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戦争をするということ

夜が明ける前から、宿場には人が集まり始めていた。


東から来た避難民の話が広がったのだ。


董卓の背後には、もっと大きな軍がいる。

その名は、チンギス・ハーン。


噂は一晩で形を変えた。


「もう東の村が全部落ちたらしい」


「魔物を何十頭も連れてるって聞いたぞ」


「いや、明日にはここへ来るって――」


確かめようのない話まで混じり、宿場の空気は夜のうちに変わっていた。


朝には、近くの集落からも人が来た。


逃げるべきだと言う者。

戦うなら今しかないと言う者。

先に使者を出して降るべきだと言う者。

自分たちの集落だけ守れればいいと主張する者。


宿場の一角で始まった話し合いは、すぐに声のぶつけ合いになった。


「ここに残ったら巻き込まれる!」


「西へ逃げたって、向こうまで追ってきたらどうする!」


「董卓は退けたんだろう! なら次も戦えばいい!」


「誰が戦うんだよ! お前か!」


「降れば町は残るって話だったじゃないか!」


「それを信じていいのか分からんだろう!」


玄馬が机を一度叩いた。


「順番に話せ!」


声が止まる。


「叫んでも敵は減らん。まず、分かってることと分かってないことを分ける」


昨夜からほとんど休んでいない顔だった。

それでも声は落ち着いている。


アラタは少し離れたところで、そのやり取りを聞いていた。


巴は負傷者のところにいる。

紫式部はまだ療養中で、この場には来ていない。


玄馬が避難民から集めた話を簡単に整理した。


東に大きな軍がいること。

複数の町が落ちていること。

降った兵や物資を使いながら進んでいること。

チンギス・ハーンという名が出ていること。


一方で、正確な兵数も、ここへ向かっている部隊の位置も分からない。


「なら、逃げるしかないだろ」


誰かが言った。


別の男がすぐに返す。


「これだけの人数を一度に動かせると思ってるのか。怪我人もいるんだぞ」


「ここで待って殺されるよりましだ!」


「荷車はどうする。食い物は?」


また声が重なる。


アラタは黙って聞いていた。


懐かしい、と感じたわけではない。

むしろ、できれば二度と考えたくなかった類のことだった。


勇者だった頃は、目の前の敵を倒せばよかった。

強い魔物がいるなら斬る。

襲われている者がいるなら助ける。


それだけで済んだ。


だが、人の上に立つようになってからは違った。


一つの戦場に勝っても、食料がなければ軍は止まる。

道が塞がれば負傷者は運べない。

守る場所を増やしすぎれば、どこも守れなくなる。

戦える者を全員前へ出せば、崩れた時に立て直す者がいなくなる。


そして何より。


戦えない者をどう逃がすかを決めずに始める戦は、勝っても人が死ぬ。


「玄馬」


「なんだ」


「少し聞いてよいかの」


玄馬が頷く。


アラタは集まった者たちを見た。


「西へ抜ける道は、一つだけか?」


「いや。荷車が通れる道は限られるが、人だけなら別の道もある」


「雨が降ったら使えなくなる道は?」


玄馬の目が少し変わった。


「ある」


「水を取れる場所は途中にあるかの」


「あるが、多人数が一度に使えるほどじゃない」


「荷車は今、何に使っておる?」


「負傷者と物資の運搬だ」


「歩けぬ者を運ぶ分を残して、空いているものは?」


玄馬は少し考えた。


「少しは動かせる」


「食料は、一か所に集めておるのか?」


今度は宿場の者が答えた。


「全部じゃない。店や家ごとにも残ってる」


「なら、まず数を見た方がよいのう」


男が怪訝な顔をする。


「何の話だ?」


「逃げるにしても、戦うにしても、食べねば動けんという話じゃ」


アラタは机の上にあった粗い地図へ目を落とした。


細かな距離までは分からない。

それで十分だった。


「戦うか、逃げるか、降るか。決めるのはその後でもよい」


「後でいいって……敵が来てからじゃ遅いだろ」


「だから、その前にどれを選んでも動けるようにしておく」


男が黙る。


アラタは指で西側を示した。


「怪我人、子供、長く歩けぬ者。先に動かせる者から少しずつ西へ送る」


「全員逃がすのか?」


「まだ決めん」


「じゃあ、何のために?」


「道を空けるためじゃよ」


何人かが顔を見合わせた。


「敵が見えてから全員で逃げれば、道が詰まる。荷車が止まれば、動けぬ者から置いていくことになる」


声が消えた。


「逃げると決めてから逃げ道を作るのでは遅い。残ると決めても、負傷者を後ろへ送る道はいる」


玄馬が地図を見る。


「途中に人を置くか」


「うむ。水のある場所と、道が分かれる場所には必要じゃろう。走れる者を残しておけば、東の様子も西へ伝えられる」


「食料は?」


「全部を一か所へ積むのは危ないのう」


宿場の男が眉を寄せる。


「盗まれるぞ」


「だから数だけは把握する。持ち出せる分、ここで使う分、途中へ置く分を分ける」


玄馬が腕を組んだ。


「守る場所はどうする」


その問いに、アラタはすぐ答えなかった。


宿場を見回す。


董卓の攻撃で壊れた柵。

修繕途中の屋根。

まだ横になっている負傷者。


「全部は守れん」


きっぱりと言った。


「家も、畑も、道も、人も、全部同じようには守れぬ」


集まった者の何人かが険しい顔になる。


アラタは続けた。


「じゃから、何を先に守るかを決める」


「人だろ」


「まずはの」


「まず?」


「水、食料、負傷者を動かす荷車。連絡する者。休める場所。戦うなら、それらも守らねば人は残れん」


一人の男が鼻で笑った。


「ずいぶん簡単に言うな。兵隊でもないのに」


アラタはその男を見た。

怒った様子はない。


「そうじゃな。簡単ではない」


それだけ答えた。


玄馬の方が男を見ていたが、何も言わなかった。


アラタは地図へ視線を戻す。


「それと、戦える者を最初から全部並べぬことじゃ」


「数が少ないのにか?」


「少ないからじゃ」


今度は玄馬が答える前に理解した。


「予備を残す」


「うむ」


「前が崩れた時に入れる奴。別の場所へ敵が出た時に回す奴か」


「それがおらんと、一度崩れたら終わる」


玄馬が黙った。


その目が、アラタではなく地図を見ている。

頭の中で人を動かし始めた顔だった。


「巴には、動かしていい負傷者と動かせない負傷者を分けてもらう」


玄馬が言った。


「俺は荷車と道を見る。見張りは増やしたままにする」


宿場の者へ顔を向ける。


「食料の数を出せ。取り上げるんじゃない。今どれだけあるかを知りたい」


「分かった」


「近くの集落にも伝える。逃げるか残るかは向こうが決める。ただ、こっちへ来るなら勝手に一斉に動くなと伝えろ」


次々に役割が決まっていく。


アラタは口を挟まなかった。


それでよかった。


ここを知っているのは玄馬たちだ。

自分が王になる必要などない。


必要なのは、戦える形を作ることだった。


その時、さきほど降伏を口にした男が言った。


「使者を出すのはどうする」


玄馬がアラタを見る。


アラタは首を横に振らなかった。


「降るという選択そのものを、わしが止める理由はない」


男の顔が少し緩む。


「ただし」


アラタは続けた。


「相手が降った者をどう扱うか、わしらはまだ知らん」


避難民から聞いた話では、町は残ることがある。

兵も殺されず使われているという。


だが、それが安全を意味するとは限らない。


「使者を出すなら、戻ってこられる者にする。返事を待っている間も、逃げる準備と守る準備は止めぬ方がよい」


男は少し迷ってから頷いた。


誰かが呟く。


「そこまでやるのか」


アラタはその声の方を見た。


「戦争をするというのは、剣を持って並ぶことではないからのう」


静かになった。


アラタ自身、その言葉を口にしてから少しだけ苦く感じた。


昔、何度も同じことを考えた。


兵を動かす前に食わせる。

戦う前に退路を作る。

勝つ前に、負けた時のことを決める。


王になってから覚えたことの多くは、勇者だった頃には知らなかった。


玄馬がアラタを見る。


「お前」


「なんじゃ?」


「いや」


そこで言葉を切った。


剣が強い理由なら、まだ分かる。


長く修行した。

特別な力がある。


そういう説明で済ませられる。


だが今の話は違う。


人をどこへ置くか。

何を先に動かすか。

何を捨て、何を残すか。


これは、一度や二度の喧嘩や討伐で身につくものではない。


玄馬は結局、何も聞かなかった。


代わりに立ち上がる。


「動くぞ。敵が来てから考えるのはなしだ」


集まっていた者たちも、今度は反論しなかった。


外へ出ると、宿場はすでに騒がしくなっていた。


荷車が動き、水桶が並べられる。その横では見張りの交代が進み、巴が負傷者を一人ずつ確認していた。


まだ誰も、戦うと決めたわけではない。


逃げるとも。

降るとも。


決まっていない。


それでも、決まってからでは遅いことだけは動き始めていた。


アラタは東を見た。


道の先には、まだ敵の姿はない。


その時、胸の奥がかすかに揺れた。


アラタは目を細める。


まただ。


あの夜に感じたものと同じだった。

ただ、今度は消えるまでが少し長い。


懐かしい。


それだけではない。


ずっと昔、当たり前のように傍にあった何かへ、指先だけが触れたような感覚。


「……何じゃ?」


答えはない。


気配も、すぐに遠ざかった。


だが今度は、気のせいだとは思えなかった。


戦争はもう、始まっていた。


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