再び目覚めた者
見知らぬ青空が、視界いっぱいに広がっていた。
アラタはしばらく黙ってそれを見上げていた。
「…………」
夢ではない。
少なくとも、そう考えた方がよさそうだった。
頬を撫でる風は冷たい。
鼻をくすぐる土と草の匂いもある。
背中には硬い感触。
指を動かせば、ざらりとした石の感触が返ってきた。
死んだ後に見る夢にしては、妙に具体的すぎる。
「やれやれ……」
アラタはゆっくりと上体を起こした。
視界がわずかに揺れる。
反射的に片手を石台へつき、身体を支えた。
「……む?」
違和感があった。
だが、悪いものではない。
むしろ逆だ。
軽い。
あまりにも身体が軽い。
先ほどまで――いや、自分の感覚ではほんの少し前まで、寝台から起き上がるだけでも人の手を借りるほどだった。
腰は痛む。
膝は軋む。
指先には力が入らない。
呼吸一つするのにも身体のどこかが悲鳴を上げる。
それが老いるということだった。
ところが今は。
アラタは立ち上がった。
「……ほう」
痛くない。
腰も。
膝も。
背中も。
試しに肩を回してみる。
滑らかに動く。
腕を伸ばす。
握る。
開く。
拳を作る。
力を込めれば、指の一本一本まで思い通りに動いた。
「これは……」
自分の手を見る。
皺がない。
老人特有の浮き出た血管も、痩せ細った指も消えていた。
皮膚は若く、張りがある。
アラタは無言で自分の腕をまくった。
腕は細い。
だが、弱々しい細さではなく、無駄なく引き締まっている。
「……若返っておるな」
呟いてから。
アラタは自分の頬を触った。
髭もない。
頬も落ち窪んでいない。
「鏡が欲しいところじゃのう」
周囲を見回す。
そこは、半ば屋外に近い石造りの空間だった。
円形に並んだ古い柱。
その一部は崩れ、隙間から空が見えている。
アラタが寝ていたのは、その中央に置かれた平たい石台だった。
祭壇。
あるいは何らかの儀式場。
そんな印象を受ける。
柱には見覚えのない文字のようなものが刻まれているが、長い年月に削られ、半分ほど読めない。
「墓ではなさそうじゃな」
自分で言って、小さく息を吐く。
それから、少しだけ表情を引き締めた。
若返った。
生き返った。
だからといって、喜んで飛び跳ねるほど若くはない。
身体はともかく。
中身はとうに百歳を超えている。
それに。
これは二度目だ。
一度目の人生を日本で終えた後。
目を覚ませば、見知らぬ異世界だった。
当時は混乱した。
ここはどこだ。
なぜ生きている。
家族は。
日本は。
帰れるのか。
答えもないまま、魔物に襲われ。
生きるために剣を握った。
それから――ずいぶんと遠くまで来た。
勇者と呼ばれた。
魔王を倒した。
王になった。
帝王になった。
仲間を得た。
子を育てた。
老いた。
そして、死んだ。
今度こそ全て終わったと思っていた。
「それが……」
アラタは自分の手を見つめる。
「三度目、ということかのう」
口にすると、どうにも間の抜けた話だった。
一度なら奇跡。
二度なら何かある。
三度ともなれば、さすがに誰かに文句の一つも言いたくなる。
「頼んだ覚えはないんじゃがな」
空を見上げても、当然ながら答えは返ってこない。
「まあよい」
アラタはあっさりと視線を戻した。
理由が分からないなら、今考えても仕方がない。
分からぬものを分からぬまま延々と考えるほど暇ではない。
まず確認すべきことがある。
ここがどこなのか。
自分は何者としてここへ来たのか。
そして――。
「力がどれほど残っておるか、じゃな」
アラタは右手を前へ出した。
目を閉じる。
呼吸を整え。
身体の内側へ意識を向けた。
そこにあるものを探る。
「…………」
ある。
魔力。
間違いない。
あの世界で長い年月をかけ、身体の一部のように扱ってきたもの。
老衰する直前には弱りきっていたそれが、今は力強く身体の内を巡っている。
「なるほど」
掌の上へ、ごく僅かな魔力を集める。
淡い光が灯った。
ほんの小さな光球。
指先ほどの大きさしかない。
だが。
アラタは眉を動かした。
「随分と出しやすい」
若い肉体の影響だろうか。
老人だった頃とは比べものにならない。
魔力の通り道に淀みがない。
身体も反応する。
試しに光を消し、足元に視線を落とした。
軽く踏み込む。
次の瞬間。
ドンッ。
身体が数歩先まで飛んだ。
「おっと」
危なげなく着地する。
本人としては軽く地面を蹴っただけだった。
石床には小さな亀裂が走っている。
「……これは少々、加減を覚え直さんといかんか」
若い身体。
残っている魔力。
百年以上積み重ねた戦闘経験。
少なくとも、丸腰の老人として放り出されたわけではないらしい。
それはありがたい。
だが。
アラタの表情が変わった。
「…………」
もう一度、目を閉じる。
今度は自分の中ではなく。
もっと遠く。
ずっと長い間、当たり前のようにそこに存在していたものへ意識を伸ばす。
呼びかけるように。
探すように。
「リーズ」
反応はない。
「……レオル」
何もない。
「ベルゼ」
静寂。
メラルド。
ヨセフ。
国。
城。
自分と長い年月をかけて結ばれた土地。
種族。
契約。
魔力。
人々。
かつて救世帝として手にしていた、あまりにも多くの繋がり。
「…………」
ない。
正確には。
どこかに存在しているような感覚すら掴めない。
アラタはゆっくりと目を開けた。
「そう都合よくはいかんか」
落胆というほどではなかった。
ただ。
少しだけ胸の奥が寂しい。
死んだ。
別れた。
自分でそれを受け入れたはずだ。
それでも、たった今まで傍にいた者たちの気配が、何一つ届かない。
リーズの騒がしい声も。
レオルの大笑いも。
ベルゼの生真面目な返事も。
もう聞こえない。
「……達者でおれよ」
誰に言うでもなく、呟いた。
それから、一度息を吐く。
感傷に浸るのは後でいい。
今は状況把握が先だ。
身体能力は高い。
魔力もある。
技術も記憶も失ってはいない。
一方で、救世帝として長い年月をかけて得たものの一部は繋がらない。
「全部なくしたわけではない。かといって、以前と同じでもない……か」
アラタは顎に手を当てた。
「まあ、十分じゃろう」
自分でも随分と呑気な結論だと思う。
だが本当にそう思った。
若い。
身体は動く。
腹も減る。
魔力も残っている。
何より生きている。
ならば、まずはそれでいい。
「さて」
石造りの空間から外を見る。
森がある。
その向こうには、山。
さらに遠く。
木々の隙間から、何かが見えた。
「……煙か?」
細い煙が何本か空へ昇っている。
火事ではなさそうだ。
一定の間隔。
複数箇所。
おそらく人の住む場所がある。
「文明はあるようじゃのう」
それなら話は早い。
人がいるなら話を聞けばいい。
言葉が通じるかは知らないが、それも行ってみなければ分からない。
アラタは石台から降りようとして――。
止まった。
「……そういえば」
自分の格好を見る。
白い簡素な服。
上下とも見覚えがない。
靴もない。
武器もない。
金もない。
「三度目の人生は、無一文からか」
帝王の最期から、裸足の無一文。
落差がひどい。
「リーズが見たら怒りそうじゃな」
想像すると、少しだけ可笑しかった。
『我が主に何という格好をさせておる!』
おそらくは、そんなことを言う。
そして誰が悪いかも分からないまま周囲に怒る。
「……ふっ」
自然に笑みが漏れた。
まだ。
死んでから、それほど時間が経った感覚はない。
だからなのだろう。
ふとした瞬間に、あの者たちの顔が浮かぶ。
「いかんのう」
アラタは頭を掻いた。
「死んだのはわしの方じゃというのに」
そうして石段を一段降りた時だった。
カサッ。
外の茂みが揺れた。
アラタの動きが止まる。
視線だけを向ける。
風ではない。
足音。
一人。
軽い。
大柄ではない。
敵意は――今のところ感じない。
それでも身体は自然に構えていた。
剣はない。
必要なら素手でいい。
石でも拾えば武器になる。
茂みの向こうから音が近づいてくる。
ガサガサッ。
「もう……またこんなところに――」
若い女の声。
次の瞬間。
木々の間から、一人の少女が姿を現した。
黒い髪。
まだ幼さを残す顔立ち。
手には小さな籠。
何かの薬草でも摘んでいたのだろう。
少女は石造りの遺構へ足を踏み入れ。
そこで。
アラタと目が合った。
「…………」
「…………」
互いに動かない。
少女の視線が。
アラタの顔。
服。
裸足。
そして背後の石台へと順番に移っていく。
やがて。
「え?」
少女が目を丸くした。
「まさか……」
籠を落としかけ、慌てて抱え直す。
もう一度アラタを見る。
「ここから……出てきたんですか?」
「そうらしいのう」
「…………」
少女は数秒間、固まった。
そして。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
なぜか慌ててこちらへ駆け寄ってくる。
「動かないで!そこで待っててください!」
「いや、別に逃げはせんが」
「本当に転生者なら確認しないといけないんです!」
「転生者」
その言葉に、アラタの目が僅かに細くなる。
どうやら。
少なくとも自分に起きたことを知る人間はいるらしい。
「お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃん!?」
「少々、聞きたいことがあるんじゃが」
「その前に!」
少女はアラタの前まで来ると、息を整え。
真っ直ぐこちらの顔を見た。
「あなた……自分の名前、言えますか?」
「名前?」
「はい」
随分と妙な確認だと思った。
だが答えられない理由もない。
「小佐々新」
少女の目が瞬く。
「コザサ……アラタ?」
「うむ」
「日本人……ですよね?」
その一言に。
アラタは、初めて表情を変えた。
「……日本を」
少女を見る。
「日本を知っておるのか?」
「知ってるも何も――」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「私も日本人ですけど?」
「…………」
今度はアラタが黙る番だった。
日本人。
百年近く、聞くことのなかった言葉だった。
あの世界で生きることを、自分の人生として受け入れてからは――日本へ帰ることを考えることも、いつしかなくなっていた。
それでも。
目の前の少女は、今、自分を日本人だと言った。
アラタは少女をじっと見つめる。
「お主……」
少しだけ間を置いて。
「ここは、日本なのか?」




