紫式部
その日の朝。
東の宿場には、また矢が降っていた。
風を裂く音が重なり、その直後、乾いた音がいくつも続く。
だが、矢は宿場の中まで届かなかった。
街道沿いに並ぶ建物の手前で勢いを失い、土へ落ちるもの。屋根を外れ、壁へ浅く突き立つもの。何かに軌道をずらされたように、横へ流されていくものもある。
宿場の中央では、一人の女が声を出し続けていた。
華奢な身体に、煤と土で汚れた淡い色の衣。長い黒髪は後ろで緩くまとめられていたが、ほどけた髪が汗ばんだ頬へ張りついている。青白い顔には疲労が濃く、乾いた唇の端には小さな傷があった。
それでも、伏せるように細められた目だけは東を見ていた。
紫式部。
彼女の声は、歌だけではなかった。
古い歌が混じることもあれば、物語の一節を思わせる言葉もあった。誰かへ語りかけるような短い文も、彼女自身がその場で紡いだらしい言葉もある。
ただ一つ共通しているのは、止めないことだった。
言葉を声にし、外へ届け続ける。
その間、宿場にいる人々は矢と刃から守られていた。
「……式部様」
すぐ横で、年配の男が声を掛けた。
宿の主人らしい。着物の袖をまくり、さっきまで水桶を運んでいたためか、手が濡れている。
「少しだけでも、お休みになってください」
紫式部は声を止めない。
ただ、ゆっくりと首を横へ振った。
男が苦い顔をする。
宿場には、まだ人が残っていた。
歩ける者から西へ逃がしている。それでも、すべての人間がすぐに動けるわけではない。
足を怪我した老人。熱を出した子供。矢傷を負った男。家族とはぐれ、泣き続ける少女。
馬も荷車も足りない。
建物の軒下や土間には、運び出す順番を待つ者たちが横たわっていた。男たちは荷車へ負傷者を乗せ、女たちは水と布を運んでいる。
皆が、自分にできることをしていた。
ただ、敵の刃がここへ届かない理由だけは、彼女だった。
「来るぞ!」
宿場の東側で声が上がった。
玄関先に伏せていた男たちが身を低くする。
今度は矢ではない。
街道の向こうから十人ほどの兵が走ってくる。盾を持つ者を前へ出し、その後ろから槍兵が続いていた。
まっすぐ宿場へ突っ込んでくる。
紫式部の声が、ほんの少しだけ強くなった。
兵たちが二十歩ほどまで近づいたところで、先頭の男が剣を振り上げた。その足が急に鈍り、隣の兵と肩をぶつける。
隊列が崩れた。
それでも二人が無理に踏み込もうとする。足元の土を抉るほど力を込めても、そこから先へ進めない。
「押せ!」
敵兵の一人が怒鳴る。
「たかが女一人だ! 押し潰せ!」
数人が一斉に前へ出る。
紫式部の喉が震えた。
声が掠れた途端、兵たちの足取りがわずかに軽くなる。
「今だ!」
敵が叫ぶ。
紫式部は息を吸い直し、そのまま次の言葉へつないだ。
再び兵たちの足が止まり、一人が体勢を崩す。後ろの男が巻き込まれ、盾が地面へ転がった。
その時には宿場側の守り手たちも動いていた。
「石を投げろ!」
屋根の陰から石が飛ぶ。
敵兵が盾を上げる。
反撃を受けた兵たちは、しばらく粘った後、東へ退き始めた。
追う者はいなかった。
宿の主人が舌打ちした。
「またか……」
朝から何度目か、もう誰も数えていない。
敵は一度退いても、しばらくするとまた来る。矢だけを放つ時もあれば、数人で近づき、こちらの様子を確かめるようにすぐ引く時もあった。
昨夜も同じだった。
眠りかけた頃に声が上がり、紫式部はまた言葉を続けた。
倒すためではない。
休ませないためだ。
紫式部自身も、それには気づいていた。
敵は自分を急いで殺そうとしているのではない。
声を削り、喉を削り、守りが途切れる時を待っている。
それでも彼女は止めなかった。
◇
攻撃が途切れた短い間に、西へ向かう荷車が一台出ることになった。
歩けない者を優先して乗せる。
「式部様」
若い女が濡らした布を持ってきた。
紫式部は視線だけを向ける。
女が言葉と言葉の間、そのわずかな呼吸に合わせて布を唇へ当てた。
冷たい水分が触れる。
紫式部は目を閉じかけ、すぐに開いた。
小さく頭を下げる。
それだけだった。
飲みたい。
喉が焼けるように痛い。
だが、声を休めるために長く口を閉じることはできなかった。
荷車の脇では、小さな男の子が母親の手を握っていた。
乗せられる直前、男の子が紫式部を見た。
「お姉ちゃんは行かないの?」
母親が慌てて子供の肩を抱く。
紫式部は声を続けたまま、困ったように笑った。
そして母親と子供を交互に見てから、二人の繋いだ手へ視線を落とす。
男の子も自分たちの手を見た。
「……離しちゃ駄目?」
紫式部が小さく頷く。
「分かった」
今度は子供が少し考えた。
「お姉ちゃん、怖くないの?」
紫式部の目がわずかに揺れた。
怖くないわけではない。
矢が飛んでくるたびに身体は強張る。次に声が出なくなるかもしれないと思えば、胸の奥は冷たくなる。
それでも、紫式部はもう一度だけ笑った。
子供を安心させるには、それで十分だったらしい。
「じゃあ、ちゃんと来てね」
紫式部は答えなかった。
ただ、西へ伸びる街道へ目を向けた。
荷車が動き出す。
母親は何度も振り返った。
紫式部は手を振らない。
声を止めず、その親子が街道の向こうへ小さくなるまで見送った。
◇
昼を過ぎた頃、東の林から煙が上がった。
誰かが建物へ火をつけたのか、それとも畑か。宿場からは分からない。
ただ、黒い煙の下を人影が走っているのが見えた。
「二人いる!」
見張っていた男が叫ぶ。
「こっちへ来るぞ!」
老人と、その身体を支える若い男だった。
二人とも西へ走っている。
だが遅い。
後ろから三人の兵が追っていた。
「迎えに出るぞ!」
宿場側の男が動こうとする。
「待て!」
別の者が腕を掴む。
「外へ出たらお前までやられる!」
「じゃあ見てろってのか!」
怒鳴り合う声がする。
紫式部は街道を見る。
老人が転んだ。
若い男が足を止める。
置いて逃げれば間に合うかもしれない。それでも男は戻り、老人の腕を肩へ回して立たせようとする。
追っていた兵の一人が笑った。
ここからでも分かった。
剣を持った手を、大きく振り上げる。
紫式部の声が強くなる。
喉の奥が裂けたように痛んだ。
「式部様!」
振り下ろされた剣が老人へ届く寸前で外へ逸れた。
兵がよろめく。
「走って!」
宿場側から誰かが叫んだ。
若い男が老人を抱えるようにして走り出す。
敵兵が追う。
紫式部は言葉を止めない。
二人が宿場へ近づくほど、呼吸が浅くなっていく。
宿の主人が顔色を変えた。
「もういい! そこまで無理をするな!」
紫式部には聞こえていた。
敵がわざと外の人間を狙っていることも。
自分が見捨てられないと見抜かれていることも。
守りを遠くへ及ぼすほど身体が重くなることも。
分かっている。
それでも、目の前で殺される二人を見ながら、自分がまだ守れるのに見捨てることはできなかった。
若い男が老人を引きずり、宿場へ飛び込む。
何人かが駆け寄って二人を受け取った。
老人は倒れ込んだが、息はある。
若い男も膝をつきながら何度も頭を下げた。
紫式部はそちらを見る。
ほんの少しだけ、安堵した。
その瞬間だった。
喉が詰まった。
次の言葉が音にならない。
ひゅ、と空気だけが抜けた。
宿場の空気が変わる。
東から矢が飛んできた。
さっきまで届かなかった位置を越え、一矢が屋根瓦へ突き刺さる。別の矢は庭へ落ちた。
「伏せろ!」
人々が身を縮める。
紫式部は喉へ手を当てる。
痛みが走った。
咳が込み上げる。
唇を強く結び、それを飲み込んだ。
もう一度、息を吸う。
最初は掠れた音しか出なかった。
二度目で、ようやく言葉になる。
次の矢は宿場へ届く前に軌道を外れた。
「……戻った」
誰かが呟く。
宿の主人が紫式部の前へ膝をついた。
「式部様。次は間に合わんかもしれません」
紫式部は声を続けながら男を見る。
男はその目だけで何を言いたいか察したらしい。
「まだ西へ出せと?」
紫式部の視線が、軒下の負傷者へ移る。
次に、街道の西へ。
男が唇を噛んだ。
「あなたは」
紫式部はわずかに首を横へ振った。
そして、まだ荷車へ乗せられていない老人を見た。
「……最後まで残るつもりか」
返事はない。
だが、男には十分だった。
「本当に、頑固な方だ」
紫式部の口元に、ごく小さな笑みが浮かんだ。
声だけは止めなかった。
◇
夕方が近づくほど、攻撃の間隔は短くなった。
矢を放っては引き、次は街道の北側から数人が近づく。そこを退けば、今度は反対側から火矢が飛ぶ。
宿場の男たちは火を消し、負傷者を運び、子供たちを建物の奥へ集めた。
紫式部は声を続けた。
何を語っているのか、自分でも時々分からなくなった。
昔覚えた歌。
かつて読んだ言葉。
自分が書いた物語の断片。
この世界へ来てから出会った人々のこと。
どれがどこで混ざったのか、もう境目が曖昧だった。
それでも声になれば、守りは残る。
だから続ける。
「式部様!」
手当てを手伝っていた若い女が駆け寄った。
「血が……」
言われるまでもなかった。
唇の端へ温かいものが流れている。
口元を拭うと、指に赤がついた。
喉の奥から上がってきた血だった。
「もうやめてください」
女の声が震える。
「このままだと式部様が死んじゃいます」
紫式部は一度だけ、その女の顔を見た。
怖いのだろう。
守りがなくなることが。
そしてきっと、それだけではない。
紫式部自身が死ぬことも怖がってくれている。
そのことが、少し嬉しかった。
紫式部は小さく目を細めた。
ありがとう、とでも言うように。
だが声は防御のための言葉から逸らさない。
その直後、咳が漏れた。
身体が折れる。
地面へ手をつく。
赤い雫が土へ落ちた。
周囲から悲鳴が上がる。
声も途切れかける。
東の兵たちが動いた。
宿場の守り手たちが一斉に武器を取る。
紫式部は震える腕で身体を起こした。
街道の向こうに、兵の影が増えている。
また来る。
今度は、さっきより多い。
誰も逃げなかった。
逃げられない者が後ろにいるからだ。
紫式部は息を吸う。
喉はもう、声を出すことを拒んでいた。
それでも口を開く。
最初の音は出なかった。
二度目で、かすかな音が漏れた。
三度目で、それはようやく言葉になった。
もう声と呼べるほどの大きさではない。
それでも、次の言葉は途切れなかった。




