英雄の力
宿場には、ようやく戦いの後らしい静けさが戻り始めていた。
静かになった、と言っても人の出入りが減ったわけではない。
負傷者の手当ても、壊れた場所の修繕も続いている。ただ、怒号や悲鳴の代わりに、誰かを呼ぶ声や煮炊きの音が聞こえるようになっていた。
アラタは宿の軒下で、割れた木箱の板を組み直していた。
「それ、何に使うの?」
後ろから巴の声がした。
「包帯や薬を置く箱が足りんと言っておったじゃろう」
「言ったけど」
巴はしゃがみ込み、箱の角を覗き込む。
「こういうのもできるんだ」
「これくらいならのう。城を建てろと言われたら困るが」
「それは誰でも困るよ」
アラタは笑いながら、木片を合わせ直した。
少し離れた部屋では、紫式部がまだ横になっている。
意識は戻っているものの、身体は十分に動かない。喉も巴から厳しく使用禁止を言い渡されたままだった。
先ほどアラタが顔を出した時も、紫式部は声を出さず、小さく頭を下げただけだった。
「式部殿はどうじゃ?」
「少しは良くなってるよ。でも、まだ喋らせない」
「わしもそう言われた気がするのう」
「言った。本人にもアラタにも言った」
巴は即答した。
「二人とも、放っておくと喋らせそうだから」
「信用がないのう」
「こういう時のアラタはない」
そこまで言ってから、巴はアラタの手元を見る。
「でもまあ、働いてくれてる分には助かる」
「では褒めてもよいぞ」
「調子に乗るからやめとく」
アラタは残念そうに肩をすくめた。
箱を組み終えると、二人で治療に使っている部屋まで運ぶ。
その途中、宿場の端に集められている捕虜たちが見えた。
見張りはついているが、怪我人には水と食事が与えられている。
あの時、弓を捨てた若い兵もいた。
アラタと目が合うと、男は一瞬だけ身体を固くしたあと、ゆっくり頭を下げた。
アラタも軽く頷くだけにする。
「まだ決めないんだね」
巴が言った。
「何をじゃ?」
「あの人たちをどうするか」
「急いで決める必要もあるまい。怪我をしておる者も多いし、話を聞くにも時間がいる」
「そっか」
「それに」
アラタは捕虜たちへ目を向けた。
「董卓の妙な力が、どこまで効いておったかも分からんからのう」
巴もそちらを見る。
しばらくして、アラタがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、あの力は何なのじゃ?」
「董卓の?」
「それもじゃが、式部殿の方もじゃ」
巴が瞬きをする。
「おぬしは見たことがあるのじゃろう?」
「式部さんがそういう力を持ってるのは知ってた。あそこまで大きく使ってるのは初めて見たけど」
「声で矢を逸らしておった」
「うん」
「董卓は人の怒りや欲を煽る。式部殿は言葉で人を守る」
アラタは少し考えた。
「この世界では、ああいう力を持つ者は珍しくないのか?」
巴は箱を置きながら首を傾げた。
「珍しくない……って言うほど多くはないかな。でも、歴史に名前が残ってるような人とか、有名な英雄にはいるよ」
「ほう」
アラタの目が少し明るくなる。
「その人の生き方とか、逸話とか、そういうのに関係した力を持ってることが多いみたい」
「多い、ということは決まりではないのじゃな」
「うん。全員が持ってるわけじゃないし、誰が決めてるのかも、どうしてそうなるのかも私は知らない」
「なるほどのう」
「式部さんが言葉に関係する力を持ってるのは、分かりやすい方だと思う」
「董卓も、ある意味では分かりやすいのう」
巴は少し嫌そうな顔をした。
「そっちは分かりやすくなくてもよかったけどね」
「違いない」
アラタは頷き、それから自分の手を見る。
掌を開き、閉じる。
巴がその様子に気づいた。
「なに?」
「いや」
アラタはもう一度手を開いた。
「わしにも、そういうものがないかと思ってのう」
巴は数秒黙った。
「……アラタ、今のままで足りないの?」
「足りぬとは言っておらん」
「董卓を一人で倒しておいて?」
「強さとは別の話じゃよ」
アラタは楽しそうに笑った。
「今まで知らんかった新しい技が、自分にもあるかもしれんのじゃろう? それは少しわくわくするではないか」
巴は呆れたようにアラタを見る。
「そういうところだけ子供っぽいよね」
「見た目に合わせておるのじゃ」
「絶対違う」
すぐに返され、アラタが笑う。
巴も少し笑ってから、何気なく言った。
「まあ、アラタも英雄だったら何か貰えたかもね」
アラタの動きが止まった。
ほんの一瞬だけだった。
「……そうじゃな」
「え?」
「いや。それは残念じゃのう、と思ってな」
「そんなに欲しかったんだ」
「せっかく三度目の人生じゃ。新しいものが一つくらい増えても罰は当たるまい」
「三度目って時点で十分すごいと思うけど」
「それとこれとは別じゃ」
「またそれ言う」
巴は笑いながら治療部屋へ戻っていった。
アラタはその背中を見送る。
英雄。
その言葉に、今さら何かを感じることはない。
勇者と呼ばれたこともある。
王と呼ばれたこともある。
最後には、随分と大仰な呼ばれ方までされた。
だが、それはもう前の世界で終わった話だ。
今ここにいるのは、十五歳で登録された新参者のアラタである。
「まあ、わしにも何かあるなら、少しくらい期待してもよいと思うがのう」
誰に言うでもなく呟き、アラタは次の荷物を運びに向かった。
◇
夜。
宿場の仕事が一段落すると、アラタは借りた部屋で一人横になっていた。
外ではまだ見張りの足音がする。
完全に安全になったわけではない。
東へ逃げた董卓軍が戻ってくる可能性もある。
それでも、昼間よりは静かだった。
目を閉じる。
巴との話を思い出した。
英雄や偉人が持つ、その者自身に結びついた力。
「さて」
アラタは布団の上で仰向けになったまま、小さく呟いた。
「本当に何かあったりするのかのう」
冗談半分だった。
何か特別な言葉を唱えるわけでもない。
目を閉じ、指先から腕、胸、腹へと、ゆっくり意識を巡らせてみる。
特に変わったものはない。
身体は若い。
力も十分に動く。
だが、昼間の話に出てきたような、今まで知らなかった何かが潜んでいる感覚はなかった。
「まあ、そんな都合よくはいかんか」
アラタは息を吐いた。
そのまま意識をほどこうとした時だった。
何かが、遠くでかすかに触れたような気がした。
アラタの目が開く。
確かめようと意識を向ける。
だが、もう何もない。
耳を澄ませても、聞こえるのは外の風と見張りの足音だけだ。
敵意はない。
危険な感じもしない。
ただ、胸の奥に理由の分からない懐かしさだけが残っていた。
ずっと昔に置いてきた何かを、不意に思い出しかけた時のような感覚。
アラタはしばらく黙っていたが、やがて首を振った。
「年寄りの感傷かのう」
もう一度横になる。
今度は探らなかった。
気のせいなら、それでよい。
そう思って目を閉じる。
けれど眠りへ落ちる直前まで、あの一瞬の懐かしさは、胸のどこかに残っていた。




