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夫に捨てられた可哀想な奥様に、娘の桃まで譲るつもりはありません  作者: さんけい


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9/17

9 舌打ちの音

 倉の鍵を替えた翌朝、フェルナンは不機嫌だった。


 朝食の席で、カティが焼いたパンに蜂蜜を塗ってもらっている間も、ロンが匙を落として乳母に拾われている間も、彼はほとんど口を開かなかった。

 パルマは、先に葡萄畑の報告書へ目を通す。早い房がいくつか色づき始めている。雨が少なかった分、実は締まるだろうが、乾きすぎれば粒が小さくなる。


「ねえ、おとうさま、今日は帰ってくる?」


 カティが尋ねた。フェルナンは、ようやく娘を見た。


「もちろん帰るよ」

「きのう、夜のスープのときいなかった」

「ああ…… 少し用があったんだ」

「アエリアさん?」


 食卓の空気が、ほんの少し止まる。フェルナンは困ったように笑った。


「カティにはまだ難しい話だよ」

「むずかしくないよ。おとうさま、アエリアさんのところばっかり行く」


 乳母が小さく息をのんだ。パルマは止めなかった。

 フェルナンは、手にしていたナプキンを膝の上で畳み直した。


「アエリアさんは今、ひとりで寂しいんだ。だから少し、助けてあげないといけない」

「カティもさびしい」


 その言葉に、フェルナンは返事をしなかった。

 ロンが匙を握ったまま、父を見ている。まだ言葉は少ない。けれど、家の中で誰がいなくなるかくらいは分かる。

 パルマはパンを置いた。


「フェルナン」

「何だい」

「今日、子供たちと昼食を取れますか」

「昼は…… 少し難しいかもしれない」

「では夕食は」

「戻るつもりだ」


 ――つもり。


 この頃のフェルナンは、そればかり言うようになっていた。


 ――戻るつもり。

 ――話すつもり。

 ――すぐ済ませるつもり。

 ――アエリアさんが落ち着けば終わるつもり。


 つもりで、食卓の席は空くし、倉のものは減るし、子供は待たされる。


「……分かりました」


 パルマはそう答えた。

 フェルナンは、少し不満そうに顔を上げた。責められると思っていたのかもしれない。責められれば、反論もできる。

 だが、もう朝食の席で言うことではなかった。


 *


 その日、フェルナンは自分の小遣いで町へ出た。

 買ってきたのは、薄い茶葉と、小さな焼き菓子と、古本屋で見つけた詩集だった。どれも高いものではない。包み紙も簡素だった。

 午後、彼はそれを持って南端の家へ行ったが、帰ってきたのは、思ったより早かった。


「アエリアさんはどうでした?」


 パルマが尋ねると、フェルナンは外套を脱ぎながら言った。


「少し疲れていた」

「そうですか」

「茶葉は、香りが強すぎたらしい。焼き菓子は、少し固かった。詩集は……」


 そこで言葉が止まる。


「詩集は?」

「以前、実家で読まされたものに似ていると」


 パルマは、机の上の書類を揃えた。


「つまり、お気に召さなかったのですね」

「そういう言い方はないだろう」

「事実でしょう?」


 フェルナンは目を伏せた。


「彼女は、気を遣ってくれたんだ。せっかく持ってきてくれたのにごめんなさいと、何度も」

「で、食べましたか?」

「何を?」

「焼き菓子を、ですよ」

「少しだけ」

「では、食べられないわけではないのですね」

「パルマ……」


 フェルナンの声が低くなった。


「どうして君は、そうやって追い詰めるんだ」

「誰を?」

「彼女をだ」


 パルマは顔を上げた。


「どうしてですか? ここに、アエリアさんはいる訳でなし」

「いなくても同じだ。君は最初から、彼女を見る目が冷たかったじゃないか」

「最初からではありません」


 パルマは言った。


「私は最初、麦と豆と薪を渡しました。仕事も用意しました」

「だからそれが、彼女にはつらかったんだ」

「では、《《何ならつらくない》》のですか」


 フェルナンはその問いに返すことができない。分からないのだろう。

 アエリアが何を欲しがるかは分かる。

 桃。柔らかいパン。香りのよい茶。背もたれの高い椅子。明るい内容の簡単な本。誰かがそばにいる時間。

 だが、何なら自分の範囲でできるのか、彼女がそれで満足するのかは、フェルナンにも分からない。

 そして分からないまま、彼は通っている。


「フェルナン」

「何だ」

「あなたは、アエリアさんに何を約束しましたか」


 フェルナンの手が止まった。


「何も」

「本当に?」

「ただ、僕が何とかすると言っただけだ」

「何を、何とかするんです?」

「彼女が、リクローデへ戻されるのを怖がっていたから……」


 パルマは、少し黙った。

 外では、乾燥小屋から戻る女たちの声がする。今日の花はよく乾いたらしい。明日は袋詰めだ。


「あなたに、その約束をする権利はないでしょう?」

「彼女をあの家へ戻したら、本当に壊れてしまうじゃないか」

「それは、確認してから決めることです」

「確認確認と! 君はそればかりだ」

「だけど、確認しなければ、《《誰の話が本当か》》分かりませんよ」

「泣いている彼女を前にして、それを言うのか」

「泣いている誰かが、いつも正しいわけではありません」


 フェルナンは立ち上がった。椅子の脚が床を鳴らす。


「君には分からないんだ!」


 またそれだった。


「君は強い! エルデートの家を継いで、何でも自分で決めて、皆が従う。だから、何もできない人間の怖さが分からないんだ!」


 夫の顔を見て、パルマは唖然とした。この男は本気でそう思っているのか、と。

 彼女は強いから、帳面を見て、果物を数えて、食卓に座り、子供を育て、倉の鍵を管理するし、何より、苦しまない。

 そう、本気で思っている。


「フェルナン」

「何だ」

「私は強いから決めたり指示しているのではありません。そうしなければ、子供たちと領民が困るからやっているだけです」

「分かっている!」

「いいえ、分かっていません」


 その時、廊下から小さな足音がし、カティが顔をのぞかせた。

 後ろに乳母がいる。止めようとしたが、間に合わなかったのだろう。


「おとうさま、夕ごはんにいる?」


 フェルナンの表情が一瞬ゆるむ。


「ああ、いるよ」

「ほんと?」

「ああ」


 カティは、それだけ聞くと頷いて戻っていく。フェルナンは娘の背中を見送った。


 *


 それでも、その夕方、彼は南端の家へ行った。

 夕食の席に戻ってきた時には、スープは冷めていた。カティはもう眠そうで、ロンは乳母に抱かれて部屋へ下がっていた。


「遅くなった」


 フェルナンはそう言った。カティは匙を握ったまま、父を見た。


「おとうさま、うそついた」

「カティ様」


 乳母が低くたしなめる。フェルナンは、何か言おうとしても言えなかった。

 パルマは、娘の皿へ小さく切った梨を一切れ置いた。


「食べなさい。もう眠くなるわ」


 カティが梨を口に入れると、しゃり、と音がした。

 暑い日の梨は、口の中に水分が一気に広がる。甘くて、涼しい。カティはそれをゆっくり噛んだ。

 フェルナンは、その音を聞いていた。


 *


 翌日、南端の家へ届けられた見舞いは少なかった。

 倉の鍵を替え、台所の出入りを記録し、領民にもパルマの許可なく食料を渡さないよう伝えたからだ。


 その午後、アエリアが屋敷へ来た。

 珍しくひとりで、薄いショールを肩にかけ、ゆっくりと門をくぐってきた。応対した侍女が、すぐパルマへ知らせる。


「アエリアさんがお見えです」


 その時パルマは、果物倉にいた。

 翌日の市場へ出す桃の選別をしているところだった。まだ最盛期ではないが、今年の桃はよく香る。箱を開けると、甘い匂いが指先に、服に、髪にまで移るようだった。


「こちらへ?」

「はい。旦那様をお待ちしたいと」

「フェルナンは外です」

「それでも、屋敷の方で待たせていただければと」


 パルマは少し考えた。


「果物倉には絶対に入れないでください。客間へ」


 侍女が頷く。だが、その前に、廊下の向こうからカティの声がした。


「アエリアさん?」


 パルマが出ると、カティが乳母のそばに立っていた。ロンもいる。二人は庭から戻ってきたところらしく、頬が少し赤い。

 アエリアは、子供たちを見て微笑んだ。


「まあ、カティちゃん。ロンちゃんも」


 乳母の眉がわずかに動く。カティは、アエリアの手元を見た。


「今日は籠ないの?」

「ええ。今日は何もいただきに来たのではないの」


 アエリアは笑った。


「ただ、フェルナン様に少しお礼を言いたくて」

「おとうさま、またアエリアさんとこ行くの?」


 カティはまっすぐ訊ねた。アエリアの笑みが、ほんの少し遅れる。


「お父様は、お優しい方ですものね」

「でもカティのごはんのとき、いない」

「まあ……」


 アエリアは、困ったように目を伏せた。


「私のせいなのね」


 乳母がカティの肩に手を置いた。


「お嬢様、奥へ」

「でも――」

「奥へ」


 その時、ロンが乳母の腕から少し身を乗り出した。廊下の角に置かれた小さな籠を見つけたらしい。

 中には、子供たちのために冷やしておいたプラムが二つ入っていた。


「ぷ、む」


 ロンが手を伸ばす。

 ――と、アエリアの目が、籠へ向き、そして、すぐ戻った。

 手は出していない。何も言っていない。ただ、ロンが身を乗り出した瞬間、アエリアの指がショールの端を強く握る。

 ちっ、と舌打ちの音が響いた。今度は、乳母の耳にも届いた。

 カティが振り返る。


「また」


 アエリアは、すぐに目を潤ませた。


「ごめんなさい。私、そんなつもりでは…… 子供を見ると、胸が痛むのです」


 パルマは廊下の端に立っていた。アエリアがそこで初めて、こちらに気づく。


「あ…… 奥様」

「客間へ案内します」


 パルマは言った。


「子供たちのものには何にも触れないでください」

「私、何も」

「ええ。《《まだ何も》》」


 アエリアの唇が震える。

 乳母はロンを抱き直し、カティの手を引いて奥へ下がった。

 カティは一度だけ振り向くが、その目は、もうアエリアを《《可哀想な人》》として見ていなかった。


 *


 夕方、フェルナンが戻った時、アエリアは客間で泣いていた。

 椅子の上で、両手で顔を覆っている。目の前の茶に手をつけず、菓子皿の焼き菓子も残っている。

 ただ、窓辺に飾ってあった香りのよい花だけが、《《いつの間にか》》彼女の膝の上に移っていた。


「アエリアさん!」


 フェルナンが駆け寄る。


「何があった?」

「私、子供さんたちまで傷つけてしまって……」


 アエリアは泣きながら言った。


「私なんて、ここにいない方がよいのですわ」


 フェルナンはすぐにパルマを見た。責める目だった。

 パルマはその目を受け、記憶をたどる。


 ――今日、夫は夕食に戻ると言っていない。カティは待たずに済む。


 それだけは、昨日よりましだった。


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