逃げる者、進む者②
叫び声が聞こえたのは、それから間もなくだった。
女の声。
続いて、子供の泣き声。
「前だ!」
救援隊が走る。
街道が緩く曲がった先。
三人の避難民が西へ逃げていた。
女と、十歳にも満たない子供。そして足を引きずる老人。
その後ろから、六人の兵が追っている。
黒い布に、見覚えのある一字があった。
董。
「止まれ!」
玄馬が叫ぶ。
敵兵たちがこちらを見る。
避難民の女が声を上げた。
「助けて!」
一人の兵が老人へ追いつき、剣を振り上げた。
アラタが前へ出る。
「武器を捨てよ」
大声ではなかった。
それでも通った。
兵たちが一瞬、動きを止める。
「民から離れよ。武器を捨てるなら追わん」
数秒。
誰も武器を置かなかった。
やがて一人が吹き出した。
「何だ、あの餓鬼」
別の兵も笑う。
「お前ら、こんなの連れて戦に来たのか?」
アラタは答えない。
後ろで救援隊の男たちが武器を構え、巴は避難民を手招きした。
「こっちへ!」
女が子供の手を引いて走る。
老人も続こうとする。
だが、すぐ後ろの兵が追いついた。
「逃げんなよ!」
剣が振り下ろされる。
「やめよ」
アラタが地を蹴った。
巴が目で追えたのは、そこまでだった。
次の瞬間には老人と兵の間へ入り込み、振り下ろされた剣を自分の刃で横へ弾いていた。
ぶつかった刃が外へ流れる。
アラタは弾いた勢いを殺さず手首を返し、半歩踏み込んだ。
返した剣が下から斜めに走り、兵の鎖骨の下から胸へ入り、そのまま脇へ抜ける。
兵の剣が地面へ落ちた。
男は何が起きたのか分からない顔のまま、膝から崩れた。
笑い声が止まった。
アラタは倒れた男を見ず、老人へ手を伸ばした。
「立てるか?」
「え……」
「西へ走れとは言わん。あそこまででよい」
救援隊を示す。
老人がよろめきながら歩き出した。
一人が倒れた瞬間、残った兵たちが一斉に動いた。
二人がアラタへ武器を向け、別の一人は逃げる母子へ回り込もうとする。
「民を後ろへ!」
玄馬が叫ぶ。
救援隊の男たちも前へ出た。
玄馬も刀を抜き、残った二人の前へ出て民への道を塞いだ。
アラタは突き出された槍を剣の腹で外し、そのまま踏み込んで柄頭を胸へ打ち込んだ。
兵の身体が後ろへ倒れ、地面を転がる。息を詰まらせて動けないが、生きている。
もう一人が横から剣を振る。
アラタは半歩下がって刃をかわし、剣先を相手の喉元へ突きつけた。
「武器を捨てよと言ったはずじゃ」
男の動きが止まる。
その時、別の兵が救援隊ではなく逃げる母子へ向きを変えた。
剣を上げたまま背後から距離を詰める。
「そちらへ行くな」
アラタの声が飛ぶ。
兵は振り返りもせず、そのまま女へ刃を振り上げた。
アラタが踏み込み、数歩の距離を一息で詰めた。
男の右脇へ身体を滑り込ませ、振り下ろされる腕の内側へ入る。
剣が母子へ届くより先に、アラタは腰を返した。
刃が脇の下から胸へ短く走り、男の身体を横切る。
兵は勢いのまま二歩ほど進んだ。
三歩目を踏み出せず、膝から力を失ってその場へ倒れた。
残った兵たちの顔から色が消える。
アラタの前にいた男が、剣を落とした。
乾いた音が街道へ響く。
「俺は……やらない」
両手を上げる。
アラタはそちらを見ただけだった。
斬らない。
玄馬に進路を塞がれていた二人は互いに顔を見合わせると、東へ向かって走り出した。
救援隊の一人が追おうとする。
「追うな!」
玄馬が止めた。
「目的を忘れるな!」
出発前から変わらない方針だった。
逃げた二人はそのまま東へ消える。
喧騒が途切れ、街道を風が抜けた。道端に落ちた剣が、わずかに光っている。
救援隊の男たちがすぐに動いた。
武器を捨てた兵から剣を遠ざけ、両手を縛る。胸を打たれて動けなくなった兵も起こされ、道端へ座らされた。
「こいつらは西へ戻る組に引き渡す。ここで人数は割けん」
玄馬が言う。
「逃げた二人は?」
「追わない。目的は救助だ」
アラタも異論はなかった。
巴はしばらく動けなかった。
魔物が斬られるところは見ている。
裂牙犬を一太刀で倒したのも見た。
だが、今、道に倒れているのは人だった。
アラタは何も言わない。
勝ち誇りもしない。
剣についた血を振り落とすと、すぐに避難民の方へ歩いた。
「怪我は?」
子供へ尋ねる。
子供は母親の後ろへ隠れた。
アラタはそれ以上近づかなかった。
「怖がらせたか。すまんのう」
そこで巴が我に返った。
「見ます」
母子へ駆け寄る。
「どこか痛いところありますか?」
「私は大丈夫です。この子も……」
「手だけ見せて」
子供の手の平が擦れていた。転んだらしい。
巴が膝をつく。
その横で、アラタは老人を座らせる。
「足を見てもらった方がよいな」
「お、お前さん……」
老人がアラタを見る。
「何じゃ?」
「いや……」
言葉が続かない。
アラタは気にしなかった。
人を斬る感触を知らないわけではない。
忘れたこともない。
長く生きれば、慣れたくないことにも慣れる。
だが、慣れたからといって好きになるわけではなかった。
「巴」
「はい」
「その子は?」
「擦り傷だけです」
「老人は足を痛めておる」
「次見ます」
巴は子供の手へ布を巻き終えると、すぐに立ち上がった。
巴は一瞬だけアラタを見た。何か言いたげだったが、すぐ老人の手当てへ向き直る。
アラタも声をかけなかった。
◇
やがて西へ戻る救援側の荷車と行き合い、拘束した兵と動けない兵をそちらへ引き渡した。
救援隊は再び東へ動き始める。
街道の空気そのものが変わっていた。
西へ向かう避難民は途切れない。
遠くで煙が上がっている。
だが、それは街道沿いの宿場よりさらに東だ。
アラタたちが歩いている場所を、大軍が踏み荒らした跡ではない。
少なくとも、敵の主力がここまで来た形跡はない。
西へ出てきているのは、その一部らしい。
「宿場まで、あとどれくらいです?」
巴が尋ねる。
玄馬が前を見る。
「そう遠くない」
短い答えだった。隊には疲れが見え始めていたが、それでも足は止まらない。
やがて風の向きが変わった。
アラタが顔を上げる。
「……声?」
巴も足を止めかけた。
遠い。
ひどく細い。
風に消されそうな女の声だった。
何を言っているのかまでは聞き取れない。
歌にも聞こえる。
誰かへ語りかけているようにも聞こえる。
その声が、一度途切れた。
巴の顔が強張る。
ほんの短い沈黙の後、掠れた声が再び風に乗って届いた。
巴が小さく呟いた。
「……式部さん」
アラタは街道の先を見る。
まだ宿場そのものは見えない。
だが、あの先にいる。
声を枯らしながら、今も人を守っている女が。
「急ごう」
アラタが言った。
救援隊は、さらに東へ進んだ。
風の向こうで、その声はまだ止まっていなかった。




