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夫に捨てられた可哀想な奥様に、娘の桃まで譲るつもりはありません  作者: さんけい


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8 フェルナンは善意を配る

 フェルナンは、その夜から動き方を変えた。


 パルマに相談する回数を減らし、代わりに朝早くに屋敷を出る。

 昼前に一度戻り、また南端の家へ向かう。夕方には果樹園や乾燥小屋の男たちを呼び止め、何やら話している。


 最初に気づいたのは、乳母だった。


「奥様、旦那様が台所裏の古い籠をいくつかお持ちになりました」

「何に使うと?」

「アエリアさんの家へ、見舞いを届けるためだそうです」


 パルマは、カティの髪を結っていた手を止めた。カティは鏡の中で目を瞬かせる。


「アエリアさん、また桃たべるの?」

「まだ分からないわ」


 パルマはリボンを結んだ。


「でも、カティの桃は別に置いてあるわよ」

「ロンのも?」

「ロンのも」


 カティは安心したように頷いた。


 *


 その日の午後、フェルナンは果樹園の男を三人連れて、南端の家へ向かった。

 籠の中身は、梨、白パン、干し葡萄、薪、古い膝掛け。どれも一つずつなら騒ぐほどのものではない。

 だが一つずつを、三人がそれぞれ持つと、立派な見舞いになる。

 アエリアは戸口に出て、両手で口元を押さえた。


「こんなに…… 私のために?」

「ああ、皆が心配しているんだ」


 フェルナンは言った。


「君は一人ではないよ」


 男たちは少し照れたように笑った。

 妻に文句を言われた者もいたが、フェルナンに直接頼まれれば断りにくい。領主家の婿で、普段から気さくに声をかけてくれる男である。

 アエリアは深く頭を下げた。


「ありがとうございます。皆さまに、こんなによくしていただいて…… 私、何もお返しできませんのに」

「今はいいんだ」


 フェルナンはすぐに答えた。


「立ち直ることだけを考えればいい」


 ――今は。


 *


 パルマがその言葉を聞いたのは、後で台所の女からだった。


「旦那様がそうおっしゃっていたそうです」

「そう」

「それで、アエリアさんが泣かれたとか」


 台所の女は、布巾を絞りながら口を曲げた。


「泣きながら、干し葡萄の袋はしっかりお持ちになったそうで」


 パルマはその言い方について、あえて咎めはしなかった。


 *


 翌日、フェルナンは見舞いの品を帳面に載せていなかった。パルマがそれを指摘すると、彼は少しだけ疲れた顔をした。


「全部、売り物にならないものだよ」

「白パンも?」

「あれは昨日の残りだ」

「客用の残りです」

「捨てるよりいいだろう」

「捨てません。今日の昼に、台所で使う予定でした」


 フェルナンは黙り、パルマは帳面を閉じる。


「あなたが持っていったものは、あなたのものではありません」

「分かっている」

「分かっているなら、次からは私を通してください」

「それでは遅いこともある」


 フェルナンの声に、初めて苛立ちが混じった。


「彼女は今、追いつめられているんだ。夫に逃げられて、実家に戻されるかもしれないと思っている。食べられるものも少ない。眠れてもいない。そんな人に、いちいち帳面を通してから梨を渡すのか」

「当然です。領地のものですから」


 パルマは答えた。


「君は、冷たい」


 言ってから、フェルナンは息をのんだ。言うつもりではなかったのだろう。だが、言葉はもう出てしまっていた。

 パルマは夫を見た。


「そうですか」

「パルマ、今のは」

「いいえ。分かりました」


 それだけ言うと、フェルナンはむしろ困った顔をした。謝るなら、今だった。だが彼は謝らなかった。


「パルマ、僕は、ただ放っておけないんだ」

「放っておけないなら、ご自分のものをお持ちなさい」

「僕の?」

「あなたの外套、あなたの本、あなたの馬、あなたの小遣い。あなたが助けたいなら、あなたのものから」


 フェルナンは目を伏せた。


「そんな、急に」

「急ではありません。もうずっと前からです」


 部屋の外で、カティの笑う声がした。乳母とロンも一緒にいるらしい。廊下の向こうを小さな足音が通る。

 フェルナンは、その声の方を見なかった。


「アエリアさんは、僕が行かないと不安になるんだ……」


 パルマは、夫の横顔を見ていた。

 領地の相談役だった男。人当たりがよく、困った者の声をよく聞く男。五年暮らし、一男一女の父になった男。

 その男が今、妻子の声より、南端の家の不安を先に見ている。


「では、行っていらっしゃい。止めはしません」

「パルマ」

「ただし、屋敷の倉からは何も持ち出さないでちょうだい」


 フェルナンは何か言いたげに口を開いたが、結局、何も言わずに出ていった。


 *


 その夕方、フェルナンは自分の書斎から本を三冊持ち出した。

 恋物語と詩集、旅の随筆。

 それを見た使用人が知らせに来たので、パルマは頷いた。


「本人の本なら構いません」

「よろしいので?」

「ええ」


 だが、翌朝には本が一冊戻ってきた。表紙の端が少し曲がっている。


「これは?」


 パルマが尋ねると、使用人は困った顔をした。


「旦那様が、アエリアさんには少し難しかったようだと」

「そう」

「代わりに、奥様の書庫にある挿絵入りの詩集を、と……」

「出しません」


 即答すると、使用人はほっとしたように頭を下げた。彼もまた、おかしいと思っていたのだろう。


 *


 フェルナンは、昼にそれを知った。


「パルマ、詩集くらい」

「あれは私のものです」

「だって君の本は、ずっと棚にあるだけだろう」

「棚に置いておくために、私が持っているものです」

「彼女の慰めになるんだ」

「だったら、あなたの詩集をお持ちなさい」

「だから、それは合わなかったんだ」

「では、アエリアさんに合う本を、あなたのお金で買ってください」


 フェルナンはそこで黙り、パルマはその沈黙を聞いた。

 彼は自分の金で買う、となると黙る。

 倉から持ち出す時は、桃くらい、梨くらい、本くらい、と言うのに。


 *


 その日の夜、フェルナンは南端の家から遅く戻った。

 外套に、甘い果物の匂いがついていた。桃ではない。蜂蜜漬けのプラムだ。


「食べてきたのですか」


 パルマが聞くと、フェルナンは少し顔をそらした。


「アエリアさんが、少しだけ出してくれた」

「どこから?」

「さあ。誰かが届けたのだろう」

「誰かが」


 パルマは繰り返した。

 翌朝、その「誰か」は分かった。市場へ箱を運ぶ男の母親が、屋敷へ来た。昨日、息子が家の蜂蜜漬けを持ち出したという。嫁が産後に食べるため、少しずつ取っておいたものだったのだと。


「息子は、旦那様に言われたと言うんです」


 老女は、怒っていた。


「見舞いを持っていけば、アエリアさんも気を強く持てる。男が支えてやらなくてどうすると。うちの息子は単純ですから、その気になって」


 パルマは、手元の帳面に一行を書き足した。


 ――蜂蜜漬けのプラム、一瓶。


「申し訳ありません」

「奥様に謝っていただきたいのではありません」


 老女はきっぱり言った。


「旦那様を止めていただきたいのです」


 その言葉は、台所の中にしっかり残った。


 *


 夕方、パルマはフェルナンを呼んだ。

 彼は、また出かけようとしていた。手には小さな包みがある。自分のハンカチに何かを包んでいる。


「今度は何ですか」

「砂糖菓子だよ」

「誰の」

「僕のだ」

「なら構いません」


 フェルナンは一瞬、ほっとした。


「ただし、今後、あなたがアエリアさんへ何か渡す時は、すべてあなたの持ち物からにしてください。領地のもの、屋敷のもの、台所のもの、使用人の家のものには触れない。領民にも頼まない」

「そんなことをしたら、彼女が孤立する」

「孤立ではありません」


 パルマは言った。


「境目です」

「境目?」

「あなたの善意と、他人の食卓の境目です」


 フェルナンは、包みを握りしめた。


「君は、アエリアさんが嫌いなんだな」

「好き嫌いではありません」

「じゃあ何だ」

「家と領地の管理です。私の役目ですから」


 その言葉に、フェルナンは小さく笑った。

 笑ったのだ。


「……君は何でも管理だな」


 パルマは、その笑いを聞いた。


 ――もう、うんざりです。


 後に桃の箱の前で言うことになる言葉は、この時すでに胸の奥ではなく、舌の上まで来ていたのかもしれない。

 代わりに、パルマは使用人へ命じた。


「明日から、倉の鍵を替えます。台所の出入りも、記録をつけるように」


 フェルナンが顔を上げた。


「僕を疑うのか」

「いいえ」


 パルマは答えた。


「あなたを()()()、ものが消えています。だからそうならないようにするだけです」


 その日、フェルナンは砂糖菓子だけを持って南端の家へ行ったが、帰りは、いつもより早かった。

 どうやら砂糖菓子は、アエリアの好みではなかったらしい。



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