9 舌打ちの音
倉の鍵を替えた翌朝、フェルナンは不機嫌だった。
朝食の席で、カティが焼いたパンに蜂蜜を塗ってもらっている間も、ロンが匙を落として乳母に拾われている間も、彼はほとんど口を開かなかった。
パルマは、先に葡萄畑の報告書へ目を通す。早い房がいくつか色づき始めている。雨が少なかった分、実は締まるだろうが、乾きすぎれば粒が小さくなる。
「ねえ、おとうさま、今日は帰ってくる?」
カティが尋ねた。フェルナンは、ようやく娘を見た。
「もちろん帰るよ」
「きのう、夜のスープのときいなかった」
「ああ…… 少し用があったんだ」
「アエリアさん?」
食卓の空気が、ほんの少し止まる。フェルナンは困ったように笑った。
「カティにはまだ難しい話だよ」
「むずかしくないよ。おとうさま、アエリアさんのところばっかり行く」
乳母が小さく息をのんだ。パルマは止めなかった。
フェルナンは、手にしていたナプキンを膝の上で畳み直した。
「アエリアさんは今、ひとりで寂しいんだ。だから少し、助けてあげないといけない」
「カティもさびしい」
その言葉に、フェルナンは返事をしなかった。
ロンが匙を握ったまま、父を見ている。まだ言葉は少ない。けれど、家の中で誰がいなくなるかくらいは分かる。
パルマはパンを置いた。
「フェルナン」
「何だい」
「今日、子供たちと昼食を取れますか」
「昼は…… 少し難しいかもしれない」
「では夕食は」
「戻るつもりだ」
――つもり。
この頃のフェルナンは、そればかり言うようになっていた。
――戻るつもり。
――話すつもり。
――すぐ済ませるつもり。
――アエリアさんが落ち着けば終わるつもり。
つもりで、食卓の席は空くし、倉のものは減るし、子供は待たされる。
「……分かりました」
パルマはそう答えた。
フェルナンは、少し不満そうに顔を上げた。責められると思っていたのかもしれない。責められれば、反論もできる。
だが、もう朝食の席で言うことではなかった。
*
その日、フェルナンは自分の小遣いで町へ出た。
買ってきたのは、薄い茶葉と、小さな焼き菓子と、古本屋で見つけた詩集だった。どれも高いものではない。包み紙も簡素だった。
午後、彼はそれを持って南端の家へ行ったが、帰ってきたのは、思ったより早かった。
「アエリアさんはどうでした?」
パルマが尋ねると、フェルナンは外套を脱ぎながら言った。
「少し疲れていた」
「そうですか」
「茶葉は、香りが強すぎたらしい。焼き菓子は、少し固かった。詩集は……」
そこで言葉が止まる。
「詩集は?」
「以前、実家で読まされたものに似ていると」
パルマは、机の上の書類を揃えた。
「つまり、お気に召さなかったのですね」
「そういう言い方はないだろう」
「事実でしょう?」
フェルナンは目を伏せた。
「彼女は、気を遣ってくれたんだ。せっかく持ってきてくれたのにごめんなさいと、何度も」
「で、食べましたか?」
「何を?」
「焼き菓子を、ですよ」
「少しだけ」
「では、食べられないわけではないのですね」
「パルマ……」
フェルナンの声が低くなった。
「どうして君は、そうやって追い詰めるんだ」
「誰を?」
「彼女をだ」
パルマは顔を上げた。
「どうしてですか? ここに、アエリアさんはいる訳でなし」
「いなくても同じだ。君は最初から、彼女を見る目が冷たかったじゃないか」
「最初からではありません」
パルマは言った。
「私は最初、麦と豆と薪を渡しました。仕事も用意しました」
「だからそれが、彼女にはつらかったんだ」
「では、《《何ならつらくない》》のですか」
フェルナンはその問いに返すことができない。分からないのだろう。
アエリアが何を欲しがるかは分かる。
桃。柔らかいパン。香りのよい茶。背もたれの高い椅子。明るい内容の簡単な本。誰かがそばにいる時間。
だが、何なら自分の範囲でできるのか、彼女がそれで満足するのかは、フェルナンにも分からない。
そして分からないまま、彼は通っている。
「フェルナン」
「何だ」
「あなたは、アエリアさんに何を約束しましたか」
フェルナンの手が止まった。
「何も」
「本当に?」
「ただ、僕が何とかすると言っただけだ」
「何を、何とかするんです?」
「彼女が、リクローデへ戻されるのを怖がっていたから……」
パルマは、少し黙った。
外では、乾燥小屋から戻る女たちの声がする。今日の花はよく乾いたらしい。明日は袋詰めだ。
「あなたに、その約束をする権利はないでしょう?」
「彼女をあの家へ戻したら、本当に壊れてしまうじゃないか」
「それは、確認してから決めることです」
「確認確認と! 君はそればかりだ」
「だけど、確認しなければ、《《誰の話が本当か》》分かりませんよ」
「泣いている彼女を前にして、それを言うのか」
「泣いている誰かが、いつも正しいわけではありません」
フェルナンは立ち上がった。椅子の脚が床を鳴らす。
「君には分からないんだ!」
またそれだった。
「君は強い! エルデートの家を継いで、何でも自分で決めて、皆が従う。だから、何もできない人間の怖さが分からないんだ!」
夫の顔を見て、パルマは唖然とした。この男は本気でそう思っているのか、と。
彼女は強いから、帳面を見て、果物を数えて、食卓に座り、子供を育て、倉の鍵を管理するし、何より、苦しまない。
そう、本気で思っている。
「フェルナン」
「何だ」
「私は強いから決めたり指示しているのではありません。そうしなければ、子供たちと領民が困るからやっているだけです」
「分かっている!」
「いいえ、分かっていません」
その時、廊下から小さな足音がし、カティが顔をのぞかせた。
後ろに乳母がいる。止めようとしたが、間に合わなかったのだろう。
「おとうさま、夕ごはんにいる?」
フェルナンの表情が一瞬ゆるむ。
「ああ、いるよ」
「ほんと?」
「ああ」
カティは、それだけ聞くと頷いて戻っていく。フェルナンは娘の背中を見送った。
*
それでも、その夕方、彼は南端の家へ行った。
夕食の席に戻ってきた時には、スープは冷めていた。カティはもう眠そうで、ロンは乳母に抱かれて部屋へ下がっていた。
「遅くなった」
フェルナンはそう言った。カティは匙を握ったまま、父を見た。
「おとうさま、うそついた」
「カティ様」
乳母が低くたしなめる。フェルナンは、何か言おうとしても言えなかった。
パルマは、娘の皿へ小さく切った梨を一切れ置いた。
「食べなさい。もう眠くなるわ」
カティが梨を口に入れると、しゃり、と音がした。
暑い日の梨は、口の中に水分が一気に広がる。甘くて、涼しい。カティはそれをゆっくり噛んだ。
フェルナンは、その音を聞いていた。
*
翌日、南端の家へ届けられた見舞いは少なかった。
倉の鍵を替え、台所の出入りを記録し、領民にもパルマの許可なく食料を渡さないよう伝えたからだ。
その午後、アエリアが屋敷へ来た。
珍しくひとりで、薄いショールを肩にかけ、ゆっくりと門をくぐってきた。応対した侍女が、すぐパルマへ知らせる。
「アエリアさんがお見えです」
その時パルマは、果物倉にいた。
翌日の市場へ出す桃の選別をしているところだった。まだ最盛期ではないが、今年の桃はよく香る。箱を開けると、甘い匂いが指先に、服に、髪にまで移るようだった。
「こちらへ?」
「はい。旦那様をお待ちしたいと」
「フェルナンは外です」
「それでも、屋敷の方で待たせていただければと」
パルマは少し考えた。
「果物倉には絶対に入れないでください。客間へ」
侍女が頷く。だが、その前に、廊下の向こうからカティの声がした。
「アエリアさん?」
パルマが出ると、カティが乳母のそばに立っていた。ロンもいる。二人は庭から戻ってきたところらしく、頬が少し赤い。
アエリアは、子供たちを見て微笑んだ。
「まあ、カティちゃん。ロンちゃんも」
乳母の眉がわずかに動く。カティは、アエリアの手元を見た。
「今日は籠ないの?」
「ええ。今日は何もいただきに来たのではないの」
アエリアは笑った。
「ただ、フェルナン様に少しお礼を言いたくて」
「おとうさま、またアエリアさんとこ行くの?」
カティはまっすぐ訊ねた。アエリアの笑みが、ほんの少し遅れる。
「お父様は、お優しい方ですものね」
「でもカティのごはんのとき、いない」
「まあ……」
アエリアは、困ったように目を伏せた。
「私のせいなのね」
乳母がカティの肩に手を置いた。
「お嬢様、奥へ」
「でも――」
「奥へ」
その時、ロンが乳母の腕から少し身を乗り出した。廊下の角に置かれた小さな籠を見つけたらしい。
中には、子供たちのために冷やしておいたプラムが二つ入っていた。
「ぷ、む」
ロンが手を伸ばす。
――と、アエリアの目が、籠へ向き、そして、すぐ戻った。
手は出していない。何も言っていない。ただ、ロンが身を乗り出した瞬間、アエリアの指がショールの端を強く握る。
ちっ、と舌打ちの音が響いた。今度は、乳母の耳にも届いた。
カティが振り返る。
「また」
アエリアは、すぐに目を潤ませた。
「ごめんなさい。私、そんなつもりでは…… 子供を見ると、胸が痛むのです」
パルマは廊下の端に立っていた。アエリアがそこで初めて、こちらに気づく。
「あ…… 奥様」
「客間へ案内します」
パルマは言った。
「子供たちのものには何にも触れないでください」
「私、何も」
「ええ。《《まだ何も》》」
アエリアの唇が震える。
乳母はロンを抱き直し、カティの手を引いて奥へ下がった。
カティは一度だけ振り向くが、その目は、もうアエリアを《《可哀想な人》》として見ていなかった。
*
夕方、フェルナンが戻った時、アエリアは客間で泣いていた。
椅子の上で、両手で顔を覆っている。目の前の茶に手をつけず、菓子皿の焼き菓子も残っている。
ただ、窓辺に飾ってあった香りのよい花だけが、《《いつの間にか》》彼女の膝の上に移っていた。
「アエリアさん!」
フェルナンが駆け寄る。
「何があった?」
「私、子供さんたちまで傷つけてしまって……」
アエリアは泣きながら言った。
「私なんて、ここにいない方がよいのですわ」
フェルナンはすぐにパルマを見た。責める目だった。
パルマはその目を受け、記憶をたどる。
――今日、夫は夕食に戻ると言っていない。カティは待たずに済む。
それだけは、昨日よりましだった。




