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近づく声

翌朝、東の見張りから戻った男の顔を見て、玄馬はすぐに人を集めた。


「昨日の連中とは違う」


男は水を一口飲み、息を整える。


「街道の先に、また兵がいる。前の奴らよりずっと多い。それだけじゃない。丘の向こうにも煙が上がってた」


「本隊か?」


「分からん。ただ、一つの隊じゃない」


玄馬の視線がアラタへ向く。


アラタは東を見たまま答えなかった。


昨日の戦いで、敵が正面だけを見て戦う軍ではないことは分かった。そして、あれでさえ先兵にすぎなかった。


「見張りを増やしたままで正解だったな」


玄馬が言う。


「うむ。今度は来てから動くのでは遅いじゃろう」


宿場では、すでに昨日とは違う動きが始まっていた。


西へ送れる負傷者は先に動かし、残る者の水と食料を分ける。荷車は一か所へ固めず、道が塞がった時に別の場所から出せるよう置き直した。


誰か一人が大声で命令し続けているわけではない。


昨日、一度動いたことで、それぞれが自分の役目を覚え始めていた。


巴は治療場所で包帯を確かめながら、玄馬へ聞く。


「昨日より増えるんだよね?」


「たぶんな」


「じゃあ、動かせる人は今日のうちにもっと西へ送る。ここに残すのは、本当に動かせない人だけにしたい」


「任せる」


巴は頷き、そのまま隣の寝台へ向かった。


そこに紫式部がいる。


意識ははっきりしていたが、まだ声を出すことは禁止されている。


「式部さん」


巴が腰を落とす。


「分かってると思うけど、今日は絶対に喋らないでね」


紫式部は少し不満そうな顔をした。


「その顔しても駄目」


さらに睨まれる。


「駄目なものは駄目」


しばらくして、紫式部は諦めたように小さく頷いた。


巴は少しだけ笑う。


「もしここまで敵が来たら、ここにいる人たちへ逃げる方向を示すのを手伝って。歩き回らなくていいし、声も使わなくていいから」


また頷く。


戦える状態ではない。


だが、何もできないわけでもない。


紫式部は寝台の端に置かれた自分の上着へ目をやり、静かに手を伸ばした。


◇


昼前。


アラタは宿場の外れで、身体の動きを確かめるように剣を振っていた。


一度刃を通し、呼吸を整える。そのまま身体の奥へ意識を向けた瞬間、また、あの感覚が触れた。


剣が止まる。


「……またじゃな」


前より早い。


昨日までは、静かな時に不意に現れていた。


今は、自分の内側へ意識を向けた途端に反応した。


懐かしい。


そして、近い。


何かを思い出しかけている感覚とは少し違う。


記憶なら、自分の中にあるはずだ。


だがこれは、どこか遠いところにあるものへ、細い糸だけが伸びているようだった。


アラタは目を閉じ、意識を深くする。


すると一瞬だけ、何かが揺れた。


言葉ではない。


声でもない。


ただ、自分以外の何かが、確かにそこにあるような――。


次の瞬間には消えていた。


アラタはゆっくり目を開ける。


「まさかのう……」


口にしてから、自分で苦笑した。


何を考えている。


レグナルシアでの生は終わった。


自分は死んだ。


仲間たちがその後どうなったのかも知らない。


まして、この世界と繋がる理由など一つも分からない。


それでも、あの感覚を知っている気がした。


誰のものかまでは、まだ分からない。


◇


午後になると、東から戻った別の見張りがさらに悪い報告を持ち帰った。


「道が三つ使われてる」


玄馬が眉を寄せる。


「三つ?」


「街道だけじゃない。北側の草地にも騎馬がいる。南の林沿いにも人影が見えた」


アラタが粗い地図へ目を落とす。


「昨日と同じじゃな」


「正面に目を向けさせて、横から回るか」


「今度は規模が違うかもしれん」


玄馬は地図の端を指で押さえた。


「だったら、こっちも一か所に固めない」


昨日より判断が早い。


アラタは口を挟まず、そのまま聞いた。


「東の正面は俺が見る。北側は昨日予備にした連中を回す。南は人数を置きすぎると正面が薄くなるから、見張りを増やして合図だけ早くする」


「よいと思う」


玄馬がアラタを見る。


「お前は?」


「穴が開いたところへ行く」


即答だった。


玄馬は一瞬だけ黙り、やがて頷く。


「分かった」


それで話は終わった。


誰が上で、誰が下か。


そんなことを決める必要はない。


必要なところへ、必要な者が行けばいい。


その時、東の遠くで角笛のような音が聞こえた。


全員が顔を上げる。


だが、すぐに戦いが始まったわけではない。


音は一度だけ。


見張りからも合図はない。


玄馬が低く言った。


「近いな」


「うむ」


敵の姿はまだ見えない。


それなのに、宿場の誰もが昨日より静かだった。


恐怖が消えたわけではない。


何が来るかを知ってしまったからこその静けさだった。


◇


日が落ちる前、アラタは治療場所へ顔を出した。


巴は床に座って道具を整理している。


「どうじゃ?」


「動かせる人はかなり送った。残ってるのは移動させない方がいい人と、どうしても残るって言った人」


「式部殿は?」


巴が奥を見る。


紫式部は横になっていた。


目は開いている。


アラタに気づくと、わずかに頭を下げた。


「まだ駄目」


巴が先に言った。


「何も聞いておらんぞ」


「顔に書いてある」


「そうかのう」


「そう」


紫式部の目元がわずかに緩んだ。


アラタも笑う。


「なら、任せる」


「任された」


外へ出る直前、巴が呼び止めた。


「アラタ」


「なんじゃ?」


「昨日から、たまに変な顔してるけど、本当に何でもない?」


アラタは少しだけ間を置いた。


「今のところはの」


「今のところ?」


「わしにも、まだ分からん」


巴は何か言いたそうだったが、結局それ以上聞かなかった。


「無茶だけはしないでよ」


「善処しよう」


「それ、しない人が言うやつだからね」


背中に言葉を受けながら、アラタは外へ出た。


◇


夜。


宿場の灯りは必要なものだけに減らされていた。


東から見つけられにくくするためだ。


アラタは壁にもたれ、目を閉じていた。


眠ってはいない。


遠くの物音を聞きながら、身体だけを休ませている。


その静けさの中で、また来た。


今度は、意識を向ける前から分かった。


胸の奥。


もっと深い場所。


細い何かが、自分とは違う場所へ伸びている。


アラタは息を止めなかった。


追えば消える。


昨日までに、それは分かっている。


だから今回は、ただ待った。


懐かしい気配が揺れる。


一度。


少し間を置いて、もう一度。


偶然ではない。


そう思った瞬間、胸の奥が強く震えた。


アラタは目を開ける。


「……おるのか?」


返事はない。


だが、完全な無反応でもなかった。


遠い。


あまりにも遠い。


それでも、自分だけが手を伸ばしているのではない。


そんな感覚が、ほんの一瞬だけ残った。


アラタはしばらく動かなかった。


最初に行った異世界、レグナルシア。


その名が、久しぶりに現実のものとして頭に浮かぶ。


自分が勇者として生きた世界。


王となり、老い、死んだ世界。


そこに残してきた者たち。


「まさかのう……」


今度の言葉には、笑いがなかった。


誰かは分からない。


名前も浮かばない。


けれど、向こう側に何かがいる。


そう考えるには、十分すぎるほどだった。


その時、東の見張り台から鐘が鳴った。


一度ではない。


昨日の比ではないほど激しく。


宿場中で人が起きる音がし、玄馬の声が響く。


「全員起きろ! 東だ!」


アラタは立ち上がり、鉄剣を取った。


胸の奥には、まだ微かな余韻が残っている。


だが今は、そちらを追う時ではない。


外へ出ると、東の夜空にいくつもの松明が見えた。


一列ではない。


街道の向こうにも。


北の草地にも。


さらに南側にも。


玄馬が隣へ来る。


「……本隊か」


アラタは遠くの灯りを見たまま答えた。


「少なくとも、昨日までとは違うのう」


闇の向こうで、低い角笛が鳴った。


蒼き狼の軍勢が、ついに近くまで来ていた。


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