死者達の街
「……違いますよ」
少女の答えは、はっきりしていた。
「そうか」
アラタはそれだけ返した。
胸の奥に、わずかな落胆がないと言えば嘘になる。だが、日本ではないのなら仕方がない。
百年近く前に一度離れ、とうに帰ることを考えなくなった故郷だ。突然目の前へ道が開いたわけでもないのに、いつまでも引きずるほど若くはなかった。
「では、ここはどこじゃ?」
「それなんですけど……私も、ちゃんとは知らないんです」
「知らんのか?」
「はい。ここが何なのかとか、どうして私たちがここにいるのかとか。そういうことは」
妙な答えではある。
けれど、少女が誤魔化しているようには見えなかった。
「分かっておることだけでよい。聞かせてもらえるかのう」
「もちろんです。あ、その前に」
少女は抱えていた籠を持ち直した。
「私、まだ名乗ってませんでしたよね。巴です」
「巴か。よろしく頼む、巴お嬢ちゃん」
「……やっぱり、その呼び方なんですね」
「何かおかしいか?」
「おかしいですよ。さっきから気になってたんですけど」
巴はアラタの顔をじっと見たあと、頭の先から足元まで視線を下ろした。
「アラタ、どう見ても私より年下ですよ」
「ほう」
「ほう、じゃなくて。どう見ても十四、五くらいにしか見えません」
鏡がないため顔までは分からない。だが、皺の消えた手や軽すぎる身体を思えば、巴の見立ては間違っていないのだろう。
「それで私をお嬢ちゃんって呼ぶの、変じゃないですか?」
「わしから見れば十分お嬢ちゃんじゃよ」
「その『わし』も含めて変なんです!」
巴の声が石造りの遺構に響いた。
アラタは思わず笑う。
「長く生きると、そう簡単には直らんものでな」
「長くって、どれくらいです?」
「さて。百を越えた辺りから細かく数えるのをやめたのう」
「……はい?」
「何じゃ?」
「今、百って言いました?」
「言ったかのう」
「言いました!」
巴はしばらくアラタの顔を見つめていたが、やがて眉間を押さえた。
「もういいです。今は聞かなかったことにします」
「それがよかろう」
「絶対あとで聞きますからね」
「覚えておったら答えよう」
「そこは覚えててください」
会って間もない相手だというのに、随分と遠慮がない。
だが、アラタは嫌いではなかった。
「それで、ここについてじゃ」
「あ、はい」
巴は気を取り直した。
「ここには、死んだ記憶を持ったまま、もう一度目を覚ます人がいます。アラタみたいに」
「お主もか?」
「私もです」
その返事だけ、少し声が硬くなった。
アラタは気づいたが、続きを促さなかった。死に方など、会ったばかりの相手に無理に聞くものではない。
「死んだ者は皆ここへ来るのか?」
「分かりません。少なくとも、私はそうだとは思ってません」
「理由は?」
「もし全員なら、もっと人がいてもおかしくないでしょう? それに、どうしてここへ来たのか知ってる人にも、私は会ったことがありません」
「なるほど」
「だから私が知ってるのは、死んだ覚えがある人がここでまた生きてる。それくらいです」
知らないことを、知ったふうに語らない。
その点は信用できそうだった。
「この辺りには日本人が多いですよ」
「この辺りには、か」
「はい。日本人だけってわけじゃないみたいですけど、私が住んでる町や、その周りは日本の人が多いです」
「皆、同じ時代の者ではなさそうじゃな」
「全然違います。すごく昔の人もいますよ。着物の人もいるし、鎧を着たまま来たって人もいるし」
「鎧のままか」
「最初はびっくりしますよ」
「それは少し見てみたいのう」
「怖くないんですか?」
「死んで、また腹が減っておる。今さら多少変わったものを見ても仕方あるまい」
「……やっぱり変な人ですね」
「よく言われた」
誰に、と巴が聞く前に、アラタは石段へ足を向けた。
「町があるなら、歩きながら聞こう。腹も減った」
「あ、待ってください」
「む?」
「裸足ですよ」
アラタは足元を見る。
「そうじゃったな」
「忘れてたんですか?」
「歩けんことはない」
「そういう問題じゃありません」
巴は籠を地面へ置き、中を探り始めた。薬草や小さな布包みを避け、その下から使い込まれた草履を一足取り出す。
「予備です。ちょっと小さいかもしれませんけど」
「よいのか?」
「このまま連れて帰ったら、私まで何してたのって言われそうなので」
「では借りよう。助かる」
草履は確かに少し小さかったが、森を歩くには十分だった。
「街に着いたら、合うものを探しましょう」
「金がないぞ」
「見れば分かります」
「手厳しいのう」
「来たばかりの人向けに、最低限の世話をしてくれるところがあります。ずっと無料ってわけじゃないですけど」
「働けということか」
「そういうことです」
「それなら分かりやすい」
「嫌じゃないんですか?」
「飯を食うなら働く。当たり前じゃろう」
巴は少し意外そうな顔をしたあと、「それもそうですね」と頷いた。
遺構を出ると、森の中へ細い道が伸びていた。
獣道ではない。土は人の足で踏み固められ、所々に荷車らしい二本の轍が残っている。
アラタは歩きながら、何気なく周囲を見た。
道幅。傾斜。木の切られ方。水が流れた跡。森の奥へ分かれていく細道。
「さっきから何見てるんですか?」
「土地じゃ」
「土地?」
「人が使っておる道には癖が出る。どちらに人が多いか、水はどちらへ流れるか、荷を運ぶならどの道か。その程度じゃよ」
「その程度って……」
巴は足元の轍を見てから、もう一度アラタを見た。
「普通、初めて来た場所でそんなこと気にします?」
「昔からの癖じゃな」
「百歳の?」
「そういうことにしておこう」
「また誤魔化した」
少し進んだ先に、木の道標が立っていた。
墨で書かれた文字を見て、アラタは足を止める。
「日本語か」
「読めますよね?」
「無論じゃ」
書かれているのは、近くの町の名と方角だけだった。
ただの道標。
それでも、懐かしかった。
あの世界へ渡ったばかりの頃は、日本の文字を見ることさえ願ったものだ。だが年月が過ぎ、あちらで生きることが当たり前になってからは、その願いもいつしか消えていた。
「……懐かしいですか?」
「少しな」
それ以上は言わなかった。
巴も聞かなかった。
代わりに、少し先を歩いていた足を緩め、アラタの隣へ並ぶ。
「お主、気が利くのう」
「何のことです?」
「いや、何でもない」
「またお嬢ちゃん扱いしてません?」
「しておらんよ、巴お嬢ちゃん」
「してるじゃないですか!」
森に巴の声が響いた。
その後は歩きながら、この辺りでの暮らしを聞いた。
食べ物も宿も金が要ること。働き口はいくつもあること。町の外には魔物が出る場所があり、それを退治して暮らしている者もいること。
「死んだ後まで働くのか」
「生活がありますからね」
「世知辛いのう」
「嫌そうですね」
「いや、むしろ安心した」
「安心?」
「腹が減れば飯を食う。そのために働く。前に生きた世界と、そこまで違わん」
「そういうものですか?」
「そういうものじゃよ」
少なくとも、人が人として暮らしている。
それが分かれば十分だった。
「ちなみに、米はあるか?」
「ありますよ」
「味噌汁は?」
「あります」
「焼き魚」
「ありますね」
「漬物」
「あります」
アラタの歩調がほんの少し速くなった。
「……よいところかもしれん」
「食べ物だけで決めないでください!」
「懐かしいものが揃っておるからのう」
「そこはちょっと分かりますけど」
巴も笑った。
やがて木々の間から人の声が聞こえ始めた。
荷車の軋む音。
遠くで響く槌の音。
風に混じる煙と、炊いた米の匂い。
「もうすぐです」
巴が少し前へ出る。
森を抜けると、緩やかな下り坂の向こうに町が広がっていた。
瓦屋根の家。白壁。軒先の暖簾。石を使った大きな建物も混じり、遠くには高い塀まで見える。
それだけなら、古い日本の町並みと言われても納得したかもしれない。
だが、通りを行き交う人々はそうではなかった。
髷を結い、腰に刀を差した男の横を洋服姿の青年が歩き、その向こうでは鎧姿の武士と着物姿の商人が何事もないように立ち話をしている。
少し離れた場所には、アラタの記憶にあるものより新しそうな服を着た者までいた。
時代が揃っていない。
何百年もの隔たりを、一つの町へ押し込んだような景色だった。
「……これは面白いのう」
「そこ、驚くところじゃないんですか?」
「驚いておるよ」
「顔に出てません」
「歳を取ると出にくくなるんじゃ」
「だから見た目は私より年下なんです!」
またその話に戻った。
アラタは笑いながら、もう一度町を見渡した。
時代も服装も違う人間が、同じ道を歩き、同じ店を使い、何事もないように暮らしている。
「しかし、これだけ違う時代の者がおって、よく一つの町として成り立っておるな」
「この町だけじゃないですけどね。この辺りは、今は一人の人を中心にまとまってますから」
「一人?」
「織田信長様です」
アラタの視線が止まった。
「……誰じゃと?」
「織田信長様」
「まさか、あの織田信長か?」
「たぶん、アラタが思ってる人です」
巴の答えはあっさりしていた。
アラタは町と巴を交互に見る。
「歴史上の人物までおるのか」
「いますよ。私も最初に聞いた時は信じられませんでしたけど」
「しかも人をまとめておる、と」
「この町を含む一帯をまとめているのは信長様です」
なるほど。
死んだ記憶を持つ人間が時代を越えて集まるのなら、歴史に名を残した者だけが例外だと考える理由もない。
理屈としては分かる。
分かるのだが。
「随分と妙なところへ来たものじゃな」
「今さらですか?」
「少しずつ妙さが増しておる」
巴が笑った。
そこでアラタは、町の端に立つ物見櫓へ目を向けた。
武装した男が二人、周囲を見張っている。
「信長殿は、この町におるのか?」
「いいえ。今は西の方です」
「西?」
「戦争してるんです」
巴の声が少しだけ真面目になった。
「誰とじゃ?」
「アレキサンダー大王」
今度こそ、アラタは黙った。
巴が横から顔を覗き込む。
「今度はちゃんと驚きました?」
「いや」
「いや?」
「信長の次がアレキサンダー大王とは、随分と賑やかな世界じゃと思ってな」
「笑い事じゃないですよ。戦争なんですから」
「それはそうじゃな」
アラタは改めて町を見る。
だが、眼下では子供が走り、商人が暖簾を出し、荷車がのんびりと通りを進んでいる。
戦時の町にしては、空気が穏やかだった。
「その割には、随分と落ち着いておる」
「戦ってるのはずっと西の方ですし、信長様が軍を出して押さえてるそうですから」
巴も町へ目を向ける。
「兵や物資が西へ送られることはありますけど、この辺りは今のところ普段とそんなに変わりません」
「なるほどのう」
戦をしている。
それでも、戦場ではない場所では人が飯を食い、商いをし、一日を暮らしている。
それを当たり前のまま保つことは、口で言うほど容易ではない。
アラタは遠くの町並みを眺めた。
「少なくとも、名だけの殿様ではなさそうじゃな」
「信長様のことですか?」
「うむ」
「会ったこともないのに?」
「町を見れば、多少は分かる」
「またそういうこと言う」
「昔からの癖じゃよ」
巴が呆れたように息を吐いた。
「まあ、今は西にいますから、普通に暮らしてたら会うこともないと思いますけど」
「それは残念じゃな」
「会いたいんですか?」
「少し興味はある」
それだけ言って、アラタは坂を下り始めた。
町へ近づくほど、炊事の匂いが濃くなった。醤油らしい香ばしさまで混じってくる。
腹が鳴った。
巴がこちらを見る。
「聞こえました」
「わしも聞こえた」
「先に何か食べます?」
「話の分かるお嬢ちゃんじゃ」
「ただし、その前に一か所だけ」
巴が町の中にある大きめの建物を指した。
「新しく来た人は、まず登録です。名前とか、分かる範囲のことを届けてもらいます」
「……飯の前か?」
「前です」
アラタはしばらく建物と、通りの向こうから漂ってくる焼き魚の煙を見比べた。
「どこへ行っても、世の中そう甘くはないのう」
「何の話です?」
「こちらの話じゃよ」
焼き魚の煙へ名残惜しそうに目を向けるアラタを、巴が「ほら」と急かした。




