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悪徳の果て

董卓の頬が引きつった。


目の前にいるのは、どう見ても少年だった。


細い身体に、血に濡れた鉄剣。鎧らしい鎧すらまとっていない。


それなのに、自分の兵はその少年一人に崩された。


殺された者だけではない。

逃げた者もいる。武器を捨てた者もいる。


何より気に入らないのは、それを少年が狙ってやったことだった。


「……わしに選べと言うたか」


董卓の声が低くなる。


「そうじゃ」


「この董卓に、武器を捨てろと?」


アラタは少しだけ首を傾げた。


「捨てるなら、それでもよいぞ」


一瞬、董卓の顔から表情が消えた。


周囲に残っていた側近たちが息を呑む。


次の瞬間。


「ふざけるな!」


怒声とともに董卓が腕を振ると、近くにいた兵が長柄の大刀を差し出した。


鈍い刃と太い柄。董卓の巨体に合わせて作られた、普通の兵なら両手でも振り回すのが難しそうな武器だった。


董卓はそれを片手で受け取り、地面を擦るように構える。


「小僧。少し兵を斬った程度で、わしまで同じと思うなよ」


「思ってはおらんよ」


アラタは剣を下げたまま答えた。


「おぬしは、あやつらに命じておった側じゃろう」


その声から笑みが消える。


「ならば話は、むしろ簡単じゃ」


董卓のこめかみに太い血管が浮かんだ。


地面を蹴った巨体が、見た目からは想像できない速さで間合いを詰める。横薙ぎの大刀をアラタが一歩退いてかわすと、董卓はすぐさま柄を返し、石突を顔へ突き込んだ。


アラタが首をずらせば、今度はそのまま刃が下から跳ね上がる。


三つの攻撃が、ほとんど間を置かず続いた。


玄馬の目が細くなる。


「……強い」


宿場側の男が振り向いた。


「え?」


「あの董卓だ。力任せじゃない」


玄馬には分かった。


巨体と武器の重さだけに頼っていない。一撃を外した後の戻しが速く、相手が避ける位置まで読んで次を置いている。


普通の討伐者なら、一撃目を避けた時点で二撃目に捕まる。


董卓が大刀を振り下ろす。


アラタは初めて鉄剣を合わせた。


甲高い音が響き、足元の土が僅かに沈む。


「ほう」


アラタが声を漏らした。


董卓の口元に笑みが戻る。


「ようやく分かったか!」


大刀へ力が加わった。


体格差は大きい。


上から押し潰せる。


董卓はそう判断した。


だが、次の瞬間には手応えが消えていた。


アラタが剣の角度を僅かに変えただけで大刀の刃が横へ滑り、董卓の身体が前へ流れる。そこへ柄頭が脇腹へ入った。


「ぐっ……!」


董卓は数歩よろめいたものの、倒れなかった。すぐに大刀を振り回して追撃を拒み、間合いを取り直す。


アラタは追わず、その場で剣を構え直した。


「やはり、兵よりはずっと強いのう」


「……貴様」


董卓の目が据わる。


褒められた。


そう聞こえるはずの言葉だった。


だが、まるで大人が子供の腕前を確かめたような言い方が、董卓の神経を逆撫でした。


「舐めるなぁ!」


大刀が再び襲いかかる。


今度は先ほどより速い。横薙ぎから突きへ繋ぎ、アラタが身を引けば、柄を滑らせて間合いを伸ばす。


アラタはそのすべてを紙一重で避けた。


剣で受ける回数すら少ない。


董卓の苛立ちが増していく。


当たらない。


目で追えている。

動きが見えないわけではない。


なのに、自分が振るより僅かに早く、少年の身体が攻撃の外へいる。


まるで、振る前から分かっているようだった。


「ちょこまかと……!」


董卓が踏み込み、大刀を斜めに振り下ろす。アラタが半歩ずれたところへ、董卓は柄から片手を離して拳を叩き込んだ。


避ける先まで読んだ一撃だった。


だがアラタはその拳の内側へ入り、肘へ掌を添えて軌道を外す。


「な――」


気づいた時には、鉄剣の刃が董卓の喉元で止まっていた。


董卓の身体が固まる。


あと指一本分、アラタが腕を進めれば首が裂ける。


「これで終わりでもよいが」


アラタは静かに言った。


「まだやるかの?」


董卓の目が血走った。


大刀を手放し、後ろへ飛ぶ。


喉に薄い血の線が浮かんだ。


傷と呼ぶほど深くない。


それが、なおさら董卓を苛立たせた。


殺せたのに、殺さなかった。


また選ばされた。


「……貴様」


声が震える。


怒りだと董卓は思った。


そうでなければならなかった。


自分が、こんな小僧を恐れるはずがない。


董卓はアラタを睨みつける。


人間なら欲もあれば、怒りも憎しみもある。

殺したいという衝動だってある。


目の前の少年とて同じだ。


宿場を見れば分かる。


あの女があそこまで追い詰められたことに、何も感じていないはずがない。


ならば。


その感情を膨らませればいい。


アラタの胸の奥で、何かがざらついた。


董卓を斬りたい。


先ほどまでより、その思いが鮮明になる。


紫式部の血も、泣いていた子供も、倒れた宿場の男も思い出せる。そして、そのすべてを見ながら民を狙えと命じていた董卓が目の前にいる。


怒りが熱を持ち、剣を握る手へ伝わってくる。


アラタは自分の手を見た。


「……ほう」


董卓が笑う。


「どうした、小僧」


アラタは答えず、自分の内側を確かめた。


怒っている。


それ自体は、最初から変わらない。


だが、その怒りへ誰かが油を注いでいる。


目の前の男を今すぐ斬ればよい。もう選ぶ機会など与えず、この場で終わらせればよい。


普段なら判断の前へ出てこない考えが、妙に近く感じられた。


アラタは小さく息を吐く。


「なるほどのう」


「何がだ」


「おぬしの兵が妙に荒れておった理由じゃ」


董卓の笑みが止まった。


アラタは剣を持ったまま、肩の力を抜く。


「人の怒りや欲を煽る類か」


董卓は答えない。


「趣味の悪いものを持っておるのう」


「効いておらぬとでも言うつもりか」


「いや?」


アラタはあっさり首を振った。


「効いておるぞ。わしは今、おぬしを斬りたいと思う気持ちが先ほどより強い」


董卓の口元が吊り上がる。


「なら――」


「じゃが、それがどうした」


董卓の表情が止まった。


百年近く生きてきた。


腹が立ったことなど数え切れない。怒りに任せて判断すれば、取り返しのつかない場面も幾度となく見てきた。


怒りを知らないのではない。


怒ったままでも、何をすべきか決めなければならない時を越えてきただけだった。


「感情と判断は別じゃ」


アラタが一歩進む。


董卓が一歩下がった。


自分が下がったことに気づき、董卓の顔が歪む。


「ふざけるな……」


再び大刀を握り直す。


「そんなものがあるか!」


董卓が踏み込んだ。


今度は技も駆け引きも捨て、怒りと力のすべてを乗せた大刀を少年ごと地面へ叩きつける。


アラタは逃げず、鉄剣を斜めに立てた。大刀が触れた瞬間に刃を滑らせて身体を入れ替え、そのまま地面へ落ちた柄を踏みつける。


董卓が武器を捨てようとした時には、鉄剣が右肩を裂いていた。


「ぐあっ!」


巨体が傾いたところへ、さらに一閃が腿の外側を裂き、董卓の膝が落ちる。


大刀を手放した董卓が拳を振るうが、アラタはその手首を掴み、身体の向きだけで地面へ投げた。


董卓の背中が土を叩き、息が詰まる。


視界が揺れた。


何が起きた。


理解が追いつかない。


立たなければ。


そう思って腕へ力を入れた時、喉元へ冷たいものが触れた。


鉄剣だった。


アラタが見下ろしている。


息一つ乱していない。


「……馬鹿な」


董卓の口から、かすれた声が漏れた。


ここまで差があるはずがない。


自分は弱くない。


力で押し通せない相手など、そう何人もいなかった。


チンギスには負けた。


あれは別だ。


あれだけは別なのだと、自分に言い聞かせてきた。


なのに。


目の前の少年は何だ。


「おぬし」


アラタの声が降ってくる。


「武器はなくなったが、まだやるか?」


董卓は答えられなかった。


答えれば殺される。


初めて、そう思った。


怒りではない。


苛立ちでもない。


身体が勝手に理解していた。


怖い。


その時、董卓の視線がアラタの向こうへ動いた。


宿場。


治療を続ける巴。

動けない負傷者。

まだ身を寄せ合っている住民たち。


そして、そのさらに外。


武器を捨てずに残っていた弓兵たちがいる。


董卓の目が動いた。


アラタもそれを見た。


「――射て!」


董卓が叫ぶ。


弓兵たちが一瞬ためらった。


「宿場を射ろ! 全部だ!」


残っていた兵が弦を引く。


玄馬が気づいた。


「伏せろ!」


矢が放たれる。


同時に董卓は地面の土を掴んでアラタの顔へ投げつけ、剣先から転がるように離れた。


そんなもので隙ができるとは思っていない。


一瞬でいい。


傷ついた脚を引きずりながら立ち上がった董卓を、アラタなら二歩もあれば斬れた。


だが、アラタは追わなかった。


宿場へ向けて走り出していた。


「ちっ……!」


董卓は歯を食いしばり、後方に残されていた馬へ向かう。


側近の一人が手綱を引いてきた。


「董卓様!」


「出すぞ!」


「しかし兵が――」


「捨て置け!」


肩から血を流しながら馬へ乗る。


その間にも矢は宿場へ向かっていた。


アラタは矢より先に人の前へ入り、鉄剣で先頭の矢を落とす。続く矢を弾きながら、玄馬が住民を建物の陰へ下げる時間を作った。


「巴!」


「分かってる!」


巴は紫式部を庇うように身体を寄せた。


宿場側の男たちも、動けない者へ覆い被さる。


最後の矢が地面へ落ちた時、馬の蹄の音はすでに遠ざかり始めていた。


玄馬が振り返る。


「アラタ! 董卓が逃げるぞ!」


アラタも見た。


傷を負った董卓が、残った兵を連れて東へ離れていく。


今ならまだ追いつける。


玄馬にも、それは分かった。


アラタなら追える。


おそらく殺せる。


だが、アラタは剣を下ろした。


「追わん」


「いいのか?」


「よくはない」


即答だった。


アラタは倒れている負傷者へ視線を向ける。


「じゃが、今はあやつ一人より、こちらじゃ」


董卓を許したわけではない。


今この瞬間に、優先する命が別にある。


アラタはそれだけ決めると、宿場へ戻った。


◇


馬が走るたび、董卓の肩に痛みが走った。


腿からも血が流れている。


それでも止まらなかった。


止まれるはずがない。


後ろから蹄の音は聞こえない。


追ってきていない。


分かっているのに、何度も背後を確かめたくなる。


「董卓様」


横を走る側近が声をかける。


「傷を――」


「黙れ」


声が掠れた。


側近はそれ以上何も言わなかった。


董卓は前だけを見る。


あの少年は、自分を殺せた。


喉元へ剣を置かれた時も、最後に逃げ出した時も。


それでも追ってこなかった。


自分より、宿場の人間を選んだ。


その事実が、董卓には理解できなかった。


腹が立つ。


殺したい。


二度とあの顔を見たくない。


いくつもの感情が入り混じる。


その奥にあるものだけは、認めたくなかった。


恐怖。


董卓は手綱を強く握った。


振り返らなかった。


振り返れば、あの少年がすぐ後ろにいる気がした。


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