悪徳賛歌①
東の集落には、まだ煙が残っていた。
焼けた家は多くない。
それでも、道の端では壊れた戸板が転がり、踏み荒らされた畑には荷車の轍が何本も残っている。
一軒の家の前で、兵が笑っていた。
「もうないって言ってるだろ!」
地面に倒れた男が腕で頭を庇う。
兵はその腹を蹴った。
「昨日も同じこと言ってたじゃねえか。探せばまだ出てくるだろ」
「本当に、もう……」
もう一人が家の中から壺を抱えて出てきた。
「酒あったぞ!」
「ほら見ろ!」
笑い声が上がる。
その少し離れた場所で、火のついた松明を持った兵が納屋へ近づいていた。
「おい。何をしている」
低い声が飛ぶ。
松明を持った兵が止まった。
声をかけたのは、この一隊を預かる将の一人だった。
「燃やそうかと」
「そこは穀物庫だ」
「だからですよ。こいつらの食い物なんか――」
将は兵の頬を殴った。
兵がよろめく。
「命令を忘れたか。倉、井戸、橋は壊すな」
「……はい」
「火を消せ」
兵は不満そうな顔をした。
それでも松明を地面へ落とし、靴で火を踏み消す。
家の前では、また別の笑い声が上がった。
道。
橋。
井戸。
食糧。
使えるものは残す。
逆らう者は潰す。
奪えるものは奪う。
その線だけは、軍全体に通っていた。
高台からその様子を眺めていた董卓は、口元を歪めた。
「悪くない」
横に立つ男が、わずかに顔を伏せる。
「兵の統制が、ですか」
「違う」
董卓は笑った。
「顔だ」
下では、酒を見つけた兵たちが奪った壺を回している。
一人が口をつけ、残りが囃し立てる。
その横では、先ほど蹴られていた男が家族に抱え起こされていた。
兵たちはもう興味を失っている。
董卓は、その光景を眺めた。
少し前まで、同じ兵たちはもっとつまらない顔をしていた。
食料を差し出せと命じても、家の中に子供がいれば目を逸らした。
泣く女を前にすれば、手を止める者もいた。
命令だから仕方がない。
そんな顔をしていた。
今は違う。
命令される前から探す。
奪う。
殴る。
そして笑う。
「ようやく兵らしくなってきたではないか」
隣の男は返事をしなかった。
董卓は気にしない。
人間は、善人の皮を被って生きている。
欲しい。
奪いたい。
踏みつけたい。
自分の方が上だと分からせたい。
腹の底にそういうものを持ちながら、法だの道徳だの世間体だので蓋をする。
董卓の力は、その蓋を少し軽くするだけだった。
【悪徳賛歌】。
誰かの心に、そこにない欲望を作り出す力ではない。
考える力を消して人形にするものでもない。
もともとある欲を膨らませる。
怒りを煽る。
残虐さに甘みを与える。
そして、それを止める罪悪感や理性の声を遠ざける。
それだけだ。
だからこそ董卓は、この力を好んでいた。
人間が自分で選ぶからだ。
「やめろ!」
下から声がした。
一人の若い兵が、仲間の腕を掴んでいた。
捕まえた老人を殴ろうとしていた兵を止めたらしい。
「もう抵抗してないだろ!」
「離せよ」
「命令は食い物を集めることだ。こんなの意味ないだろ!」
周囲の兵が笑う。
「まだそんなこと言ってんのか」
「気持ちいいぞ。お前もやってみろよ」
若い兵の顔が強張った。
それでも腕を離さない。
董卓は目を細めた。
顔には怒りがある。
恐怖もある。
それでも止める側を選んだ。
「なるほど」
董卓が呟く。
全員が同じように堕ちるわけではない。
それでよい。
悪徳賛歌は命令ではない。
踏み越えるかどうかは、その者自身が決める。
踏み越えた者は、次はもっと容易く踏み越える。
一度奪えば、二度目は軽い。
一度殴れば、次は楽になる。
一度人を殺せば、その次には理由すらいらなくなる者もいる。
董卓は、そういう兵を作っていた。
「止めている方はどうします」
隣の男が尋ねた。
「放っておけ」
「よろしいので?」
「一人くらい正義漢が混じっていた方が面白い」
董卓は鼻で笑った。
「それに、あれがいつまで同じ顔をしていられるかも見ものだ」
男は何も言わなかった。
董卓は高台から降りる。
黒地に「董」の一字を染め抜いた旗が、風を受けて鳴った。
旗の下には兵がいる。
そのさらに後ろには、東から運び込ませた物資が並んでいる。
略奪だけで軍は動かない。
今日食えても、明日食えなければ軍は止まる。
橋を焼けば、自分たちの荷車も渡れない。
井戸へ死体を投げ込めば、自分たちの水まで失う。
兵が狂おうと、軍まで狂わせるつもりはなかった。
「西へ出した連中からは?」
董卓が聞く。
「先ほど戻りました」
「呼べ」
間もなく、一人の兵が駆けてきた。
鎧には泥がつき、肩で息をしている。
「申し上げます」
「どうだ」
「見張り所より西、街道沿いの宿場で抵抗が続いております」
董卓の足が止まる。
「まだ落ちておらんのか」
「はい」
兵は頭を下げたまま答える。
「守り手の数は多くありません。宿場にいた者と、周辺の集落から逃げ込んだ者が中心です。こちらが押せば、普通なら持たぬはずなのですが……」
「普通なら?」
兵が顔を上げた。
「女が一人おります」
董卓の眉が上がる。
「女?」
「はい。若い女です。あれが声を出している間、矢も刃も妙に通りません」
「妙に、とは何だ」
「うまく説明できません」
兵は困った顔をした。
「壁が見えるわけではないのです。ですが矢が途中で勢いを失ったり、狙いが逸れたり……近づいた兵も、あと一歩のところで押し返されるようなことが」
董卓は黙って聞いている。
「名は」
「紫式部と呼ばれております」
その名に、董卓は反応しなかった。
自分が知る名ではなかった。
この世界では珍しいことでもない。
死んだはずの王。
何百年も後の武将。
見たこともない国の英雄。
ここでは時代も土地も関係なく現れる。
董卓自身、それを嫌というほど思い知らされていた。
脳裏に、一人の男の姿が浮かぶ。
草原。
馬。
無数の騎兵。
そして、自分が率いた軍勢を打ち破った男。
チンギス・ハーン。




