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戦の匂い ①

最初に声を上げたのは圭介だった。


「董卓って……あの董卓ですか? 三国志の」


詰所の中にはまだ鐘の余韻が残っていた。


正規登録の討伐者たちが行き交い、受付では名前の確認が続いている。それでも、玄馬が口にした名前を聞いた周囲だけは、奇妙に音が遠ざかったようだった。


圭介は握っていた槍へ目を落とし、それから顔を上げる。


「たしか、かなりやばい暴君で……呂布とかも出てくる人ですよね。いや、俺、漫画とゲームの知識が混ざってるかもしれないですけど」


「名前は知っています」


志乃が静かに言った。


先ほどまで少し笑っていた顔から、もう笑みは消えている。


「詳しくはありませんけど、あまりいい人物として習った覚えはないです」


「私もそのくらいですね」


巴も頷いた。


「三国志に出てくる、悪名のある人物っていうくらい」


玄馬は三人の顔を順に見た。


「俺の生きていた頃にも名は知られていた。中国史に詳しいわけじゃないが、善人として残った名ではないな」


「わしも名は覚えておる」


アラタはそう答えたものの、それ以上は続けなかった。


第一の人生で聞いた名前だ。記憶を辿れば、いくつか話も出てくる。


だが、それは遠い昔の日本で知った歴史の話でしかない。


目の前にあるのは、この世界で黒い旗を掲げ、東の見張り所を占拠した軍勢だった。


「昔の董卓がどういう男だったかと、今こちらにおる男が何をするかは別じゃ」


「……同じ人じゃないんですか?」


圭介が聞く。


「同じ名を持つ本人なのかもしれん。じゃが、過去の話だけで今の行動まで決めつけるのは早いのう」


アラタは玄馬の机に置かれた報告書へ視線を戻した。


「まずは、こちらで何をしておるかじゃ」


玄馬が小さく頷いた。


「俺もそう思う。今分かっているのは、東の見張り所を人間の軍が占拠した。それだけだ」


その時、外が騒がしくなった。


誰かが大声で叫んでいる。


「道を空けろ! 東から負傷者だ!」


玄馬が弾かれたように入口を向いた。


「正規登録の者は入口を空けろ! 手の空いてる奴は外へ出ろ!」


アラタは足元に置いていた野菜籠を壁際へ寄せると、すぐに外へ出た。


街道側から一台の荷車が入ってくるところだった。


荷台には何人もの人が乗せられている。布を巻いた腕を抱える男、顔を血で汚した若者、ぐったりと横たわる老人。その間に、小さな子供が身を縮めていた。


車輪が石へ乗り上げ、荷車が大きく揺れた。


荷台の端に座っていた負傷者の身体が傾く。


アラタは駆け寄ると、その男が地面へ落ちる前に身体を受け止めた。


「す、すま……」


「喋らんでよい。立てるか?」


返事を待つ間にも、男の足へ力が入っていないことは分かった。


アラタは片腕を自分の肩へ回させると、そのまま荷車の横へ下ろした。


後ろから巴が走ってくる。


「そこへ寝かせてください!」


「うむ」


アラタは空けられた場所へ男を運ぶ。


巴はすぐに膝をつき、巻かれた布を確認し始めた。


「圭介、水を! でも飲ませるのは待って。先に持ってきて!」


「はい!」


圭介が走る。


志乃は荷車の後ろへ回り、街道の向こうへ目を向けていた。


「後ろから来ている人は?」


荷車を引いてきた男へ尋ねる。


「まだ……まだいる。途中にも何組か……」


「追われていますか?」


「ここまでは来てない。だが東は……」


男はそこで言葉を切った。


アラタは荷車の上へ残っていた子供を抱えて下ろし、近くにいた女性へ預けた。


続いて荷車の後ろへ回る。


片方の車輪が石の窪みへ落ち込み、動かなくなっていた。


「押すぞ」


近くにいた討伐者へ声をかけ、返事を待たず肩を当てる。


二人で力を入れると、重い荷車が窪みから抜けた。


「こっちへ寄せろ!」


玄馬が指示を飛ばしていた。


「街道を塞ぐな! 次が来るかもしれん! 歩ける者と歩けない者を分けろ! 治療できる奴は巴のところへ!」


人が次々と動き始める。


騒がしい。


だが、朝の詰所にあった、何が起きているのか分からない重苦しさとは違う。


玄馬の声を中心に、人の流れが少しずつ整っていく。


アラタはそれを確認してから、今度は荷台に横たわっていた老人へ手を伸ばした。


「お主は動かぬ方がよさそうじゃな」


老人は青い顔で頷いた。


「担架を借りるぞ」


「持ってきます!」


戻ってきた圭介が答え、そのまま詰所へ走った。


顔色は悪い。


荷台の血を見たからだろう。


それでも足は止まっていなかった。


やがて負傷者がある程度落ち着くと、玄馬は荷車を引いてきた男を壁際へ座らせた。


男も肩を切っていたが、話はできるらしい。


巴が傷口へ布を当てながら尋ねる。


「どこから来たんですか?」


「東の集落だ。宿場より、もっと東の……」


玄馬とアラタが顔を見合わせる。


宿場と見張り所の間にある地域だ。


男は乾いた唇を舐めた。


「昨日までは、まだ何もなかった。見張り所で何かあったって話は来てたが、俺たちは逃げるほどじゃないと思ってた」


「敵を見たのはいつじゃ?」


アラタが聞く。


「今日だ。東から来た」


男の手が震えている。


「人の軍だった。最初は、兵なら話が通じると思ったんだ」


その声が掠れた。


「でも、あいつら……おかしい」


巴の手が一瞬止まった。


「何があったんです?」


「笑ってたんだ」


男は俯いた。


「家から出てきた奴を殴って、逃げる奴を追い回して……金を出したのに、まだ殴る。食い物を渡しても、面白がって家の中を荒らす。抵抗してない奴までだ」


圭介が息を呑む。


男は続けた。


「命令で仕方なくやってる顔じゃなかった。楽しんでた」


周囲の空気が重くなる。


志乃が口を開いた。


「軍は、ばらばらに動いていたんですか?」


男が顔を上げる。


「いや……」


少し考え、首を振った。


「そこが変なんだ。兵はめちゃくちゃなのに、軍はめちゃくちゃじゃない」


アラタの目が細くなった。


「詳しく聞かせてくれぬか」


「橋にはすぐ兵がついた。井戸にもだ。倉も焼かなかった。中を調べた後、見張りを置いてた。街道にも何人かずつ立たせて……」


「家々は荒らすのにか?」


「そうだ」


男は頷いた。


「火をつけようとした兵を、別の兵が止めてるのも見た。倉の近くだった」


玄馬の表情が変わる。


アラタはしばらく黙っていた。


橋。


井戸。


食糧を置く倉。


街道。


軍が進み、後から人と物を通すために必要になるものばかりだ。


「指揮は通っておる」


アラタが呟いた。


玄馬がこちらを見る。


「俺もそう思う」


「ただ暴れたいだけの集まりなら、使える物まで壊す。じゃが、こやつらは残す物を選んでおる」


「じゃあ……」


圭介が言いかけた。


「董卓が兵に、民を襲えって命令してるってことですか?」


「そこまでは分からん」


アラタはすぐに否定した。


「分かるのは、上で軍を動かしておる者は冷静らしいということ。そして、その下で兵どもが妙なほど残虐になっておるということだけじゃ」


志乃が腕を組む。


「普通なら、占領した場所を使うつもりなら、住民まで無意味に傷つける必要はないですよね」


「ないな」


玄馬が答えた。


「脅して従わせるにしても限度がある。働かせる人間まで壊せば、自分たちが困る」


「なのに、兵は止まらない……」


巴が小さく呟いた。


アラタは何も答えなかった。


まだ足りない。


理由を決めるには、情報が少なすぎる。


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