対峙する悪意
鐘が鳴り終わる前に、玄馬の指示が飛んだ。
「東は予定どおり! 北は予備を回せ! 南は見張りを下げながら合図を繋げ!」
宿場の灯りがさらに落とされる。
人が走る気配はあっても、昨日のような混乱はない。
アラタは鉄剣を下げたまま、東を見ていた。
松明の列が近づいてくる。
正面だけではない。
北にも、南にも光が動いている。
一つの軍が広がっているのではなく、最初から複数の部隊として動いていた。
「来るぞ!」
玄馬の声とほぼ同時に、角笛が鳴った。
地面が震える。
騎馬だ。
正面の暗闇から、何十という影が一気に現れた。
その後ろには歩兵が続く。
昨日のように装備の揃わない兵もいるが、それだけではない。
騎馬の動きは明らかに統制されていた。
正面へ殺到する者。
左右へ広がる者。
さらに、その後ろで止まったまま動かない一団。
アラタは目を細める。
「全部を一度に使う気はないか」
玄馬が横で剣を抜いた。
「どういう意味だ」
「こちらの動きを見ておる」
言い終えるより早く、右側から矢が飛んだ。
宿場側の盾が上がる。
正面の騎馬が速度を落とした。
代わりに左から歩兵が押し寄せる。
「正面を空けるな!」
玄馬が叫ぶ。
アラタは左へ駆け、最初の兵の剣を受け流しながら二人目の槍を折った。三人目が武器を捨てるのを見ると、そこには刃を向けず、その奥から突っ込んできた騎馬へ身体を向ける。
馬を斬らず、乗り手だけを落とす。
一人。
二人。
三人。
それでも敵は止まらない。
押し寄せているのではなかった。
アラタが左へ寄れば、中央が動く。
中央へ戻れば、北側の松明が大きく流れる。
こちらが反応するたび、別の部隊が動いていた。
「面倒じゃのう」
アラタが呟いた時、正面の騎馬が突然左右へ開いた。
奥に一本の道ができる。
その中央を、ゆっくりと一騎が進んできた。
大きな男ではない。むしろ小さい。
黒い髪に、細い目。
馬上にいる姿だけを見れば、十歳ほどの少年にさえ見える。
だが、その周囲だけ空気が違った。
誰も前へ出ない。
誰も横へ並ばない。
騎馬兵たちは、少年より半歩後ろを保っている。
アラタは、その姿を見ただけで分かった。
「あれか」
玄馬も視線を向ける。
「まさか……」
少年はアラタを見た。
迷いなく。
まるで最初から、どこにいるか知っていたように。
「アラタ」
幼い声だった。
だが呼び方に確認の響きはない。
アラタは鉄剣を肩の高さまで上げる。
「お主がチンギス・ハーンかの」
「そうだ」
短い。
少年は馬から降りた。
周囲の兵が一歩下がる。
「董卓から聞いた」
「そうか」
「もっと大きいと思ってた」
アラタは少し笑った。
「それは、こちらの台詞じゃな」
チンギスの目がわずかに細くなった。
「面白い」
腰の鞘から、細身の湾刀を抜いた。
刀身は根元から緩やかな弧を描き、先へ行くほど細くなる。小ぶりな鍔の向こう、柄には色の抜けた革が巻かれていた。乾いた赤茶色の鞘には二つの金属環が付き、帯から吊られている。
馬上で抜き、そのまま駆けながら斬るための形に見えた。
玄馬が前へ出ようとした。
「待て」
アラタが手で止める。
「わしが見る」
「だが――」
「他を頼む」
その言葉に、玄馬は一瞬だけ迷った。
だが北から別の合図が上がる。
舌打ちし、振り返った。
「死ぬなよ!」
「善処しよう」
「またそれか!」
玄馬が走っていく。
チンギスはその背中を見なかった。
視線は最初からアラタだけに向いている。
「一人でいいのか?」
「お主も一人で来たではないか」
「儂には軍がいる」
「見れば分かる」
「お前には?」
アラタは少しだけ考えた。
「今は、あやつらがおる」
チンギスの口元が僅かに上がった。
次の瞬間、距離が消えた。
速い。
アラタは鉄剣を立てる。
金属音が夜に響いた。
重い。
小さな身体から出たとは思えない一撃だった。
二撃目が低く来る。
アラタは半歩引いてかわし、そのまま手首へ剣を返す。
チンギスが腕を引く。
浅く皮膚が裂けた。
血が飛ぶ。
「ほう」
今度はアラタが踏み込む。
肩。
脇腹。
首。
三方向へ刃を走らせる。
チンギスは二つを受け、一つを避けた。
避けきれなかった刃が肩を深く切る。
それでも表情は変わらない。
「董卓が負けるわけだ」
「随分と余裕じゃな」
「痛いぞ」
そう言いながら、チンギスは肩を見た。
血が流れている。
だが。
アラタの目が細くなる。
流れが止まった。
早すぎる。
裂けた傷そのものも、わずかに狭くなっている。
「……なるほど」
「何だ」
「いや。妙な身体じゃと思っての」
チンギスが笑った。
「儂も全部は分かってない」
その返答に、アラタは逆に眉を動かした。
本人にも分かっていない。
そういう力らしい。
チンギスが再び踏み込んできた。先ほどより動きが小さく、無駄が減っている。
アラタが首へ刃を走らせると、今度はかわされた。そのまま同じ角度から肩へ切り返した刃も、湾刀で受け止められる。
「覚えるのも早いか」
「一度見た」
「それで十分と?」
「十分にする」
剣と湾刀がぶつかる。
それでも、アラタの方が上だった。
一合ごとに、少しずつチンギスの姿勢が崩れていく。
技量。
間合い。
剣の読み。
そのどれも、アラタに分がある。
だが倒れない。
腕を切れば血が止まり、脇を裂いてもすぐに動きが戻る。完全に傷が消えるわけではない。それでも、普通の人間なら動きが鈍る傷が、チンギスには決定打にならなかった。
そして何より、戦っているのは二人だけではない。
遠くで鐘が鳴った。
北だ。
続けて南からも合図が上がる。
アラタの視線が一瞬だけ揺れた。
チンギスは見逃さなかった。
湾刀が頬を掠める。
アラタは距離を取った。
「余所を見るな」
「見させておるのは、お主じゃろう」
「そうだ」
あっさり認めた。
チンギスは湾刀を下げない。
「お前がここにいれば、他が薄くなる」
また北で鐘が鳴る。
今度は短い。
連続している。
アラタの耳がそちらを拾う。
「行かないのか?」
チンギスが言った。
「……」
「行けばいい」
幼い顔に笑みが浮かぶ。
「その間に儂がここを抜く」
アラタは何も返さなかった。
目の前の男を倒す。
それだけなら、できる。
少なくとも剣では自分が上だ。
だが、どれだけ時間がかかる。
その間に北はどうなる。南は。宿場は。
そして、ここを離れれば、今度は目の前の男が進む。
チンギスは動かない。
急かしもしない。
アラタが何を選ぶのかを見ている。
また鐘が鳴った。
今度は、さらに遠い場所から。
アラタはようやく理解した。
チンギス・ハーンは、自分の兵を動かしているだけではない。
自分自身さえ、戦場の一つの駒として使っている。
そして今、その駒一つでアラタをここへ縫い止めていた。




