悪徳賛歌②
董卓の口元から笑みが消えた。
あの敗北を忘れたことはない。
軍を敗られ。
最後には、自分が生きるか死ぬかさえ、相手の判断に委ねられた。
殺されなかった。
それが余計に腹立たしかった。
使えるから残された。
ただ、それだけだった。
董卓は今、その男の命で西へ来ている。
西側の兵力。
どんな英雄がいるのか。
土地はどうなっているのか。
そして、この地をまとめる者たちが、どこまで兵を動かせるのか。
見てこい。
それが命令だった。
偵察。
先兵。
言葉にすれば簡単だ。
だが董卓には、別の考えもあった。
いつまでも他人の軍門に下っているつもりはない。
兵を増やす。
土地を取る。
使える者を集める。
力を持つ。
そのためにも、この西側の土地がどれほどのものかは見ておきたかった。
「紫式部、か」
予定になかった名前が一つ増えた。
董卓は再び笑った。
「面白い」
報告に来た兵が戸惑う。
「は?」
「その女の守りは、どれほど続く」
「分かりません。こちらが退いた後も、ずっと声を出していました」
「何を喋っている」
「歌のようなものも。長い話のようなものもありました。意味までは……」
董卓の目が細くなった。
「声が乱れたことは?」
兵が少し考えた。
「一度、咳き込んだ時がありました」
「その時は」
「ほんの少しですが、守りが揺らいだように見えました。いつもより奥まで進めた兵もいます。ただ、それが声のせいなのかまでは……」
「なるほど」
董卓は笑った。
隣にいた男が口を開く。
「声が力の元だと?」
「まだ決めるな」
董卓は答えた。
「声と守りが無関係ではなさそうだ。それだけだ」
そう言いながら、頭の中ではすでにいくつかの形が出来始めていた。
女が声を出す。
守りが続く。
声が乱れた時、守りも揺らいだように見えた。
偶然かもしれない。
ならば。
確かめればいい。
「正面から何度攻めた」
「三度です」
「一度の攻撃はどれほど続けた」
「長くても四半刻ほどです」
董卓は舌打ちした。
「短い」
「しかし、守りが固く――」
「固い壁へ頭をぶつけ続けろと言っているのではない」
兵が口を閉じる。
董卓は宿場のある西を見た。
ここから姿は見えない。
だが、街道の向こうにいる。
声を出し続け、人を守っている女が。
「一度で破る必要はない」
董卓が言った。
「休ませるな」
「は?」
「攻めろ。退け。しばらく置いて、また攻めろ」
兵が顔を上げる。
「夜もですか」
「当たり前だ」
董卓の声に笑いが混じる。
「眠らせるな。水を飲む暇も、喉を休める暇も与えるな」
隣の男が眉を寄せた。
「守りと声が繋がっているなら、消耗させながら確かめると」
「それだけではない」
董卓は続ける。
「宿場の外にまだ民がいるのだろう」
「おります。逃げ遅れた者が点々と」
「そこを突け」
兵が一瞬、黙った。
董卓が横目で見る。
「聞こえなかったか」
「……防御の外にいる民を狙うのですか」
「女は何のために声を出している?」
答えはない。
董卓は自分で答えた。
「人を守るためだ」
口元が吊り上がる。
「ならば、守る相手を増やしてやればよい」
宿場の内側に人が集まっているだけなら、守るべき相手もまとまっている。
だが外に老人がいる。
子供がいる。
怪我人がいる。
助けを求めて逃げてくる者がいる。
あの女が本当に人を見捨てられないのなら。
守ろうとする。
声を張る。
休めない。
そして自分から削れていく。
「力が強い者ほど、壊し方を間違えるな」
董卓は言った。
「剣で斬れぬなら、剣以外で壊せばよい」
報告に来た兵の顔に、薄い笑みが浮かんだ。
先ほどまで疲労しかなかった男の目に、別の熱が混じっている。
残酷な命令を、嫌うより面白がっているような目だった。
董卓は満足そうに目を細めた。
「分かりました」
男の声が少し弾んだ。
「すぐに伝えます」
「待て」
兵が止まる。
董卓はしばらくその顔を眺めた。
「倉と井戸には手を出すな」
「はい」
「橋もだ」
「はい」
「宿場そのものを焼くな。使えなくなる」
「承知しました」
「民は?」
兵が聞く。
董卓は笑った。
「女が守れるだけ守らせろ」
兵も笑った。
「はっ」
走り去っていく。
隣にいた男は、黙ったままだった。
董卓が見る。
「何だ」
「いえ」
「言いたそうな顔をしているぞ」
男は少し迷った後、口を開いた。
「大ハーンからの命は、敵情を探ることだったはずです」
董卓の目が細くなる。
「だから探っている」
「少々、やりすぎでは」
次の瞬間。
男の喉元へ董卓の手が伸びた。
殺してはいない。
ただ、指が触れるほど近くで止まった。
男の身体が固まる。
「わしに命令を説くな」
低い声だった。
「……申し訳ありません」
「勝てぬ相手へ無駄に兵を捨てる気はない。だが、目の前にある力の底も測らず帰れば、それこそ何をしに来た」
董卓は手を下ろす。
「どこまで守れる」
「どこまで続く」
「何をすれば崩れる」
一つずつ指を折る。
「それを知って持ち帰れば、立派な敵情ではないか」
男は頭を下げた。
「仰せの通りです」
董卓は鼻を鳴らした。
もちろん、それだけではない。
紫式部という女がどこまで耐えるのか。
人を守ろうとする者が、自分のせいで誰かが傷つく光景をどこまで見続けられるのか。
それを見たい。
その気持ちがあることを、董卓自身は否定しなかった。
欲を否定するのは嫌いだった。
欲しいなら奪う。
見たいなら見る。
力が欲しいなら手に入れる。
だからこそ、あの草原の王に屈したままでいることが気に入らない。
いつか。
その言葉を、董卓は胸の内だけで転がした。
今ではない。
今はまだ、あの男に逆らえない。
その程度のことは理解している。
理解しているからこそ、生きている。
「伝令をもう一人出せ」
董卓が言った。
「東へ、途中経過を送る」
「大ハーンへ?」
「そうだ」
「何と」
董卓は少し考えた。
「西側の領域へ侵入。見張り所を確保。街道、橋、井戸、食糧庫を押さえつつ西進中」
そこまで言って、一度止める。
「それから」
西の空へ目を向ける。
「名のある者と思われる守り手を確認。能力を調査中」
「紫式部、と?」
「名も入れておけ」
「はっ」
男が去る。
董卓は一人、高台へ戻った。
風が吹く。
黒い旗が大きくはためいた。
下では、また誰かの笑い声が上がっている。
泣き声も聞こえる。
兵の怒鳴り声。
荷車の軋む音。
馬の嘶き。
それらが混ざり合う。
董卓には、悪くない音に聞こえた。
西には、声と言葉で人を守っている女がいる。
その守りと声が、どこまで結びついているかはまだ分からない。
だから試す。
休ませない。
守る人間を増やす。
削る。
それでも続けられるのなら、さらに削る。
どれほど強い人間でも、身体を持つなら限界はある。
腹は減る。
眠くなる。
喉は枯れる。
心も削れる。
董卓は目を細めた。
「さて」
まだ見えない宿場へ向かって、笑う。
「いつまでその声が続くか、見せてもらおう」
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