↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/75

狼の王

馬が陣へ入った時、董卓の右肩には新しい血が滲んでいた。


途中で何度も布を巻き直した。腿の傷も浅くはない。馬から降りるだけで鈍い痛みが走る。


それでも、董卓は誰かに肩を貸させなかった。


東方へ戻るにつれ、街道を行く兵の数は増えていった。


騎馬の列、荷を積んだ車、武器を運ぶ者。見慣れぬ衣服の兵たちまでいる。


出身も時代も違う者が混じっているというのに、進む方向だけは揃っている。


それが董卓には気に入らなかった。


この軍をまとめている男を思い出すからだ。


いや、男という言い方すら正しくない。


「董卓様」


陣の入口にいた兵が駆け寄ってくる。


「大ハーンがお待ちです」


董卓の眉が動いた。


「もう伝わっているのか」


兵は答えなかった。


答えられないのだろう。


董卓は舌打ちし、馬の手綱を近くの兵へ投げた。


逃げ帰った。


その言葉が頭に浮かび、すぐに噛み潰す。


違う。


情報を持ち帰ったのだ。


あの少年のことを。


そう言い聞かせても、喉元に冷たい鉄剣を置かれた感触は消えなかった。


◇


陣の奥は静かだった。


豪奢な宮殿があるわけではない。


幾つもの兵と物資が行き交う大きな陣の中心に、周囲より少し広い幕舎がある。


その中で、一人の少年が地図を見ていた。


十歳ほどにしか見えない少年だった。濡れたような黒髪に、整った幼い顔。細い目だけが、年齢に似合わない鋭さを帯びている。


小さな指が地図の上をゆっくりとなぞっていた。


董卓は、その姿を見るたびに腹の奥が冷える。


少年が顔を上げた。


「遅かったな、董卓」


声も高い。


だが、子供と話している気には一度もなったことがない。


董卓は片膝をつかなかった。


それくらいの意地は残している。


「見れば分かるだろう。少々、手間取った」


少年――チンギス・ハーンの視線が、董卓の右肩へ移る。


次に腿。


最後に、腰へ戻った。


そこにあるはずの大刀がない。


「手間取った顔ではないな」


「……」


「負けたか」


幕舎の中にいた兵たちの空気が僅かに固くなる。


董卓の顔が歪んだ。


「そうだ」


笑い声はなかった。


チンギスも笑わない。


「誰に」


董卓は一瞬だけ黙った。


口にするだけで、あの少年の顔が浮かぶ。


「アラタ、と呼ばれていた」


チンギスの目が少し細くなる。


「それだけか」


「十五ほどに見える小僧だ。黒髪で、身体も大きくない」


「兵は」


「連れていない」


「何人率いていた」


「だから、兵など――」


董卓はそこで言葉を止めた。


チンギスが聞いている意味に気づいた。


「……見た限りでは、あの小僧自身の兵はいなかった」


「では、お前は兵を持たない一人の小僧に敗れたのか」


幕舎の空気がさらに重くなる。


董卓が歯を食いしばる。


「ただの小僧ではない!」


声が響いた。


兵の何人かが董卓を見る。


チンギスだけは動かなかった。


「ならば、それを話せ」


その一言で、董卓は黙った。


「強かった。化け物だった。そんな話なら犬でもできる」


細い目が董卓を見る。


「儂が知りたいのは、何をしたかだ」


董卓の拳が握られる。


腹立たしい。


だが正しい。


自分が逆の立場でも同じことを聞く。


董卓は息を吐いた。


「最初に、宿場へ放った矢を止めた」


「どうやって」


「剣で落とした。一本二本ではない。一斉射だ」


周囲の兵が僅かにざわつく。


チンギスは止めなかった。


「その後、わしの兵の前へ一人で出た」


「戦ったか」


「戦った。だが……妙な戦い方をする」


「妙?」


「斬れる者を全部斬らん」


チンギスの指が地図の上で止まった。


董卓は続けた。


「降りる者と逃げる者には手を出さん。だが、なお民へ向かう者は斬る。武器を捨てず、刃へ手を伸ばした者も斬った。あの小僧は戦場の最中に、一人ずつ選んでいた」


「敵兵へ逃げ道を与えて、軍を崩したか」


「……そうだ」


思い返すだけで苛立つ。


恐怖に耐えきれなくなった者から武器を捨て、逃げ、こちらの命令よりあの少年の言葉を選んだ。


チンギスの口元が僅かに動いた。


笑ったわけではない。


何かを考えている顔だった。


「お前は」


「何だ」


「あの力は使ったか」


董卓の目が険しくなる。


「使った」


「効いたか」


答えに詰まった。


効かなかった、と言えば自分の力が通じなかったことになる。


効いた、と言えば、効かせても勝てなかったことになる。


どちらも気に入らない。


「……効いた」


ようやく答える。


「怒りは増した。わしを斬りたいという感情も強くなったはずだ」


「なら、効いてるな」


「だが、あいつは変わらなかった」


「違う」


チンギスが遮る。


「変わって、それでも選んだんだろう」


董卓は黙った。


「怒らなくなったのではない。怒ったまま、別の判断をした」


あの少年の声が蘇る。


――感情と判断は別じゃ。


董卓の頬が引きつった。


「……同じようなことを、あいつも言っていた」


その瞬間、チンギスが笑った。


幼い顔に、狼のような獰猛さが浮かぶ。


「面白い」


董卓はその笑みが嫌いだった。


自分を打ち破った時にも見た。


強い敵を前にした時、この少年は機嫌がよくなる。


「まだある」


董卓は言った。


「わし自身も負けた」


「見れば分かる」


「最後まで聞け」


珍しく、チンギスは素直に黙った。


董卓は右肩へ視線を落とす。


「力だけではない。速さも、読みも、剣も上だった。わしは大刀を失い、肩と腿を斬られた。最後は喉へ剣を置かれた」


「なぜ生きている」


董卓の表情が固まった。


そこだけは話したくなかった。


だが、チンギスの前で隠しても意味がない。


「……殺さなかった」


「なぜ」


「知らん」


「お前が命乞いしたか」


「するか!」


董卓の怒声に、チンギスはまた少し笑った。


「では、逃がされたのか」


「違う!」


董卓は反射的に否定した。


あれを逃がされたとは思いたくない。


「わしは宿場へ矢を射かけさせた。その隙に離れた」


「なるほど」


「追えば追いつけたはずだ」


董卓の声が低くなる。


「あいつは追わなかった。わしではなく、宿場へ戻った」


チンギスの笑みが消えた。


今度は本当に考えている。


「お前を殺すより、民を守った」


「そうだ」


「勝った後も?」


「そうだ」


短い沈黙が落ちる。


やがてチンギスは地図へ視線を戻した。


「アラタ」


初めて、その名を自分の口で確かめる。


「兵を持たず、兵を崩し、敵へ逃げ道を与え、必要な者だけを斬る」


指先が地図の西側へ動く。


「お前を倒せるのに殺さず、民を選んだ」


董卓は鼻を鳴らした。


「気に入ったか」


「まだ分からない」


チンギスは即答した。


「会ってもいない相手を、話だけで決めるほど儂は暇ではない」


そして顔を上げる。


「だが、覚えた」


細い目が董卓を捉える。


「アラタ、か」


董卓の背中に、妙な寒気が走った。


「それで」


董卓は低く言う。


「わしをどうする」


「どうするとは?」


「敗れて戻った。兵も失った」


チンギスはしばらく董卓を見た。


本当に意味が分からないような顔をする。


「それで殺してほしいのか」


「誰がそんなことを言った!」


「なら聞くな」


チンギスは地図へ目を戻した。


「死んだ兵は、見たものを報告できない」


董卓が黙る。


「お前は敗れた。兵を失った。武器まで失った。無様だな」


董卓の額に青筋が浮く。


「だが、敵を見た。力を受けた。戦い方を見た。そして戻った」


チンギスの指が、地図の上を一度叩いた。


「なら、使える」


それだけだった。


慰めでもない。


許しでもない。


董卓はそれが分かった。


自分に価値がある間は使う。


なくなれば捨てる。


昔、自分の軍を潰された時から何も変わっていない。


腹が立つ。


だが、その冷たさこそが董卓に反論を許さなかった。


「傷を治せ」


チンギスが言う。


「次がある」


董卓が顔を上げた。


「次?」


「お前一人が負けたから、儂の軍が止まると思ったか」


少年が立ち上がる。


立ち上がっても、董卓より遥かに小さい。それでも、その少年が幕舎の誰より大きく見える瞬間があった。


「道の先に強い者がいる」


チンギスは笑った。


「それで進まない理由になるか?」


幕舎の外では、兵が動いていた。


馬へ鞍が置かれ、荷がまとめられ、命令が次々と伝わっていく。


董卓はその音を聞きながら、何も言わなかった。


自分が持ち帰ったのは、敗北の報告だったはずだ。


だが今になって、別のものまで連れて帰ってきたような気がした。


あの宿場へ。


あの少年のところへ。


東の果てで牙を研いでいた狼の目を、向けてしまった。


チンギスは地図の先を見たまま、もう一度だけその名を口にした。


「アラタ」


その声は、楽しそうだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。