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嗤う董卓

その声が途切れないのを、董卓は見ていた。


夕暮れの街道。


宿場の東、弓兵たちのさらに後方に、董卓は立っていた。


黒と深紅の衣の上から鈍い金具のついた鎧をまとい、肩には毛皮を掛けている。五十前後に見える巨体は、周囲の兵より頭一つ大きい。


その視線の先。


宿場の中央で、紫式部はまだ声を出し続けていた。


もう立っているだけでも苦しいはずだった。


何度も身体が傾き、そのたびに地面へ手をつく。それでもまた顔を上げる。


口元には血が滲んでいた。


「まだやるか」


董卓の声は低かった。


隣にいた男が答える。


「……はい」


「昨夜から一睡もさせておらん。外の民を狙わせ、守りを広げさせた。矢も兵も途切れさせておらん」


男は宿場を見る。


「それでも、まだ」


董卓の太い指が顎髭を撫でた。


苛立っていた。


同時に、愉快でもあった。


あの女は、自分が何をされているのか分かっている。


外の人間を狙えば守りを広げる。


休む暇を与えなければ声が削れる。


それでも、目の前の命を捨てられない。


弱点は力ではない。


あの女自身だ。


「ならば、最後まで利用してやればよい」


董卓が笑った。


「弓を前へ出せ」


兵が動く。


「正面だけでは足りん。北からも回せ。逃げ道を塞げ」


「宿場には、まだ子供も」


隣の男が言いかけたが、董卓に横目で見られ、口を閉じた。


「だから守るのであろう?」


董卓の口元が吊り上がる。


「ならば見せてもらおう。あの女の声が先に死ぬか、中の人間が先に死ぬか」


◇


紫式部には、敵の声までは聞こえなかった。


けれど、動きが変わったことは分かった。


正面の兵が増えている。


北側にも人影が回り込んでいく。


弓兵が前へ出た。


来る。


そう思った瞬間、喉の奥がひどく縮んだ。


怖い。


身体が震える。


それでも声は止めなかった。


昔覚えた言葉。


自分が書いた物語の断片。


この世界へ来てから目にしたもの。


もう何を口にしているのか、自分でも曖昧だった。


ただ、声であればよかった。


届けばいい。


それだけで、後ろにいる人たちを守れる。


「来るぞ!」


宿場の男の叫びとほぼ同時に、幾つもの弦が鳴った。


紫式部が息を押し出すと、掠れた声が震えた。


矢の多くが宿場の手前で勢いを失い、土へ落ちた。


何本かは軌道を外し、屋根や壁へ刺さる。


まだ守れている。


胸の奥に、小さな安堵が生まれた。


その直後。


「北だ!」


悲鳴に近い声がした。


北側から回り込んだ兵たちが、建物の陰へ迫っている。


宿場の守り手が数人そちらへ走るのを見て、紫式部は声を強めようとした。


だが、喉の奥に鋭い痛みが走る。


「……っ」


声が割れた。


兵たちの足が一気に軽くなる。


「押せ!」


敵兵の怒声が響く。


紫式部は両手を地面についた。


苦しい。


息が入らない。


それでも顔を上げる。


奥の建物の入口に、あの少女がいた。


家族とはぐれ、朝から何度も泣いていた子だ。


若い女が必死に抱き寄せ、建物の中へ連れ戻そうとしている。


敵兵の一人がそれを見つけ、笑った。


そして弓兵へ何かを叫び、少女のいる方を指した。


紫式部の胸が冷たくなる。


やめて。


声にはできない。


声は守るために使わなければならない。


やめて。


お願い。


そこを狙わないで。


矢が放たれる。


紫式部が喉を震わせると、細い声がかろうじて出た。


それでも、まだ届いた。


矢は逸れ、建物の柱へ突き刺さった。


少女が泣き出す。


その声を聞いた瞬間、紫式部の目に涙が滲んだ。


怖かった。


痛かった。


もう休みたかった。


喉を閉じて、水を飲みたかった。


何も考えず眠りたかった。


それでも、口から出る声は人を守るための言葉を紡ぎ続ける。


心の中だけで叫んだ。


誰か。


誰か、来て。


もう、私一人では。


「式部様!」


宿の主人の声がする。


振り向けない。


「もういい! もう十分です!」


違う。


まだ十分ではない。


後ろに人がいる。


ここで止めれば、死ぬ。


紫式部は首を横へ振ろうとしたが、その動きさえ途中で止まった。


視界が白くなる。


地面が遠い。


それでも、声だけは止めてはいけなかった。


◇


「まだ詠うか」


董卓が嗤った。


その声は、今度は宿場まで届いた。


「見事なものだ!」


紫式部の肩が震える。


「ならば、もう少し見せてもらおう!」


董卓が腕を上げた。


その周囲で、兵たちの空気が変わる。


押し込めていた苛立ち。


血への興奮。


弱い者を踏みにじりたい欲。


董卓の【悪徳賛歌】が、それらをさらに大きくしていく。


笑いながら矢をつがえる者がいる。


「今度こそ当てろ!」


「中の連中ごとやっちまえ!」


一方で、弓を構えたまま顔を強張らせる若い兵もいた。


「……あそこには、まだ子供が」


隣の兵が笑う。


「だから何だよ」


若い兵の指が震える。


それでも、弓を捨てることはできない。


董卓はそんな兵たちを見ていなかった。


見ているのは、紫式部だけだった。


「放て」


矢が空へ上がる。それは一度で終わらず、二度、三度と続いた。


紫式部は声を振り絞る。


矢は落ち、あるいは逸れるが、その軌道は少しずつ宿場へ近づいていた。


一本が宿場の男の腕を裂き、「ぐあっ!」と声を上げた男が倒れる。


紫式部は目を見開いた。


ごめんなさい。


胸の中で言葉が落ちる。


守れなかった。


違う。


まだ終わっていない。


次の矢が来る。


紫式部は息を吸った。


声を出さなければ。


「……」


出ない。


喉の奥から、空気だけが漏れた。


もう一度。


音にならない。


嘘。


お願い。


あと少しだけ。


あと一度だけでいい。


後ろには、まだ人がいる。


「式部様……」


近くで誰かが呟いた。


その声に、絶望が混じっていた。


紫式部はもう一度口を開いた。


何も出ない。


宿場の手前で重くなっていた敵兵たちが、何の抵抗もなく前へ踏み込んだ。


守りが消えた。


誰も説明しなくても分かった。


宿場の人々にも。


敵にも。


そして紫式部自身にも。


「抜けたぞ!」


敵兵の叫びに歓声が重なり、董卓の笑い声が響いた。


「ははははは! 終わりだ!」


宿場の男たちは武器を構えた。


だが、数が違う。まともに戦えば勝てない。


それでも、その後ろには動けない老人がいる。


怪我人がいる。


子供がいる。


誰も逃げなかった。


紫式部は地面へ手をついた。


立たなければ。


守らなければ。


けれど腕に力が入らない。膝も動かず、声も出ない。


それでも身体を起こそうとする。


お願い。


動いて。


まだ終わらないで。


視界の向こうでは、大勢の弓兵が一斉に弦を引いていた。


紫式部は、それを見ていた。


何もできない。


今度こそ、防げない。


後ろでは子供が泣き、誰かがその子を抱きしめている。


宿の主人まで、紫式部の前へ出ようとしていた。


やめて。


あなたまで死んでしまう。


そう言いたいのに、声がない。


涙が頬を伝った。


怖い。


死にたくない。


みんなにも死んでほしくない。


守りたかった。


それなのに。


ごめんなさい。


私が、もう少し強ければ。


心の中で何度も謝る。


最後に残ったのは、たった一つだった。


――誰か、助けて。


董卓の腕が振り下ろされる。


「放て!」


号令とともに弦が鳴り、無数の矢が宿場全体へ降り注ぐ。


紫式部は目を閉じなかった。


最後まで見なければならないと思った。


自分が守れなかった人たちを。


その時、西から一つの影が飛び込んだ。


黒髪の少年だった。


いつ来たのか分からない。


細い身体が、宿場と敵兵の間へ滑り込む。


剣閃が走った。


一つではない。


視界に残像だけを残して、幾筋もの光が重なる。


人へ届く軌道にあった矢が、ことごとく折れ、弾かれ、地へ落ちた。


屋根や壁、地面へ逸れた矢だけが、乾いた音を立てる。


宿場にいた誰一人として、傷つかなかった。


紫式部は何が起きたのか理解できなかった。


ただ、一つだけ分かった。


誰かが来た。


本当に、来てくれた。


張り詰めていたものが一気にほどけ、身体から力が抜ける。


前へ倒れそうになった紫式部を、少年の腕が受け止めた。


紫式部は霞む目で、その顔を見る。



「よく頑張ったのう。もう大丈夫じゃ」


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