攻めぬ大王
西方の空は、朝から低い雲に覆われていた。
織田信長は陣の前へ出ると、遠くに広がる敵軍を黙って見ていた。
幾列にも並ぶ兵。馬。旗。
距離があるため細かな顔までは見えない。それでも、あれが寄せ集めではないことくらいは分かる。
動きが揃っている。
補給も途切れていない。
前へ出る部隊と下がる部隊の入れ替えにも無駄がない。
何より、数が多い。
信長の横にいた武将が口を開く。
「本日も、敵の前線に大きな動きはありません」
「見れば分かる」
「は」
信長は腕を組んだ。
長身寄りの細身だが、黒漆の甲冑をまとった身体は武人らしく引き締まっている。艶のある黒髪は高めにまとめられ、やや面長の顔にある鋭い黒い目が、遠くの敵陣を射抜くように見ていた。
冷たい風が甲冑の上を抜けていく。
敵将の名は、アレキサンダー。
遠い昔、異国に巨大な版図を築いた王。
この世界へ来てからも、その名に恥じぬ軍を持っている。
強い。
それはもう疑う必要がなかった。
だからこそ、分からない。
「今日も来ぬか」
「小競り合いはあります。ですが、昨日と同じく、本隊を押し出す様子はありません」
信長の目が細くなる。
敵にはまだ余力がある。こちらの守りが薄くなった時もあった。攻め込めたはずなのに、アレキサンダーは来なかった。
攻められないのではない。
攻め切らない。
信長には、そう見えていた。
「殿」
「なんだ」
「このままなら、戦線は保てます」
信長が横目で男を見る。
「このままなら、な」
男が黙る。
「これを膠着と見るか?」
「……違うので?」
「互いに押し切れぬなら膠着だ。だが、奴らにはまだ出せる兵がある」
信長は顎で敵陣を示した。
「出せる兵を出さずに止めている。そこを見誤るな」
「罠でしょうか」
別の男が尋ねる。
「知らん」
信長は即答した。
「断ずるな。罠かもしれん。迷いかもしれん。こちらの知らぬ事情かもしれん」
「では、しばらく様子を」
「それも違う」
信長が振り返る。
「理由が分からぬからこそ、目を離せん」
男たちは黙った。
攻めてこない。
その事実だけを見れば、兵を別へ回す好機にも思える。
だが、相手は弱兵ではない。
こちらが大きく兵を減らした瞬間だけ、本気で来る可能性もある。
信長はそれを嫌った。
相手が何を考えているか分からないまま、都合のいい解釈だけで動く気はない。
「西は、このまま維持する」
「はっ」
「向こうが動かぬなら、こちらも無駄に血を流す必要はない。ただし、崩すな。兵を抜きすぎるな。物資の流れも止めるな」
「承知しました」
命令を受けた者たちが動き始める。
その時だった。
陣の奥から、一人の伝令が急ぎ足でやってきた。
泥のついた脚。
息も上がっている。
「申し上げます!」
信長が目だけを向ける。
「東方から報せが入りました」
西を見ていた信長の顔が、わずかに変わった。
「言え」
「東方より侵入していた董卓の軍が退きました」
周囲の空気が動く。
「退いたか」
「はい。宿場を包囲していた兵は崩れ、董卓本人も負傷して敗走したとのこと」
信長は伝令を見る。
「誰がやった」
「現地の者たちに加え、救援に入った者がおります。その中に、董卓本人を退けた少年がいたと」
「少年?」
「十五ほどに見えたと聞いております」
一瞬、誰も声を出さなかった。
信長が眉を上げる。
「十五だと?」
「名は、アラタ」
その名を、信長はゆっくり繰り返した。
「アラタ」
聞き覚えはない。
「董卓は弱かったのか」
「いえ。報告では、董卓本人も相当な手練れだったと」
「兵を率いていた少年か?」
「それが……違うようです」
伝令は少し言いにくそうに続ける。
「自らの軍を率いていたわけではなく、現地の救援に加わっていた者だと」
信長の口元が僅かに上がった。
「ほう」
周囲の武将たちが顔を見合わせる。
「続けろ」
「はっ。宿場へ向けられた矢を防ぎ、董卓軍の兵を崩し、最後は董卓本人との一騎打ちに勝ったと。ただし、董卓は逃走しております」
「殺し損ねたか」
「追えば追いつけたはずだが、宿場への攻撃を止める方を選んだ、と現場では見られているようです」
信長の目が少しだけ笑った。
「なるほど」
十五ほどの少年。
軍を率いているわけでもない。
董卓を倒せる。
だが、逃げた敵将より民を取った。
情報が少なすぎる。
だからこそ興味が湧く。
「何者だ」
「現在、確認中です」
「調べろ。出自、どこから来た、誰と動いている、何をして暮らしていたか。分かる範囲で構わん」
「はっ」
伝令が頭を下げる。
横にいた武将が尋ねた。
「殿。東へ兵を送りますか」
信長は答えなかった。
再び西を見る。
遠く。
アレキサンダーの軍は、まだそこにいる。
静かだ。
静かすぎる。
「主力は動かさん」
「しかし董卓の背後に、さらに兵がいる可能性も」
「あるだろうな」
「ならば――」
「だからといって、ここを空けるのか」
武将が口を閉じた。
信長は遠くの敵陣から視線を外さない。
「あの男が何を考えているか、俺にはまだ読めん」
アレキサンダー。
あれだけの兵を持ちながら、なぜ攻め切らない。
それが分からない。
分からない相手の正面から主力を抜けば、こちらから隙を差し出すことになる。
「東に敵が出たからと西を空ければ、今度は西から崩れる」
信長は淡々と言った。
「西を支えたまま、東も持たせる。それしかない」
「……は」
「ただし、東の情報は集めろ。董卓だけで終わると思うな」
「承知しました」
信長はそこで一度だけ、伝令の去った方を見る。
「アラタ、か」
知らぬ名だった。
だが、覚えておく価値はありそうだった。
◇
向かいの陣。
高い場所から信長軍を眺めていた男がいた。
二十代半ばほどに見える、信長よりややがっしりした体格の若い男だった。鍛えられた身体を深い色の外套が包み、濃い金にも明るい栗色にも見える髪が風に揺れている。
彫りの深い顔にある灰青の目は、遠くの信長軍から離れなかった。
その姿は、王というより長い遠征を生き抜いてきた兵に近い。
背後では、出撃を待つ騎兵たちが静かに控えていた。
命令さえ出れば動ける。
前へ出ろと言えば、すぐにでも。
男はしばらく何も言わなかった。
遠くに見える信長の陣。
その中心にいるはずの人物を見つめる。
やがて、小さく息を吐いた。
「……織田信長、か」
それだけだった。
進めとも。
退けとも。
命令は出なかった。




