東からの狼煙 ②
角兎の仕事は、昼前には終わった。
名前の通り、額に短い角を持つ兎に似た魔物だった。
体は普通の兎より二回りほど大きい。
危険を感じると角を向けて突っ込んでくるが、裂牙犬ほど速くも、群れとして統率されてもいない。
「来たぞ!」
圭介が槍を構える。
畑の畝を飛び越え、灰色の角兎が一直線に走ってくる。
昨日なら、槍先が少し泳いでいただろう。
だが今日は違う。圭介は一度息を吐くと、無理に突こうとせず槍先を低く置いた。
角兎は衝突する直前に横へ跳び、槍先をかわす。
「うわっ」
圭介は外した勢いのまま追いかけようとはせず、すぐに槍を引き戻して構え直した。
「今のは悪くない」
少し離れたところからアラタが言った。
「外しましたけど」
「外れたからと振り回さなんだ」
「昨日言われたので」
「なら一つ覚えたではないか」
圭介の顔が少し明るくなる。
その横を志乃の矢が抜け、角兎の前足のすぐ先へ突き立った。驚いた角兎が反対側へ向きを変える。
「圭介」
「はい!」
今度は圭介がその逃げ道へ槍を置いた。急停止しようとした角兎が体勢を崩したところへ石突を当て、動きを押さえる。
「今!」
二本目の矢が首元へ突き立ち、角兎はその場で動かなくなった。
「おお」
アラタが拍手した。
圭介が顔を上げる。
「今の、俺が倒したって言っていいですか?」
「半分くらいですね」
志乃が即答した。
「厳しくないですか?」
「私が追い込んだので」
「最後押さえたの俺ですよ」
「では半分です」
「最初から半分って言ってるじゃないですか」
二人が言い合う。
アラタは少し笑った。
昨日よりいい。
圭介は一度失敗しても慌てなくなった。
志乃も自分で全部仕留めようとせず、圭介が動ける形を作っている。
たった一日で別人になるわけではない。
だが、人は一度の実戦でも変わる。
「アラタさん」
志乃が振り返った。
「何じゃ?」
「さっきから何もしてませんよね」
「見ておる」
「仕事してください」
「二人で十分そうなのでな」
「報酬は三人分ですよ」
「それはいかんな」
アラタは真面目な顔になり、畑の奥へ目を向けた。葉の陰で何かが動いている。
「では、わしも働くか」
ほどなくして、三頭目の角兎が畝を蹴り、一直線にアラタへ突っ込んできた。
それでもアラタは避けようともせず、その場に立っている。
「アラタさん?」
圭介が声を上げた。
角が腹へ届く寸前、アラタは片足を半歩引きながら角兎の頭へ手を添え、突進の勢いを横へ逃がした。そのまま首根を掴む。
次の瞬間には、角兎の身体が宙に浮いていた。
「……え?」
圭介が止まる。
角兎は空中で足をばたつかせている。
「こやつ、どう仕留めるのが肉を傷めんのじゃ?」
志乃が無言でアラタを見る。
「何じゃ?」
「いえ」
「その顔は何じゃ」
「昨日、大型の裂牙犬を一太刀で倒した人が、今日は兎を持ち上げて聞いてるなと思って」
「食材は大事に扱わねばならん」
「まだ魔物です」
「もうすぐ肉じゃ」
圭介が吹き出した。
結局、畑を荒らしていた四頭のうち三頭を仕留め、一頭は森の方へ逃げた。
畑の持ち主は、五十を越えたくらいの男だった。
日焼けした顔をくしゃくしゃにして礼を言い、報酬とは別に小さな籠へ野菜を詰めてくれた。
「これはよいのか?」
「売り物にならん形のやつだ。味は変わらん」
曲がった大根。
少し小さい芋。
葉に穴の空いた青菜。
アラタには十分だった。
「ありがたくいただこう」
籠を抱える。
圭介が角兎を一頭背負っている。
志乃は弓を肩へ掛け直した。
町へ戻る道は穏やかだった。
朝の騒ぎが嘘のように、畑では人が働いている。
遠くでは子供が二人、棒を剣に見立てて遊んでいた。
「本当に何か起きてるんですかね」
圭介が言った。
「起きておるから伝令は来たのじゃろう」
「そうですけど……ここは普通すぎて」
「遠ければそういうものじゃ」
アラタは答えた。
「戦場の隣の村でさえ、朝には鶏が鳴く。敵が来るまでは飯も炊く」
圭介が横を見る。
「やっぱり戦争も経験あるんですか?」
「さてのう」
「そこは濁すんですね」
「全部話しては面白くないじゃろう」
「何がですか」
「わしが」
「自分で言います?」
志乃が小さく笑った。
その時。
町の方角から鐘が鳴った。
一度。
間を置いて、二度。
三人の足が止まる。
畑にいた者たちも顔を上げた。
圭介が聞く。
「何の鐘です?」
志乃の表情が消えた。
「招集です」
「誰の?」
「町の兵と、登録済みの討伐者」
鐘がもう一度鳴る。
アラタは町を見る。
朝とは違う。
今度は、知らせるための音だった。
◇
詰所へ戻ると、人が溢れていた。
朝より多い。
玄馬が入口近くに立ち、次々と入ってくる者へ指示を飛ばしている。
「仮登録は壁際! 勝手に装備を持ち出すな! 正規登録は名前を確認して待機!」
「玄馬殿」
アラタが声をかける。
玄馬がこちらを見る。
一瞬だけ目が止まった。
「戻ったか」
「何があった?」
「二報目だ」
それだけで、周囲の空気が変わった。
志乃と圭介も黙る。
玄馬は三人を少し奥へ入れた。
巴もいた。
役所から走ってきたのか、朝よりさらに息が上がっている。
「アラタ」
「お嬢ちゃんも聞いたか」
巴は、いつもの呼び方へ突っ込まなかった。
「東の見張り所が落ちたそうです」
圭介の顔から血の気が引く。
「落ちたって……」
「壊された、という意味か?」
アラタが聞く。
玄馬が答えた。
「占拠された可能性が高い」
「魔物ではない?」
「ああ」
玄馬は机の上の紙へ目を落とす。
「人間の軍勢だ」
詰所のざわめきが遠く聞こえる。
「数は?」
「分からん。生き残りが一人、隣の集落まで逃げた。そこから早馬が来た」
「見張り所の兵は?」
「死者が出てる。残りは不明」
「旗印は?」
玄馬がアラタを見る。
質問の速さに少しだけ眉を上げた。
だが答える。
「見慣れないものだったらしい。黒地に文字が一つ」
「何の字じゃ?」
「董」
アラタはわずかに眉を寄せた。
「董……」
聞き覚えのある字だった。
志乃と圭介が、アラタを見る。
巴が尋ねる。
「知ってるんですか?」
「名まで聞けば、あるいはな」
玄馬が紙を裏返した。
「逃げた兵が、敵の名乗りを聞いている」
玄馬の指が紙の上で止まる。
「董卓」
アラタは目を細めた。
聞き覚えのある名だった。
誰もすぐには言葉を返さなかった。
外では、まだ鐘が鳴っている。
西では信長がアレキサンダー大王と戦っている。
そして今。
反対の東から、別の歴史が動き始めていた。
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