狼の王
馬が陣へ入った時、董卓の右肩には新しい血が滲んでいた。
途中で何度も布を巻き直した。腿の傷も浅くはない。馬から降りるだけで鈍い痛みが走る。
それでも、董卓は誰かに肩を貸させなかった。
東方へ戻るにつれ、街道を行く兵の数は増えていった。
騎馬の列、荷を積んだ車、武器を運ぶ者。見慣れぬ衣服の兵たちまでいる。
出身も時代も違う者が混じっているというのに、進む方向だけは揃っている。
それが董卓には気に入らなかった。
この軍をまとめている男を思い出すからだ。
いや、男という言い方すら正しくない。
「董卓様」
陣の入口にいた兵が駆け寄ってくる。
「大ハーンがお待ちです」
董卓の眉が動いた。
「もう伝わっているのか」
兵は答えなかった。
答えられないのだろう。
董卓は舌打ちし、馬の手綱を近くの兵へ投げた。
逃げ帰った。
その言葉が頭に浮かび、すぐに噛み潰す。
違う。
情報を持ち帰ったのだ。
あの少年のことを。
そう言い聞かせても、喉元に冷たい鉄剣を置かれた感触は消えなかった。
◇
陣の奥は静かだった。
豪奢な宮殿があるわけではない。
幾つもの兵と物資が行き交う大きな陣の中心に、周囲より少し広い幕舎がある。
その中で、一人の少年が地図を見ていた。
十歳ほどにしか見えない少年だった。濡れたような黒髪に、整った幼い顔。細い目だけが、年齢に似合わない鋭さを帯びている。
小さな指が地図の上をゆっくりとなぞっていた。
董卓は、その姿を見るたびに腹の奥が冷える。
少年が顔を上げた。
「遅かったな、董卓」
声も高い。
だが、子供と話している気には一度もなったことがない。
董卓は片膝をつかなかった。
それくらいの意地は残している。
「見れば分かるだろう。少々、手間取った」
少年――チンギス・ハーンの視線が、董卓の右肩へ移る。
次に腿。
最後に、腰へ戻った。
そこにあるはずの大刀がない。
「手間取った顔ではないな」
「……」
「負けたか」
幕舎の中にいた兵たちの空気が僅かに固くなる。
董卓の顔が歪んだ。
「そうだ」
笑い声はなかった。
チンギスも笑わない。
「誰に」
董卓は一瞬だけ黙った。
口にするだけで、あの少年の顔が浮かぶ。
「アラタ、と呼ばれていた」
チンギスの目が少し細くなる。
「それだけか」
「十五ほどに見える小僧だ。黒髪で、身体も大きくない」
「兵は」
「連れていない」
「何人率いていた」
「だから、兵など――」
董卓はそこで言葉を止めた。
チンギスが聞いている意味に気づいた。
「……見た限りでは、あの小僧自身の兵はいなかった」
「では、お前は兵を持たない一人の小僧に敗れたのか」
幕舎の空気がさらに重くなる。
董卓が歯を食いしばる。
「ただの小僧ではない!」
声が響いた。
兵の何人かが董卓を見る。
チンギスだけは動かなかった。
「ならば、それを話せ」
その一言で、董卓は黙った。
「強かった。化け物だった。そんな話なら犬でもできる」
細い目が董卓を見る。
「儂が知りたいのは、何をしたかだ」
董卓の拳が握られる。
腹立たしい。
だが正しい。
自分が逆の立場でも同じことを聞く。
董卓は息を吐いた。
「最初に、宿場へ放った矢を止めた」
「どうやって」
「剣で落とした。一本二本ではない。一斉射だ」
周囲の兵が僅かにざわつく。
チンギスは止めなかった。
「その後、わしの兵の前へ一人で出た」
「戦ったか」
「戦った。だが……妙な戦い方をする」
「妙?」
「斬れる者を全部斬らん」
チンギスの指が地図の上で止まった。
董卓は続けた。
「降りる者と逃げる者には手を出さん。だが、なお民へ向かう者は斬る。武器を捨てず、刃へ手を伸ばした者も斬った。あの小僧は戦場の最中に、一人ずつ選んでいた」
「敵兵へ逃げ道を与えて、軍を崩したか」
「……そうだ」
思い返すだけで苛立つ。
恐怖に耐えきれなくなった者から武器を捨て、逃げ、こちらの命令よりあの少年の言葉を選んだ。
チンギスの口元が僅かに動いた。
笑ったわけではない。
何かを考えている顔だった。
「お前は」
「何だ」
「あの力は使ったか」
董卓の目が険しくなる。
「使った」
「効いたか」
答えに詰まった。
効かなかった、と言えば自分の力が通じなかったことになる。
効いた、と言えば、効かせても勝てなかったことになる。
どちらも気に入らない。
「……効いた」
ようやく答える。
「怒りは増した。わしを斬りたいという感情も強くなったはずだ」
「なら、効いてるな」
「だが、あいつは変わらなかった」
「違う」
チンギスが遮る。
「変わって、それでも選んだんだろう」
董卓は黙った。
「怒らなくなったのではない。怒ったまま、別の判断をした」
あの少年の声が蘇る。
――感情と判断は別じゃ。
董卓の頬が引きつった。
「……同じようなことを、あいつも言っていた」
その瞬間、チンギスが笑った。
幼い顔に、狼のような獰猛さが浮かぶ。
「面白い」
董卓はその笑みが嫌いだった。
自分を打ち破った時にも見た。
強い敵を前にした時、この少年は機嫌がよくなる。
「まだある」
董卓は言った。
「わし自身も負けた」
「見れば分かる」
「最後まで聞け」
珍しく、チンギスは素直に黙った。
董卓は右肩へ視線を落とす。
「力だけではない。速さも、読みも、剣も上だった。わしは大刀を失い、肩と腿を斬られた。最後は喉へ剣を置かれた」
「なぜ生きている」
董卓の表情が固まった。
そこだけは話したくなかった。
だが、チンギスの前で隠しても意味がない。
「……殺さなかった」
「なぜ」
「知らん」
「お前が命乞いしたか」
「するか!」
董卓の怒声に、チンギスはまた少し笑った。
「では、逃がされたのか」
「違う!」
董卓は反射的に否定した。
あれを逃がされたとは思いたくない。
「わしは宿場へ矢を射かけさせた。その隙に離れた」
「なるほど」
「追えば追いつけたはずだ」
董卓の声が低くなる。
「あいつは追わなかった。わしではなく、宿場へ戻った」
チンギスの笑みが消えた。
今度は本当に考えている。
「お前を殺すより、民を守った」
「そうだ」
「勝った後も?」
「そうだ」
短い沈黙が落ちる。
やがてチンギスは地図へ視線を戻した。
「アラタ」
初めて、その名を自分の口で確かめる。
「兵を持たず、兵を崩し、敵へ逃げ道を与え、必要な者だけを斬る」
指先が地図の西側へ動く。
「お前を倒せるのに殺さず、民を選んだ」
董卓は鼻を鳴らした。
「気に入ったか」
「まだ分からない」
チンギスは即答した。
「会ってもいない相手を、話だけで決めるほど儂は暇ではない」
そして顔を上げる。
「だが、覚えた」
細い目が董卓を捉える。
「アラタ、か」
董卓の背中に、妙な寒気が走った。
「それで」
董卓は低く言う。
「わしをどうする」
「どうするとは?」
「敗れて戻った。兵も失った」
チンギスはしばらく董卓を見た。
本当に意味が分からないような顔をする。
「それで殺してほしいのか」
「誰がそんなことを言った!」
「なら聞くな」
チンギスは地図へ目を戻した。
「死んだ兵は、見たものを報告できない」
董卓が黙る。
「お前は敗れた。兵を失った。武器まで失った。無様だな」
董卓の額に青筋が浮く。
「だが、敵を見た。力を受けた。戦い方を見た。そして戻った」
チンギスの指が、地図の上を一度叩いた。
「なら、使える」
それだけだった。
慰めでもない。
許しでもない。
董卓はそれが分かった。
自分に価値がある間は使う。
なくなれば捨てる。
昔、自分の軍を潰された時から何も変わっていない。
腹が立つ。
だが、その冷たさこそが董卓に反論を許さなかった。
「傷を治せ」
チンギスが言う。
「次がある」
董卓が顔を上げた。
「次?」
「お前一人が負けたから、儂の軍が止まると思ったか」
少年が立ち上がる。
立ち上がっても、董卓より遥かに小さい。それでも、その少年が幕舎の誰より大きく見える瞬間があった。
「道の先に強い者がいる」
チンギスは笑った。
「それで進まない理由になるか?」
幕舎の外では、兵が動いていた。
馬へ鞍が置かれ、荷がまとめられ、命令が次々と伝わっていく。
董卓はその音を聞きながら、何も言わなかった。
自分が持ち帰ったのは、敗北の報告だったはずだ。
だが今になって、別のものまで連れて帰ってきたような気がした。
あの宿場へ。
あの少年のところへ。
東の果てで牙を研いでいた狼の目を、向けてしまった。
チンギスは地図の先を見たまま、もう一度だけその名を口にした。
「アラタ」
その声は、楽しそうだった。




