戦のあと②
紫式部が目を覚ましたのは、それから少し経ってからだった。
最初に見えたのは、見慣れない天井だった。
焦げた木の匂い。
薬草と血の匂い。
遠くで人が行き来する音がする。
身体を起こそうとして、力が入らなかった。
「式部さん?」
すぐ傍から巴の声がした。
紫式部が目だけを動かす。
「起きなくていいから。そのまま」
巴が顔を覗き込んでいた。
紫式部の唇が動く。
声は出なかった。
「喋らなくていい」
巴は少し強めに言った。
「喉、まだ駄目だから」
紫式部はしばらく巴を見ていた。
そして、ゆっくり視線を動かす。
外。
人の声。
泣き声はある。
けれど、戦いの音がしない。
紫式部の目が揺れた。
巴には、何を尋ねたいのか分かった。
「大丈夫。董卓軍は退いたよ」
紫式部の瞼が僅かに下がる。
「みんなも生きてる。怪我人はいるけど、最後の一斉射で新しくやられた人はいない」
そこで初めて、紫式部の目から涙が零れた。
声はない。
ただ、一筋だけ頬を流れた。
巴は何も言わず、その涙を布で拭った。
「……本当に、よくやったよ」
紫式部が小さく首を振る。
巴の眉が寄った。
「そこ否定しないの」
また首を振ろうとして、今度は巴に止められた。
「それも駄目。今は寝てて」
その時、入口の方で足音が止まった。
アラタだった。
手には空になった水桶を持っている。
「目が覚めたか」
紫式部の視線が彼へ向く。
あの時と同じ黒髪の少年。
最後に覚えている声も、この少年のものだった。
――よく頑張ったのう。もう大丈夫じゃ。
紫式部の唇が動いた。
巴がすぐ顔をしかめる。
「式部さん」
それでも紫式部は、もう一度だけ息を押し出した。
声とは呼べないほど掠れた空気が、僅かに音になる。
「……あり……が……」
巴が額を押さえる。
「もう喋らない!」
「無理をするでない」
アラタも苦笑して、紫式部の傍へ腰を下ろした。
「礼を言われるようなことでもない」
紫式部は弱く首を振る。
今度は巴も止めなかった。
アラタはその意味を考えるように、少しだけ黙った。
「おぬしが守っておった者たちは、ちゃんと生きておるよ」
紫式部の目が細くなる。
「わしが着くまで、あれだけの人数を守ったのはおぬしじゃ」
紫式部はまた何か言おうとしたが、巴が無言で睨んだため諦めた。
その様子を見て、アラタが笑う。
「巴には逆らわん方がよいぞ。こういう時は特に怖い」
「アラタ?」
「ほれ、怖い」
巴が睨み、紫式部の口元がほんの少しだけ緩んだ。
笑ったせいで喉が痛んだのか、すぐ眉を寄せる。
「だから笑わせないで!」
「それはすまんかった」
アラタは素直に頭を下げた。
少しだけ空気が緩む。
紫式部は天井を見上げた。
守れなかったと思った。
声が消えた時、すべて終わったと思った。
けれど、まだ人の声が聞こえる。
子供の泣き声も、誰かを呼ぶ声も、怪我人を励ます声も。
生きているから聞こえる音だった。
紫式部は目を閉じた。
今度は、先ほどまでとは違う涙が滲んだ。
アラタはそれを見ても何も言わなかった。
しばらくして、紫式部が再び目を開ける。
視線だけでアラタを見る。
「なんじゃ?」
唇が動く。
巴が先に気づいた。
「名前?」
紫式部が小さく頷く。
「ああ」
アラタは自分を指した。
「アラタじゃ。小佐々新。こちらではアラタで通しておる」
紫式部は、その名を覚えるようにゆっくり瞬きをした。
「おぬしは紫式部でよいのじゃろう?」
頷く。
「有名人に会うのは、何度経験しても妙なものじゃのう」
紫式部の目に、少しだけ疑問が浮かぶ。
「わしも元は日本人じゃよ」
その一言で、紫式部の表情が変わった。
声を出そうとする気配を察し、巴が即座に手を上げる。
「質問は禁止」
アラタが笑った。
「続きは元気になってからじゃな」
紫式部は少しだけ残念そうな顔をしたものの、やがて素直に目を閉じた。
その時、外から玄馬の声が聞こえた。
「アラタ! 少しいいか!」
「今行く」
立ち上がりかけたアラタの袖を、弱い指が掴んだ。
振り返る。
紫式部だった。
力などほとんど入っていない。
それでも、離す前にもう一度だけ彼を見た。
今度は声を出さなかった。
紫式部はただ、深く頭を下げようとする。
アラタは慌てて手で止めた。
「だから無理をするでない」
困ったように笑い、それから少しだけ声を柔らかくする。
「礼なら、元気になってからいくらでも聞く」
紫式部の指が袖から離れた。
アラタは外へ出る。
宿場にはまだ仕事が山ほど残っている。
壊れた屋根を直し、散らばった矢を片づけ、負傷者を休ませ、捕虜も見張らなければならない。
逃げた董卓軍のこともある。
終わったのは、戦いだけだった。
それでも。
宿場にはもう、矢の音はしなかった。
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