東から来る者たち
宿場の朝は、戦いの前より忙しくなっていた。
壊れた場所の修繕は続き、負傷者の世話も終わっていない。
それでも、数日前まで絶え間なく聞こえていた怒号は消えた。
代わりに、荷車の軋む音や、鍋を洗う音が戻ってきている。
アラタは宿場の入口近くで、積み上げられた木材を運んでいた。
「そこじゃなくて、こっち!」
巴の声が飛ぶ。
「聞こえておる」
「聞こえてるなら最初からこっちに持ってきてよ」
「同じような板が多すぎるのじゃ」
「言い訳しない」
「厳しいのう」
そう言いながら、アラタは素直に方向を変えた。
少し離れたところでは、玄馬が数人の男と話している。
戦いが終わってからも、宿場に残る仕事は減らない。
捕虜の管理に負傷者の移送、食料の確認、壊れた柵や屋根の補修。加えて、董卓が逃げた東の街道も見張り続けなければならない。
「アラタ」
玄馬が呼んだ。
木材を置き、そちらへ向かう。
「どうした?」
「ちょっと気になる話がある」
玄馬の前には、宿場で商いをしている男がいた。
日に焼けた顔が、不安そうに東を向いている。
「東へ出た連中が戻ってこねえ」
男が言った。
「連中?」
「商人だよ。いつもなら何人かはとっくに戻ってる。荷が遅れることはあるが、ここまで揃って戻らねえのは珍しい」
玄馬が補足する。
「昨日から東へ向かう荷車も減ってる」
アラタは街道を見る。
道そのものに変わったところはない。
だが、言われてみれば人が少ない。
「董卓の残党を避けておるだけではないのか?」
「最初は俺もそう思った」
玄馬は腕を組んだ。
「だが、東から来る者まで減ってる」
「……なるほど」
人が危険を避けるなら、往来は片側だけが減るとは限らない。
それでも、逃げてくる者すら少ないというのは妙だった。
「もう少し様子を見るか」
アラタがそう言った時だった。
見張り台から声が上がった。
「東から荷車!」
玄馬とアラタが同時に振り返る。
一台。
その後ろに、もう一台。
商人の荷車ではなかった。
人が乗っている。
荷台にも、横にも、歩いてついてくる者がいる。
荷台には老人や女、子供が乗っていた。歩いてついてくる者の中には、腕を吊った男や、裂いた服を頭に巻いている者もいる。
見張りが門を開ける。
荷車が近づくにつれて、誰も喋らなくなった。
「巴!」
玄馬が呼ぶ。
「もう見えてる!」
返事と同時に、巴が治療用の袋を抱えて走ってきた。
アラタも荷車へ向かう。
最初の荷台から降りようとした老人が足を滑らせた。
「ゆっくりでよい」
アラタが身体を支える。
老人は驚いたように少年の顔を見たが、礼を言う余裕もないらしい。
「水を」
掠れた声だった。
「ある。焦るな」
玄馬が周囲へ指示を飛ばす。
「歩ける者はあっちだ! 怪我人を先に降ろせ! 子供から水を回せ!」
宿場が一気に騒がしくなる。
先日の戦いとは違う騒がしさだった。
誰かが襲ってきたわけではない。
だが、逃げてきた者たちの顔を見れば、何かが起きていることだけは分かった。
◇
話を聞けるようになるまで、しばらくかかった。
水を飲ませ、怪我人を横にし、子供を落ち着かせる。
玄馬は最初の一人の話だけで決めず、別々に来た者から順に事情を聞いた。
アラタも横に座っていた。
「どこから来た?」
玄馬が尋ねる。
男が東を指した。
「ここから、ずっと向こうだ。町にいた」
名前を聞いても、アラタには土地勘がない。
玄馬も場所を確認するだけで、それ以上は追わなかった。
「董卓の軍か?」
男は首を振った。
「違う」
即答だった。
「董卓の兵も見たことはある。あんなのじゃない」
「何が違う」
「数だよ」
男の喉が動く。
「端が見えないくらい、いた」
玄馬の顔が険しくなる。
「話を大きくしてないか」
「してない!」
男が声を荒らげ、すぐに隣で眠る子供を見て声を落とした。
「俺たちの町だけじゃない。手前の集落も、その先もだ。逃げてきた奴らから聞いた。あいつら、止まらねえ」
別の場所で話を聞いていた者が割って入る。
「俺のいたところも落ちた」
玄馬がそちらを見る。
「同じ軍か?」
「旗は違うのも混じってた。でも、みんな同じ方へ動いてた」
「旗が違う?」
「元からいた兵だけじゃないんだ。降った町の兵もいる。前の日まで守ってた奴が、次の日にはあいつらと一緒に歩いてる」
「町は焼かれたか?」
玄馬が続けて尋ねた。
「逆だ」
「逆?」
「逆らったところは酷い。でも、降ったところは残す」
男は唇を噛んだ。
「食い物も全部燃やすんじゃない。持っていく。馬も、荷車も、武器も。鍛冶屋まで連れていく」
アラタの目が細くなる。
「連れていく、というのは捕虜としてか?」
「分からねえ。殺されちゃいない。仕事をさせられてるのは見た」
「町を治めてた者も、言うことを聞けばそのまま使われるらしい」
別の老人の言葉にも、アラタは何も挟まず耳を傾けていた。
「魔物までいたって話もある」
誰かが言った。
「本当か?」
「俺は見てない。ただ、でかい獣みたいなのを連れてたって……」
噂と事実が混じり始めている。
アラタはそこで手を上げた。
「見ていないものは、いったん置こう」
皆が少年を見る。
「自分で見たことだけでよい。町は落ちた。降った兵は軍へ組み込まれた。食料、馬、荷車、武器、職人は使われておる。ここまでは同じ話が出ておるな?」
玄馬が頷く。
「別々の連中からな」
巴が小さく息を吐いた。
「董卓とは全然違うね」
「ああ」
玄馬も同意する。
董卓は恐怖と欲を煽り、兵を暴れさせた。
だが、今聞いている軍は違う。
アラタの表情が変わった。
征服した先を食い潰すのではない。
兵も、物資も、人も、そのまま次の進軍へ組み込んでいる。
「厄介じゃのう」
玄馬が見る。
「分かるのか」
「進むほど弱る軍ではない。下手をすれば、進むほど大きくなる」
巴の表情が強張る。
「それって……」
「軍だけが来るのではない、ということじゃ」
アラタは東の道を見る。
「取ったものを、そのまま次の力に変えておる」
沈黙が落ちた。
◇
避難してきた者は、その日だけでは終わらなかった。
午後にも数人。
日が傾く頃には、別の荷車が一台。
話は少しずつ違った。
戦わず門を開けた町もあれば、抵抗して短時間で潰された小勢力もあった。
降伏した兵をそのまま使われた場所もあれば、物資を差し出して住民の多くが残された場所もある。
だが、共通していることがあった。
東から大きな軍が来ている。
そして、その軍を率いる者には呼び名がある。
「蒼き狼」
焚き火のそばで、老人がそう言った。
玄馬が聞き返す。
「何だ、それは」
「兵がそう呼んでいた」
別の男が首を振る。
「俺が聞いたのは“大ハーン”だ」
「同じ奴なのか?」
「たぶん……」
言葉が重なる。
誰も本人を近くで見たわけではない。
噂だけが、軍より先に届いている。
アラタは黙って聞いていた。
その時、荷車で来た若い男が、震える声で言った。
「名前も聞いた」
皆の視線が集まる。
男は一度唾を飲み込んだ。
「チンギス・ハーン」
巴の顔が固まった。
「……チンギス・ハーン?」
アラタも男を見る。
日本にいた頃に知った歴史上の名。
広大な土地を征服し、その後の世界に巨大な影響を残した人物。
ただ同じ名を持つだけの別人、とは考えにくい。
この世界には、紫式部がいる。
董卓がいる。
西では織田信長とアレキサンダーが戦っている。
ならば。
「これまた、とんでもない名が出てきたのう」
いつもの調子に近い声だった。
だが、笑ってはいなかった。
玄馬が尋ねる。
「知ってるのか?」
「わしのいた時代では、有名な征服者じゃよ」
「どれくらいだ」
アラタは少し考えた。
歴史の授業で覚えた数字を並べる意味はない。
今必要なのは、そこではなかった。
「少なくとも、名だけで済ませてよい相手ではない」
玄馬が東の街道を見る。
「董卓の上に、まだいるってことか」
「そう考えておいた方がよかろうな」
アラタも暗くなり始めた道の先へ目を向けた。
董卓は退けた。
それで東が静かになると思っていた者もいた。
だが、あれは先頭だっただけなのかもしれない。
「玄馬」
「なんだ」
「今夜から、東の見張りを増やしてくれ」
玄馬はすぐに頷いた。
「分かった」
「わしも少し考える」
「何を?」
アラタはすぐには答えなかった。
逃げるのか。
守るのか。
どこまで戦うのか。
まだ決めるには情報が足りない。
「どうするにしても、次は董卓一人を相手にするのとは違うからのう」
玄馬も、それ以上は聞かなかった。
宿場にはまだ、修繕の音が残っている。
治療を受けている者もいる。
子供の泣き声も聞こえる。
その向こう。
東の街道だけが、夜の中へ真っ直ぐ伸びていた。
アラタはその暗がりを見つめる。
そして、もう一度だけ胸の中でその名を繰り返した。
チンギス・ハーン。




