救世帝の裁き
「よく頑張ったのう。もう大丈夫じゃ」
その声を聞いた瞬間、紫式部の身体から最後の力が抜けた。
アラタはその細い身体を片腕で支え、地面へ倒れ込ませないよう静かに抱き留めた。喉は限界まで酷使され、唇の端には乾きかけた血が残っている。
背後では、宿場の人々がまだ動けずにいた。
助かった。
そう理解するには、降り注いだ矢の数が多すぎた。
地面には折れた矢が散らばり、屋根や壁にも何本も突き立っている。それなのに、人へ向かっていた矢だけが、まるで最初から存在しなかったかのように届いていない。
西から駆けてくる足音がした。
「式部さん!」
巴だった。
その後ろから玄馬も続く。二人とも息を切らしていたが、紫式部の姿を見た瞬間、巴の顔色が変わった。
アラタは振り返る。
「巴。この者を頼めるかの」
「うん。任せて」
短く答えた巴は、すぐに紫式部の傍へ膝をついた。
「式部さん、聞こえる? もう喋らなくていいからね」
返事はない。
けれど、胸は動いている。
巴は安堵を顔に出す暇もなく、紫式部の喉元と呼吸を確かめた。すぐ近くでは、腕を傷つけられた男も呻いている。
「玄馬さん、その人もこっちに!」
「ああ。動ける者は怪我人を奥へ運べ! 前に出るな!」
玄馬の声で、ようやく宿場の人々が動き始めた。
その間に、アラタは立ち上がっていた。紫式部から視線を外し、宿場の外に並ぶ兵たちを見る。
そのさらに奥には、大柄な男――董卓が立っていた。
弓兵の列には、まだ次の矢が残っている。北へ回り込んだ兵も、完全には引いていない。
アラタは地面に落ちていた折れた矢を一本拾い、矢柄を指先で転がして先端を確かめると、静かに地面へ落とした。
「……なるほどのう」
声は小さかった。
怒鳴りもしない。
殺気を撒き散らすこともしない。
それなのに、近くにいた玄馬はアラタの横顔を見て、何も言わなかった。
董卓も、宿場の前に立つ少年を見ていた。
たった一人、それも子供にしか見えない。だが、今の一斉射を止めただけでなく、人に当たる矢だけを選んで落としてみせた。
偶然でできる芸当ではない。
董卓の目が細くなる。
「……面白い」
その口元には、まだ笑みがあった。
「何者だ、あの小僧は」
答えられる者はいなかった。
董卓は鼻を鳴らす。
分からぬなら、試せばいい。
これまでと同じだった。
力があるなら限界を見る。
守りたいものがあるなら、それを狙う。
人間である以上、どこかに崩れる場所がある。
「弓兵、構えよ!」
号令が飛ぶ。
だが、兵たちの動きは先ほどまでと同じではなかった。
目の前で起きたことを理解できていない。
矢がすべて落とされた。
しかも、誰一人傷つけられなかった。
その事実が、熱に浮かされていた兵の中へ初めて冷たいものを流し込んでいた。
恐怖だった。
アラタは一歩、宿場の外へ出た。
「聞け」
大声ではない。
不思議と、その声は後列の兵まで通った。
「武器を捨てよ。民へ刃を向けぬ者まで殺すつもりはない」
兵たちの間にざわめきが広がり、誰かが笑った。
「何言ってやがる、あのガキ」
「一人だぞ」
「さっきのは何かの術だ!」
嘲る声は上がったが、すぐに前へ出る者はいなかった。
アラタは続ける。
「逃げたい者は逃げてもよい。武器を置き、戦わぬと決めた者も追わん」
そこで一度、兵たちを見渡した。
「じゃが、これより先も民へ刃を向ける者は――わしが斬る」
騒めきが止まった。
宿場の側も静まり返っていた。
玄馬は思わずアラタを見る。
普段と同じ声だった。
脅しているようには聞こえない。
ただ、これから自分がすることを伝えているだけだった。
「はっ!」
董卓が笑った。
「小僧一人で、わしの兵を裁くつもりか!」
アラタの視線が董卓へ向く。
「裁くつもりなどないぞ」
「何?」
「選ぶのは、おぬしらじゃ」
その答えに、董卓の笑みがわずかに止まった。
アラタは兵たちへ視線を戻す。
「わしは、その選んだ先を受け持つだけじゃ」
「舐めるな!」
前列から一人の兵が、恐怖を振り払うように叫びながら槍を低く構えて飛び出した。足運びを見る限り、訓練もされている。
だが踏み込む瞬間、右肩が先に入った。それだけで、アラタには穂先の向かう場所が読めた。
アラタは半歩だけ身体をずらした。
槍が脇を抜ける。
そのまま柄へ左手を添え、進む力を殺さずに僅かに外へ流す。兵の身体が前へ崩れたところで、鉄剣の柄頭が顎の下へ入った。
男は声もなく地面へ転がった。
死んではいない。
「……え?」
誰かが漏らした。
続いて二人の兵が斬りかかり、一人が正面から剣を振り下ろす間に、もう一人が横へ回り込んだ。
アラタは正面の一撃を剣の腹で受け流し、相手の身体をわずかに横へずらす。その一人が壁になり、回り込んだ兵の刃筋を塞いだ。
二人の足が止まる。
「まだやるかの?」
一瞬だけ、迷いが生まれた。
正面の男は剣を握ったままだった。
横の男は、アラタではなく宿場へ視線を向けた。
そこには逃げ遅れた老人がいた。
「なら――」
男が老人へ向きを変え、剣を振り上げた瞬間、アラタの姿が消えたように見えた。
次に兵たちの目が捉えた時には、すでに老人との間へ回り込み、振り下ろされる腕の内側へ踏み込んでいる。
兵の剣が老人へ届くより早く、アラタの鉄剣が下から斜めに走った。刃は脇腹から胸へ抜け、男の身体から力が消える。
二歩も進めず、その場へ崩れ落ちた。
先ほど顎を打たれた兵とは違う。
誰が見ても分かった。
死んだ。
アラタは倒れた男を見下ろさず、残った兵へ顔を向ける。
「聞こえなかったかのう」
声色は変わっていない。
「武器を捨てよと言ったはずじゃ」
正面に残った兵の手から、剣が落ちた。
金属音が地面へ響く。
アラタはその男へ剣を向けず、ただ横を通り過ぎる。
「下がれ」
男は腰を抜かしかけながら後ろへ退いた。
最初の兵は生きている。武器を捨てた男も斬られなかった。
だが、民へ刃を向けた者だけは迷いなく斬った。
兵たちにも、ようやくその違いが伝わり始めた。
「怯むな!」
董卓の側近が怒鳴った。
「相手は一人だ! 囲め!」
今度は十人ほどが一斉に動いた。槍や剣、斧を手に正面と左右へ散り、数でアラタの逃げ道を潰しにくる。
玄馬が息を呑む。
宿場の男たちも思わず武器を握り直した。
だが、アラタは振り返らない。
「来るでないぞ」
背中を向けたまま言う。
「邪魔になる」
玄馬は一瞬だけ眉を動かし、すぐに宿場の男たちを手で制した。
「聞いたな! 下がれ!」
兵たちがアラタへ殺到する。
最初に右から槍が伸び、その後ろには二人の剣兵。左からは斧が迫り、さらに奥では前列の味方を盾にするように弓兵が狙っていた。
アラタは距離だけでなく、踏み込みや足の向き、視線まで見ていた。誰が自分を狙い、誰が後ろの民へ抜けようとしているのかも、その動きから読み取っていく。
百年近い戦場の記憶が、考えるより先に答えを出す。
アラタは右から迫る槍を避けるのではなく、穂先が伸び切る前へ身体を滑り込ませた。
槍兵の手元を剣の柄で打ち、落ちた穂先を踏む。そのまま相手の肩を押して前へ崩すと、後ろから来た剣兵二人の進路が塞がった。
左から迫る斧は肩口を狙った力任せの一撃だった。アラタは身を沈め、その内側へ入り込む。
鉄剣が短く閃き、斧の柄を握っていた手から力が抜けた。
血が散る。
斧が落ちるより先に、その兵の胸を蹴って後列へ返した。
三人が巻き込まれて倒れる。
そこへ複数の矢が飛んできた。前にいる味方ごと射抜くつもりの角度を見て、アラタの眉が初めて僅かに動く。
弧を描いた剣で先頭の二本を弾き、その反動のまま三本目を落とす。四本目だけは身体を横へずらしてかわした。
矢はアラタの脇を抜け、その先で自軍の兵の肩へ刺さった。
「がっ!」
悲鳴が上がる。
射った弓兵自身が顔を強張らせた。
「味方ごと射るか」
アラタの声が低くなる。
次の瞬間には、その弓兵の目の前にいた。
「ひっ――」
弓を捨てれば間に合った。だが男が腰の短剣へ手を伸ばしたため、アラタの剣が先に動いた。
男は倒れた。
その横では別の弓兵が慌てて弓を投げ、両手を上げた。アラタは一瞥しただけで、その横を通り過ぎる。
「そのまま下がれ」
「は、はい……!」
男が後退するのを見て、さらに二人が武器を置いた。
「何をしている!」
側近が怒鳴りつける。
「拾え! 戦え!」
「無理だ……」
若い兵の口から声が漏れた。
先ほど、子供を狙うことをためらっていた兵だった。
弓を握る指が震えている。
頭の奥では、苛立ちも恐怖も消えていない。逃げたい自分を恥じる気持ちと、目の前の少年を皆で殺してしまえば楽になるという衝動まで入り混じっていた。
けれど、その向こうにいる子供の姿も見えていた。
若い兵は弓を見下ろす。
「……俺は」
隣の兵が怒鳴る。
「何してる! 射ろ!」
「俺は、もうやらない」
弓を落とした。
董卓の顔から笑みが消えた。
「腑抜けが」
低い声だった。
その瞬間。
兵たちの中で膨らんでいたものが、さらに強くなる。
苛立ちが怒りへ。
他人より先に逃げられることへの焦りが、隣の者を押し退けたい欲へ。
【悪徳賛歌】が、人の中にもともとあったものを煽り立て、理性や自制の歯止めを弱くしていく。
「殺せ!」
誰かが叫んだ。
それをきっかけに、再び兵が前へ出る。
先ほどより動きは乱れていた。命令に従うためというより、恐怖から逃れたい者、目の前の少年を消したい者、自分だけ助かりたい者が、ばらばらの理由のまま同じ方向へ殺到していた。
アラタは目を細める。
「……妙じゃの」
恐れている。
それは分かる。
逃げたい者もいる。
それなのに、恐怖とは別の感情が不自然なほど膨らみ、足を前へ押している。
何かがある。
だが、今はそれを突き止める時ではない。
武器を捨てた者もいれば、逃げ始めた者もいる。その一方で、なお民へ向かう者や、殺意をむき出しにして突っ込んでくる者もいた。
アラタには、その違いが見えていた。
「一度は言ったぞ」
アラタが剣を下げる。
「これより先は、おぬしらの選んだ結果じゃ」
兵が押し寄せた。
そこから先、宿場の者たちには何が起きているのか追い切れなかった。
ただ、無秩序ではなかった。
アラタは最短の場所へしか動かない。
民へ抜けようとする兵には先回りし、なお剣を振り上げる者だけを止める。その一方で、武器を落とした者や背を向けて逃げる者、地面へ伏せた者には手を出さなかった。
一方で、倒れた仲間を盾にして弓を引いた兵には、一切の躊躇がなかった。
喉元へ刃が入り、その兵が崩れるより先に、アラタは次の一人へ向かっている。
速い。
だが、ただ速いのではない。
誰を斬り、誰を斬らないか。
その判断までが異様に速かった。
玄馬は、それを見てようやく理解する。
強さだけではない。
この少年は、人を斬ることに慣れている。
しかも、殺すことではなく――殺すかどうかを決めることに。
「……何者なんだ、お前は」
思わず漏れた声は、戦場の音に消えた。
巴は聞いていなかった。
紫式部の治療から手を離せない。
それでも、遠くで剣戟が止むたびに肩が僅かに揺れた。
前にも見た。
アラタが人を斬るところを。
怖くないわけではない。
けれど今は、紫式部の喉に触れる手を止めなかった。
助けられる命を助ける。
アラタが前でしていることと、自分がここですることは違う。
それでも、今はそれぞれがやるしかない。
戦場の空気が変わり始める。
最初は董卓の兵の方が圧倒的に多かった。
その数が、意味を失っていく。
武器を捨てた者も逃げた者も追われない。その事実は、董卓の命令より速く兵の間へ広がっていった。
「俺は降りる!」
一人が剣を投げた。
「待て、俺もだ!」
別の兵も槍を捨てる。
「ふざけるな! 戻れ!」
「戻ったら死ぬ!」
「こっちでも死ぬぞ!」
怒号が飛び交う。
命令系統が崩れていく。
北へ回っていた兵たちの中からも、逃げ出す者が出た。
宿場を囲むはずだった線が、ところどころで切れていく。
董卓はそれを見ていた。
笑ってはいなかった。
「……小僧」
低い声が漏れる。
怒りも、残虐さも、支配欲も煽れる。それでも、あの少年が兵に「戦わずに生き残る」という選択肢を与えたことで、董卓の思惑どおりには動かなくなっていた。
董卓の目が険しくなる。
気に入らない。
非常に、気に入らない。
「貴様らぁ!」
董卓の怒声が戦場を震わせた。
何人かの兵が反射的に身を竦める。
だが、その声で戻った者はいなかった。
一人の兵が剣を捨てる。
さらに一人。
また一人。
武器が地面へ落ちる音が、あちこちから聞こえ始める。
やがて、アラタの前に立つ兵はほとんどいなくなった。
戦う意思を残した者だけが董卓の近くへ集まり、他は距離を取るか、地面へ武器を置いている。
アラタは剣についた血を一度振った。宿場まで走り、一斉射を防ぎ、そのまま大勢の兵を相手にしたというのに、息一つ乱していない。
ゆっくりと歩き出す。
向かう先は一つ。
董卓だった。
董卓の側近たちが武器を構える。
今度は誰も笑わない。
少年にしか見えなかった相手が近づくたび、兵たちが無意識に後ろへ下がる。
その中で、董卓だけが動かなかった。
巨体の男と、小柄な少年。
互いの間にあった兵が退き、初めて真正面から視線がぶつかる。
アラタは足を止めた。
「さて」
静かな声だった。
「兵には選ばせた」
鉄剣の切っ先が、わずかに下がる。
「次は、おぬしじゃのう。董卓」




