向かい合っている。


その周囲では兵同士の戦いが続いていたが、チンギス軍は二人の近くへ味方を寄せてこない。アラタもまた、背後の宿場へ敵を通さない位置から離れなかった。


湾刀の切っ先を半歩だけ身体をずらして外へ流し、そのままアラタは懐へ入る。


鉄剣が脇腹を深く走った。


チンギスの小さな身体が揺れる。


「今のは効いたじゃろう」


「痛いな」


平然と返したものの、チンギスの足はそこで一度止まった。


アラタはそのまま攻め手を緩めず、チンギスを東側へ押し返していく。


肩へ刃を通し、さらに踏み込んで太腿を裂いた。


湾刀で受けきれなかったチンギスが二歩、三歩と街道の東側へ下がった。距離が開けば、そのぶん宿場へ続く正面の道も広くなる。


剣技だけなら、やはりアラタの方が上だった。


このまま押し切れる。


そう思えるほど、目の前の勝負だけなら差は見えている。


だが。


遠くで鐘が鳴った。


左手――北側。


続いて、宿場を挟んだ反対側、南からも合図が返る。


アラタの耳は嫌でもそちらを拾った。


チンギスの口元が上がる。


「聞こえるか」


「嫌でもな」


「なら急げ」


挑発に返事はしなかった。


アラタは一気に間合いを詰める。


鉄剣と湾刀がぶつかり、今度は受け止めた刃ごと押し込んだ。チンギスの体勢が崩れ、開いた首元へ切っ先が走る。


あと一歩。


その時、北の鐘が変わった。


短く、激しく、間を置かずに鳴る。


昨日までに決めていた合図だ。


押されている。


「……ちっ」


視線が北へ流れたのは一瞬だった。


だが、その一瞬で十分だった。


チンギスは首元へ迫っていた刃の外へ身体を抜き、街道脇へ距離を取る。


「また余所を見た」


「お主も、それを待っておったじゃろう」


「そうだ」


迷いなく認める。


アラタは東の正面を背にできないまま、鉄剣を構え直した。


目の前の男を倒し切るまでのわずかな時間さえ、別の場所を崩すために使われている。


◇


北側では、玄馬たちが宿場へ向かって少しずつ押し戻されていた。


正面から来る歩兵を受け止めれば、騎馬がその外側を回る。騎馬へ人を向ければ、薄くなった場所へ別の歩兵が押し込んでくる。


「二列目、前へ出るな! 下がる奴の道を空けろ!」


玄馬は後退する味方の間を縫って前へ出た。


右手の草地を回り込もうとした騎馬へ数人を向かわせると、今度は左側で怒号が上がる。


昨日まで予備として残していた者たちも、もう後ろにはいない。


すべて前へ出ていた。


「玄馬!」


宿場側から若い男が駆けてくる。


「南も入られた! 林沿いの道だ!」


玄馬は北の敵から目を離さないまま聞いた。


「何人だ」


「分からん! 見張りが下がってる!」


一瞬だけ奥歯を噛む。


北から人を抜けば、ここが破られる。


それでも南を放っておけば、敵は宿場の外縁へ入る。


「分かった。お前は西へ走れ。荷車を止めるなって伝えろ」


「でも――」


「早く行け!」


男が西へ向かって走る。


その背後では、避難用の荷車が宿場の裏手から少しずつ遠ざかっていた。


玄馬は剣を握り直す。


目の前では、また騎馬が左右へ開こうとしている。


「本当に面倒な軍だな……!」


吐き捨てるように言い、空きかけた場所へ自分から飛び込んだ。


◇


宿場の中央寄りに設けた治療場所にも、鐘と剣戟が途切れず届いていた。


巴は横たわる男の包帯を結び終えると、そのまま隣の負傷者へ移る。


「歩ける人は西へ! 肩を貸せる人は一人ずつついて!」


入口から、新しい負傷者が運び込まれてきた。


一人ではない。


二人、三人。


外の戦線が近づくほど、運び込まれる間隔も短くなっている。


「こっちは?」


「腕。血は止まってる!」


「じゃあ先に奥の人!」


声を飛ばしながら、巴は入口を見る。


また鐘が鳴った。


近い。


昨日より明らかに近い。


奥では紫式部が寝台から身体を起こしていた。


「式部さん、立たなくていい!」


紫式部は少しだけ眉を寄せる。


その横では、負傷した男の子が人の流れに取り残され、どちらへ行けばよいのか分からず立ち尽くしていた。


紫式部は声を使わず、西側の出口を指す。


少年がそちらを見たところで、近くにいた女へ視線を送り、少年を示した。


意味を理解した女が肩を抱き、そのまま避難する人々の列へ連れていく。


巴はそれを見て頷いた。


「それでいい。声は使わないで」


紫式部も小さく頷く。


その直後、治療場所の外で何かが倒れる大きな音がした。


悲鳴が続く。


入口近くにいた者たちが、一斉に南側を見る。


「敵が入ったぞ!」


声が飛んできた。


巴は治療道具だけを掴んで立ち上がる。


「動ける人から西へ! 荷物は置いて!」


自分は最後尾へ回った。


◇


南側では、林沿いの細い道から回り込んだ騎馬が見張りを押し退け、その後ろから歩兵が雪崩れ込んでいた。


宿場の外縁。


家屋や柵が見えるところまで、敵が来ている。


東正面にいるアラタにも、それは音で分かった。


先ほどまで遠かった怒号が、もう宿場の中から聞こえる。


「来たぞ」


チンギスが言った。


アラタの表情から、いつもの柔らかさが消える。


背後には宿場。


正面にはチンギス。


北も南も押されている。


それでも、目の前の男へ背を向ければ、東の街道からそのまま本隊を通すことになる。


「嬉しそうじゃな」


「戦は勝つためにする」


「その割には、お主自身は押されておるぞ」


「だから何だ」


チンギスが地面を蹴った。


湾刀が低く走る。


アラタは受けずに半身でかわし、すれ違う腕へ鉄剣を深く入れた。


チンギスの指から力が抜け、湾刀が街道へ落ちる。


そのまま逃がさず胸元へ踏み込み、柄頭を叩き込んだ。


小さな身体が地面から浮く。


チンギスは数歩先へ投げ出され、土を削りながら転がった。


今度は起き上がるのが遅い。


腕、肩、脇腹、太腿。


ここまで重ねた傷が、ようやく動きを奪い始めている。


アラタは間を詰めた。


あと少し。


ここで仕留めれば、少なくとも東正面は止められる。


チンギスが片膝をついたまま顔を上げる。


その向こう。


宿場の南側から、女の悲鳴が響いた。


近い。


あまりにも近かった。


アラタの足が止まる。


ほんの数歩先には、武器を失ったチンギスがいる。


振り返れば、背後には守るべき宿場がある。


チンギスは笑わなかった。


ただ、その反応を見ていた。


「行くのか?」


アラタは答えない。


「行けば儂が進む」


分かっている。


南へ走れば、チンギスが東から入る。


ここに残れば、すでに入り込んだ敵が宿場の中へ進む。


北へ助けに行くという選択肢まで含めれば、身体は一つしかない。


どこを選んでも、別の場所を捨てることになる。


チンギスが作ったのは、剣で勝つための戦場ではなかった。


アラタに選ばせるための戦場だった。


百年近く生きた。


王だった。


何度も戦争をした。


全部を救えないことなど、とっくに知っている。


知っているはずなのに。


「……気に入らんのう」


低い声が漏れた。


チンギスが首を傾げる。


「何がだ」


「選ばされるのがじゃ」


アラタは剣を握り直した。


東の街道。


北の鐘。


南の悲鳴。


西へ逃げる人々。


そのすべてが、一つの戦場として頭の中にある。


その時だった。


胸の奥が、強く震えた。


これまでとは違う。


かすかな気配ではない。


細い糸でもない。


何かが、一気に近づいた。


アラタの呼吸が止まる。


「……!」


鐘は鳴っている。


剣戟も、怒号も、悲鳴も消えていない。


それなのに、その向こうから届いた気配だけが、戦場のすべてを押しのけるように鮮明だった。


懐かしい。


あまりにも懐かしい。


長い年月を隣で過ごした気配。


怒らせれば誰より恐ろしく、褒めれば驚くほど分かりやすく喜ぶ。誇り高さでは誰にも譲らないくせに、自分の前では妙に子供じみた顔を見せることがあった。


アラタの目が見開かれる。


レグナルシア。


遠い世界。


その向こうに、確かに誰かがいる。


今度はもう、思い違いではない。


向こうからも、こちらを探している。


触れようとしている。


そんな感覚があった。


アラタは無意識に左手を伸ばした。


そこにあるのは夜の空気だけだ。


指先は届かない。


当然だった。


世界が違う。


距離という言葉で測れる場所ですらないのかもしれない。


それでも胸の奥では、もう一つの手がこちらへ伸びているように感じた。


あと少し。


ほんの少し。


届かない。


「……そうか」


アラタの口元が、わずかに緩んだ。


数歩先で、チンギスが眉を寄せる。


「何だ」


アラタは答えなかった。


ようやく分かった。


ずっと感じていたものが何だったのか。


誰が、向こう側から手を伸ばしているのか。


そして。


その名を、アラタは知っていた。

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