プロローグ -転生帝王の終焉-
「我が主」
呼ばれている。
それは分かっていた。
ただ、返事をするだけのことが、ひどく億劫だった。
「我が主アラタ。聞こえているのであろう?」
今度は少し怒った声だった。
アラタは重いまぶたを開いた。
ぼやけた視界の中、最初に見えたのは白銀の髪。
その奥に、赤い瞳があった。
「……なんじゃ。リーズか」
「なんじゃ、ではない!」
竜王リーズ=アルヴァレイン。
白き龍たちを束ねる王。
かつて敵国の軍勢ごと山を吹き飛ばそうとして、アラタに本気で止められたこともある女だ。
そんな彼女が今は寝台の傍らに膝をつき、皺だらけになったアラタの手を握りしめている。
赤い瞳は濡れていた。
「そのような顔を……するでない」
「誰のせいだと思っておる!」
「わしでは……ないじゃろう。寿命じゃ」
一度、浅く息を吸う。
「寿命に……怒って、どうする」
いつものやり取り。
そう思ったのか、部屋のどこかで小さな笑い声がした。
「まだそれだけ言い返せるなら大丈夫だな」
低く、よく響く声。
獅子の顔を持つ大男、レオル=ガルディアが腕を組んで立っていた。
「明日にゃまた起き上がって、朝飯が不味いだの腰が痛いだの言ってるんじゃねえか?」
「残念ながら……もう飯を食うのも、面倒でのう」
「なら俺が肉を焼いてやる」
「お主の焼いた肉は……硬い」
「死にかけの爺が文句言うな」
アラタはわずかに口元を緩めた。
「死にかけじゃからこそ……最後くらい、旨いものが食いたいのじゃ」
また笑いが起きる。
誰も大きくは笑わなかった。
笑えば、そのあと泣いてしまうと分かっているような笑いだった。
アラタはゆっくりと視線を動かした。
長い寝室だった。
かつては各国の王や使節を迎えた宮殿の一室。
今は、随分と人が集まっている。
エルフ王メラルド=シルヴァリス。
獣王レオル。
竜王リーズ。
そして――赤い髪を持つ女性。
「……ベルゼ」
「はい」
ベルゼ=スターク。
今や魔族を率いる立場となった女。
かつてアラタが勇者だった頃、その母である魔王ベルガ=スタークと命を懸けて戦った。
あの戦いの最後。
ベルガは、娘と魔族の未来をアラタへ託した。
あれから、随分と長い時間が経った。
「魔族の方は……どうじゃ」
「何も問題ありません」
ベルゼは涙を堪えながら、それでも笑った。
「人族領との交易も安定しています。新しい瘴気炉も三基完成しました。もう、誰かの土地を奪わなければ生きられない時代ではありません」
「そうか……」
アラタは目を細めた。
「なら……よかった」
それだけだった。
ベルゼの表情が崩れる。
「アラタ様……」
「泣くでない……」
「ですが……!」
「お主の母親に……怒られるぞ。魔王の娘が、その程度で泣くな……とな」
ベルゼは唇を噛んだ。
やがて、小さく笑う。
「母なら……確かに言いそうです」
「じゃろう……?」
ベルガ。
敵だった。
本気で殺し合った。
魔族を滅ぼすつもりで剣を振るったこともある。
だが最後に残ったのは、恨みではなかった。
託されたものだった。
アラタは、それを果たした。
それでいい。
その少し後ろに、一人の男が立っている。
「ヨセフ……」
「……はい、父上」
かつて拾った孤児だった。
剣を教えた。
文字を教えた。
政治を教えた。
叱った回数は数えきれない。
その少年は今、自分より遥かに大きくなっていた。
「国のことは……任せたぞ」
ヨセフの肩が僅かに揺れる。
「まだ……私は、父上ほどには」
「なる必要は……ない」
アラタはゆっくり答えた。
ヨセフが顔を上げる。
「わしと同じ帝王になる必要など……ない。お主は……お主じゃ」
「ですが……」
「わしも最初から……何でもできたわけではない」
息を整える。
「いや……今でも、何でもできるわけではないのう」
リーズが鼻を鳴らした。
「我が主ができぬことなどない」
「そういうところじゃぞ……お主は」
「事実を述べて何が悪い」
「ほれ……こういう面倒な龍の相手も、お主らの仕事になる」
「誰が面倒だ!」
ヨセフが、とうとう吹き出した。
「……分かりました」
「うむ……」
「父上とは違うやり方でも、この国を守ります」
「それで……よい」
それを聞けただけで十分だった。
アラタは目を閉じた。
息をするたび、胸が少しだけ痛む。
治癒魔法でも治せない。
呪いでもない。
病でもない。
ただ、寿命だった。
「陛下」
メラルドの声がする。
「本当に……これ以上の治療は?」
「……不要じゃ」
「ですが、古代術式ならば――」
「メラルド……」
アラタは静かに名を呼んだ。
「もう……よい」
室内が静まり返る。
「百年近く……生きた」
日本での人生を含めれば、さらに長い。
「十分……じゃろう」
かつて日本で死んだ。
気がつけば、見知らぬ世界にいた。
魔物に追われた。
剣を握った。
勇者と呼ばれた。
仲間ができた。
魔王ベルガと戦った。
そして勝った。
けれど、魔王を倒して終わりではなかった。
戦争があった。
人間同士の争いもあった。
魔族には魔族の事情があった。
龍族には龍族の誇りがあり、獣人には獣人の国があり、エルフにも歴史があった。
剣だけでは何も解決しないことを知った。
気づけば国を治めていた。
さらに気づけば、いくつもの種族が一つの旗のもとに集まっていた。
勇者。
王。
救世帝。
ずいぶんと大袈裟な名で呼ばれたものだ。
だが本人としては、目の前の問題を一つずつ片づけていただけだった。
それを続けていたら、いつの間にか老人になっていた。
「……長かったのう」
思わず声が漏れる。
「我にとっては短すぎる」
リーズが言った。
竜にとって、人間の百年など短いのだろう。
「……そうか」
「我が主」
リーズの手に力がこもった。
「逝くな」
部屋が静かになる。
「我はまだ、お主と共にいたい」
竜王としての威厳も何もない。
ただ、一人の女の声だった。
アラタは少しだけ困ったように笑った。
「困った……龍じゃのう」
「構わぬ」
「わしはもう……爺じゃぞ」
「知っておる」
「剣も……満足に振れん」
「我が運ぶ」
「飯も……大して食えん」
「我が食わせる」
アラタの口元が、わずかに緩む。
「お主……それでは、介護ではないか」
「ならば介護してやる!」
アラタは笑った。
今度は、ほとんど声にならなかった。
ただ肩が、わずかに揺れた。
「リーズ……」
「……何だ」
「楽しかったぞ……」
リーズの目から涙が落ちた。
「お主と……旅をしたのも」
レオルを見る。
「馬鹿を……やったのも」
「まだ…足りねぇ…」
メラルド。
「国のことで……朝まで話したのも」
「……はい」
ベルゼ。
「ベルガとの約束を……果たせたのも」
「はい……!」
ヨセフ。
「子供を育てるというものを……知れたのも」
「父上……」
全部。
悪くなかった。
「わしは……この世界へ来て、よかった」
日本へ帰りたいと思った時期もある。
何度もあった。
理不尽だと思った。
勝手に転生させられ、命を懸けて戦わされるなど、冗談ではないと思ったこともある。
けれど。
いつからか。
ここも、自分の世界になっていた。
「良い……人生じゃった」
そう言える。
胸を張って。
「ですから……」
ベルゼが泣きながら言った。
「もう少しだけ……」
アラタは小さく首を振った。
「……駄目じゃ」
「どうしてですか」
「……眠い」
「そんな理由ですか!」
かすかな笑みが浮かぶ。
「年寄りに……無理を言うでない」
また少しだけ笑いが起きた。
いい。
これでいい。
泣き声だけに囲まれて死ぬのは御免だった。
「……皆の者」
声が掠れた。
一度、息を継ぐ。
それでも全員がこちらを見ていた。
「……世話に、なったのう」
「逆です」
ヨセフが言う。
「私たちの方が……ずっと」
「なら……お互い様じゃ」
視界が暗くなっていく。
指先の感覚も、もうほとんどない。
不思議と怖くはない。
一度目の死とは違う。
今度は、ちゃんと終わりが見えている。
「我が主」
最後まで、リーズの声だけはよく聞こえた。
「また……会えるか?」
しばらく返事がなかった。
アラタはわずかに目を開く。
「……さてのう」
「アラタ!」
口元だけで笑う。
「……冗談じゃ」
ひとつ、浅い息。
「長く……生きておれば……そんなことも、あるかもしれん」
「約束だぞ」
「勝手に……約束にするでない」
「もうした」
「……困った、龍じゃ」
その言葉を最後に。
アラタは目を閉じた。
小佐々新。
かつて日本人として生き。
一度死に。
異世界で勇者となり。
魔王を倒し。
数多の種族を束ね。
救世帝と呼ばれた男。
その二度目の人生は――静かに終わった。
未練はなかった。
やり残したことも、ほとんどない。
だからアラタは思った。
これでようやく終わりだ、と。
もう戦う必要もない。
もう国を背負う必要もない。
静かに眠ればいい。
――そう。
本気で思っていた。
◇
「……ん?」
頬に、冷たい風が触れた。
アラタは眉をひそめる。
おかしい。
死んだはずなのに。
風がある。
土の匂いがする。
鳥の声まで聞こえた。
「…………」
嫌な予感がした。
ゆっくりと目を開く。
そこにあったのは、見覚えのない青空。
アラタはしばらく黙って空を見上げた。
そして。
「……またか」
小さく呟いた。
お読みいただきありがとうございます。
感想などいただけると嬉しいです。




