蒼狼の先兵
昼を過ぎた頃、東の見張り台から鐘が鳴った。
一度。
間を置かず、二度、三度。
宿場の空気が変わる。
「来たぞ!」
見張りの声が飛んだ。
玄馬は走りながら叫ぶ。
「東へ出られる者だけ来い! 負傷者と荷車は予定どおり西へ回せ! 見物に出るな!」
朝まで話し合っていた者たちが、一斉に動き始めた。
昨日までなら、そこで混乱していたかもしれない。だが今は、誰が負傷者を運ぶか、水をどこへ置くか、どの道を空けるかまで決めてある。
巴が治療場所から顔を出した。
「アラタ!」
「分かっておる。ここは頼むぞ」
「そっちこそ!」
アラタは玄馬と並んで東へ向かった。
宿場の外へ出ると、街道の先に土煙が見える。
最初に現れたのは騎馬ではなく、槍や剣、丸盾を持った歩兵だった。鎧の形も衣服も揃っておらず、一つの軍というより、いくつもの集団を無理に並べたように見える。
「……同じ軍に見えんな」
玄馬が低く言う。
アラタも歩兵たちを見た。
戦いへ向かう者の熱がない。後ろを何度も振り返る者や、武器を握る指を震わせている者までいる。
そのさらに後ろには、装備も動きも揃った騎馬兵が並んでいた。
弓を持った騎兵たちは、前方ではなく歩兵の背中を見ている。
「前の連中は、降った町の兵かもしれんのう」
「後ろから押してるってことか」
「そう見える」
角笛が鳴った。
歩兵たちが走り出す。速くはない。だが後方の騎馬兵が弓を構えた途端、迷っていた者まで前へ押し出された。
「来るぞ!」
玄馬の声に、宿場側の者たちが武器を構える。
アラタは一歩前へ出た。
「聞け!」
走ってくる兵の何人かが顔を上げる。
「武器を捨てて止まるなら、こちらからは斬らん!」
足を緩める者がいた。
その背中へ、後方から矢が飛ぶ。
矢を受けた男が前へ倒れた。
「止まるな! 前へ出ろ!」
騎馬兵の怒声が響く。
別の兵が剣を落とした瞬間、また矢が飛んだ。
アラタの鉄剣がそれを弾く。
「なるほどのう」
声から、いつもの柔らかさが消えた。
「逃げ道まで塞いでおるか」
歩兵の列が迫る。
アラタは最初の槍を横へ流し、柄を握る手を打って武器を落とさせた。隣の男が剣を振り上げたものの、目が合った瞬間に動きを止める。
「捨てるか?」
男は剣を落とした。
「後ろへ下がれ。伏せておれ」
その横から本気で首を狙ってきた兵だけを斬る。
玄馬たちも続いた。
「降りた奴には手を出すな! 来る奴だけ止めろ!」
戦列がぶつかる。
何人かを退けたところで、アラタは違和感を覚えた。
後方にいた騎馬兵の数が減っている。
「玄馬!」
「見えてる!」
正面の混乱に紛れ、数騎が草地を抜けて脇道へ回り込んでいた。向かう先は、西へ動き始めた荷車の方角だ。
「予備を回す!」
玄馬が合図を送る。
朝のうちに残しておいた者たちが、すぐ脇道へ向かった。
その動きを確かめたアラタが正面へ意識を戻した時、低い咆哮が響く。
兵の列が左右へ割れ、奥から大きな檻が引き出されてきた。
布が落ちる。
鉄格子の中で、黒褐色の毛に覆われた四足の魔物が暴れている。
背丈は大人の腰を越え、胴は長く、肩だけが不自然に盛り上がっていた。太い前脚の先には黒い鉤爪が並ぶ。頭は低く扁平で、その下半分を占めるほど大きな口が開き、唇の隙間から短く太い歯が覗いていた。噛み砕くことに特化した顎だと一目で分かった。
「魔物の話、本当だったのかよ……」
宿場側から息を呑む声が漏れた。
檻の扉が開いた瞬間、魔物は目の前にいた兵へ噛みついた。敵味方の区別などない。
悲鳴が上がる。
「走れ!」
騎馬兵が叫び、降伏兵たちが宿場へ向かって逃げ始める。その背後から、血の匂いに興奮した魔物が追い立てるように放たれた。
「趣味が悪いにも程があるのう」
アラタは逃げる兵の前へ出た。
魔物が地面を蹴り、大きな口を開いて飛びかかる。
半歩だけ横へずれ、首筋へ鉄剣を走らせる。
浅い。
黒褐色の毛の下にある皮膚が硬い。
着地した魔物が地面を削りながら振り向いた時、横から長い槍が伸びてきた。
アラタは剣の腹で槍先を逸らす。
間を置かず二撃目、さらに三撃目が来た。
「ほう」
董卓ほどではない。
それでも、先ほどまでの兵とは明らかに違う。
男は無言のまま踏み込み、間合いを崩さない。鎧も周囲とは違っており、ただ集められただけの兵ではなさそうだった。
魔物が横から再び襲いかかる。
槍の男が身を引いた瞬間、アラタは逆に踏み込み、魔物の前脚を斬った。
巨体が傾き、顎が跳ね上がる。
露わになった顎下へ刃を返す。今度は硬い表皮を避け、首の奥まで刃が通った。
魔物が地面へ転がる。
その直後、槍が喉元へ伸びた。
アラタは打ち払い、そのまま一歩で間合いへ入る。
「まだやるか?」
男が初めて迷った。
倒れた魔物とアラタを見比べても、槍は下がらない。
「そうか」
一閃。
槍が中央から折れた。
返した刃を、アラタは男の首の直前で止める。
「武器はなくなったぞ」
男は荒い息を吐きながら、やがて折れた槍を捨てた。
アラタはそれ以上斬らなかった。
その時、西側から鐘が鳴った。
短く、何度も。
アラタの顔が上がる。
「まずい!」
玄馬が叫ぶ。
「回った騎馬だ!」
アラタは走った。
正面にはまだ敵兵が残っている。
だが玄馬もいる。宿場側にも戦える者を残してある。
ここで全部を自分が片付ける必要はない。
西へ向かう途中、避難路近くの小屋から煙が上がっているのが見えた。
荷車そのものではない。
それでも、火が広がれば道が使えなくなる。
数騎の騎馬兵を、予備として残していた者たちが食い止めていた。
「荷車を先へ!」
玄馬が配置した男の声が響く。
一騎が横を抜けた。
アラタは斜め前へ回り込み、馬上の兵が弓を引く前に腕を打つ。そのまま馬の進路へ身体を入れて手綱側へ圧をかけると、驚いた馬が道の外へ逸れた。
二騎目を止める。
三騎目にも追いつく。
だが、その間に別の一騎がさらに遠くを走っていた。火の上がった小屋では、住民たちが消火に動き始めている。
アラタは追う足を止めた。
全部は追えない。
一人を倒している間に、別の敵が別の場所へ向かう。
正面を守れば脇へ回り、脇へ行けば正面が薄くなる。
董卓の時とは違う。
敵は一か所で勝とうとしていない。
こちらを動かし、分け、薄くするために攻めている。
「アラタ!」
荷車の側から声が飛ぶ。
「こっちはもう行ける!」
「そのまま西へ!」
答えて東を振り返ると、正面から角笛が聞こえた。
敵が退き始めている。
この場は守った。
だが胸の内に、勝った時の軽さはなかった。
◇
日が傾く頃には、戦いは終わっていた。
宿場側にも怪我人は出たが、朝までに負傷者を動かし、道を空け、予備を残していたことで大きな崩れにはならなかった。
正面で武器を捨てた兵の一人が地面に座り、巴から腕の傷を巻かれている。
玄馬がその前にしゃがんだ。
「どこの兵だ」
男はしばらく黙った後、乾いた声で答える。
「……東の町だ」
「チンギスの兵じゃなかったのか」
「今日からな」
玄馬の眉が寄る。
「どういう意味だ」
男は自分の手を見た。
「町が降った。武器を捨てた。そうしたら前へ出された」
「前へ?」
「三つの戦で生き残れってさ」
アラタの視線が止まる。
「三つ?」
「三度生き残ったら、大ハーンの兵にしてやるって」
男は力なく笑った。
「一度目でこれだ」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
避難民から聞いた話だけでは分からなかったことが、初めて形になる。
降った兵は軍へ組み込まれる。
だが、それは仲間として迎えられるという意味ではない。
「使い潰して、生き残った者だけ取るか」
玄馬が低く言った。
アラタは東へ目を向ける。
今日来た軍勢は退いた。
追えば、まだ何人かは捕まえられるかもしれない。
だが、今は追わない。
こちらの損害を確かめ、次に備える方が先だった。
「玄馬」
「なんだ」
「見張りを戻してくれ。今度は正面だけではなく、脇道もじゃ」
「ああ」
「それと、西へ送った者たちが無事に着いたか確認を」
玄馬が頷き、すぐに人を呼んだ。
その声を聞きながら、アラタはふと胸元へ手を当てる。
また、あの感覚が来ていた。
今までより強い。
懐かしい。
長い年月、あまりにも近くにありすぎて、そこにあることさえ意識しなくなっていた何か。
そんな感覚に似ている。
今度は、前よりも輪郭がある。
だが、掴もうと意識を向けた途端、それはまた遠のいていった。
「……またか」
正体は分からない。
それでも、前より近い気がした。
「アラタ?」
巴の声に、アラタは顔を上げた。
「何でもない」
そう答えた時、傷を巻かれた男が小さく言った。
「大ハーンは、まだ来てない」
アラタは目を細める。
今日の敵は、蒼き狼の先兵にすぎなかった。




