戦の匂い ②
その時、再び外から足音が近づいた。
今度は一人だった。
泥に汚れた男が入口から入ってくる。
「東街道の宿場からだ!」
玄馬がすぐに立つ。
「報告を」
男は息を整える暇もなく答えた。
「宿場はまだ落ちてない」
詰所のあちこちから安堵の息が漏れた。
だが男の表情は変わらない。
「東側から敵が押してきてる。周辺の集落から逃げてきた人間も宿場へ集まってる。負傷者も多い。歩けない老人や子供も残ってる」
「守りは?」
「持ってる。今のところは」
男は一度息を吸った。
「紫式部殿が守っている」
「式部さんが?」
巴が顔を上げた。
今までとは違う声だった。
驚きというより、聞き知った相手の名が危険な場所から出てきたことへの反応だった。
「知り合いか?」
アラタが尋ねる。
「何度か会ってます。仕事でですけど」
「式部さんって……」
圭介が巴を見る。
「もしかして、あの紫式部ですか? 『源氏物語』の?」
「その紫式部さん」
「この世界にいるんですか?」
「いるわよ」
巴は答えながら、すぐに伝令へ向き直った。
「式部さんは無事なんですか?」
「今は」
その答えに、巴の眉が寄る。
志乃も静かに伝令を見ていた。
「この辺りで活動しているって話は聞いたことがあります。でも、そんな場所にいるとは……」
「俺も一度二度、顔を合わせたことがある」
玄馬が言った。
「東方面で人を守ってるとは聞いていたが、まさか今回の真ん中にいるとはな」
アラタも紫式部という名そのものは知っている。
遠い第一の人生。
日本で学んだ歴史と文学の中にあった名前だ。
だが、今は昔の書物の話をしている時ではない。
「どうやって宿場を守っておる?」
アラタが聞いた。
伝令は少し迷ってから答えた。
「俺にも詳しいことは分からない。ただ、式部殿の守りで、宿場の内側はまだ持ちこたえてる。ずっと声を出し続けてるそうだ」
「声を?」
圭介が聞き返す。
「言葉を詠んでいる。歌みたいな時もあるし、もっと長い話みたいなものを口にしてる時もある。俺が出る前も止めてなかった」
玄馬が問う。
「いつからだ?」
「かなり前からだ。休めてるかどうかは分からない。声もだいぶ掠れてきてる」
巴の表情が強張った。
「そんな……」
伝令は続ける。
「宿場にいる人間だけじゃない。東から逃げてくる奴がまだいる。式部殿はそいつらまで中へ入れてる。このまま人数が増えたら、食い物も治療の手も足りない」
「動かせる者から西へ下げるべきだな」
玄馬が即座に言った。
「はい。そのために来ました。護衛と、負傷者を運ぶ手が欲しい」
玄馬はもう周囲を見ている。
誰がいる。
誰を残す。
誰を出せる。
その目が詰所の中を一度巡っただけで、先ほどまでの玄馬とは別の顔になっていた。
「正規登録の者から救援を出す。戦えるだけじゃ駄目だ。荷を運べる奴、負傷者を守って戻れる奴を優先する」
何人かが返事をした。
「馬と荷車の空きを確認しろ。水と布もだ。町の兵にも話を通せ」
指示が飛ぶ。
再び周囲が動き始める。
「玄馬さん」
巴が呼んだ。
「私も行きます」
玄馬の目が止まった。
「危険だぞ」
「分かってます。でも、向こうは治療の手が足りないんですよね」
巴は先ほどまで治療していた負傷者へ視線を向けた。
「ここまで運べれば助けられる人でも、向こうで手当てできなかったら間に合わないかもしれません。私なら、少なくともその手伝いはできます」
玄馬はすぐには返事をしなかった。
巴の顔を見た後、伝令へ尋ねる。
「治療できる人間は?」
「足りてない」
「だろうな」
玄馬は息を吐いた。
「巴、お前は救援に入れ。だが治療が役目だ。前へ出るな」
「はい」
返事に迷いはなかった。
「では、わしも行こう」
アラタが言う。
玄馬がこちらを見る。
「お前は仮登録だ」
「知っておる」
「朝、俺が言ったことも覚えてるな?」
「仮登録は東へ出さぬ」
「そうだ」
アラタは頷いた。
「なら、玄馬殿が駄目だと言うなら残る」
その答えが意外だったのか、圭介がアラタを見る。
アラタは気にせず続けた。
「じゃが、宿場から人を連れ帰るなら、運ぶ手も護衛も要るじゃろう。わしならどちらにも使える。必要なら入れてくれ」
玄馬は黙ってアラタを見た。
初めて会った時の模擬戦。
北の森での裂牙犬。
想定を超えた数を見て、一度は撤退を選んだこと。
囲まれた後も一人で勝手に戦わず、志乃と圭介へ役割を与えて三人で帰ってきたこと。
そして今日も、何も分からない東へ勝手に向かわず、町の仕事をして戻ってきた。
玄馬が口を開く。
「分かった。お前も入れ」
「いいんですか?」
圭介が思わず聞いた。
「ああ」
玄馬はアラタから目を逸らさなかった。
「強いから入れるんじゃない」
アラタが少し眉を上げる。
「昨日までで見た。こいつは引くべき時に引ける。仲間を置いて勝手に先へ行かない。現地を知らない時は、知ってる人間の話を聞く」
玄馬はそこで言葉を切った。
「戦場で一番困るのは、強いくせに人の話を聞かない奴だ。アラタは今のところ、そっちじゃない」
「今のところ、か」
「まだ知り合って何日だと思ってる」
「信用が薄いのう」
「十分厚くしたつもりだ」
アラタは少し笑った。
「なら、その信用を減らさんようにしよう」
「そうしてくれ」




