7 奥様、うちの人が変なんです
ジョバンニが消えてから三日目、最初に屋敷へ来たのは、果樹園で働く男の妻だった。
名はミラと言う。春から秋まで果物箱の藁を替え、冬には乾燥花の袋詰めを手伝う女だ。
子供が三人いて、いつもなら用件を短く済ませ、すぐ家へ戻るはずだ。なのにこの日、屋敷の裏口で帽子を両手に握っていた。
「奥様」
呼ばれて、パルマは台所の帳面から顔を上げた。
「どうしました」
「その…… お聞きしてよいものか」
「言ってください」
ミラは一度、台所の女たちを見た。女たちは手を止めない。だが耳は向いている。
「……うちの人が、昨夜、南端の家へ行きました」
「アエリアさんのところへ?」
「はい。薪を割ってくると」
パルマは帳面を閉じた。
「フェルナンから頼まれたのですか」
「いいえ。うちの人が、《《アエリアさんは今ひとりで可哀想だから》》と」
ミラの声が少し固くなる。
「そりゃあ私だって、可哀想なのは分かります。夫に置いていかれたと聞きましたから。でもうちにも子供がいるんですよ。夜の薪割りは、うちの分だって残っているんです。それを、あの人の家へ先に行くものだから」
ミラはそこで口をつぐんだ。
「帰ってから、何か言われましたか」
「女同士なら分かってやれ、と」
台所の奥で、鍋の蓋が小さく鳴る。パルマはミラを見ていた。
「あとは?」
「……今朝、うちの子の梨がありませんでした」
「梨」
「奥様から、賄いに回していただいた小さい梨です。下の子が楽しみにしていて。それをどうも、うちの人が持っていったそうです。アエリアさんは食べられるものが少ないから、少しくらい、と」
――少しくらい。
フェルナンの言い方と同じだった。
「分かりました。こちらで確認しましょう」
「奥様、あれは領主家からのお達しなのですか?」
「いいえ、違います」
パルマはすぐに答えた。
「エルデート家から、アエリアさんの家へ私物や食料を持っていくよう命じたことはありません」
ミラは、そこでようやく息を吐いた。
「なら、よかった」
よかった、と言いながら、顔は晴れない。
「でも奥様、うちの人だけなら、私が叱ればいいんですが…… どうも、他にもいるようで」
「他にも?」
「はい。乾燥小屋のニナのところも、旦那さんが帰りに花を持っていったとか。売り物にならないものだと言っていたそうですが、ニナが見たら、香りのいい束だったと」
パルマは台所の女たちへ目を向ける。誰も驚いた顔をしていない。
「皆、知っていましたか」
台所頭が手を拭きながら、ゆっくり頭を下げた。
「申し訳ありません、奥様。噂の形では聞いておりました。ただ、確かなことではなく」
「今、確かになりましたね」
パルマは立ち上がった。
*
その日のうちに、女たちはぽつぽつと屋敷へとやって来た。戻った女が知らせたのだ。
果樹園の妻。乾燥小屋の女。馬小屋番の姉。市場へ箱を運ぶ男の母親。
――夫が変だ。
――息子が変だ。
――弟が変だ。
そして男達は皆同じようなことを言ったらしい。
――アエリアさんは可哀想だから。
――夫に捨てられた女だから。
――今は優しくしてやらなければならないから。
――奥様は強いから、あの方の気持ちが分からないのだろうから。
パルマは、ひとつずつ聞き、持ち出されたものを書きつける。
梨が二つ――乾燥花が一束――薪が半束――白パンが一つ――上等な燻し肉が少し――
古い膝掛け――蜂蜜漬けのプラム――
どれも、一つずつなら小さいが、数えなければ消えてしまうものだ。
そして消えたものは、必ず誰かの皿や箱から抜けてしまっている。
パルマは胸の奥の怒りと共に、多く息を吐き出した。
*
夕方、フェルナンは戻ってくると、疲れた顔をしていた。
南端の家へ行っていたのだろう。袖に、アエリアの家の戸口に咲いている小さな白い花の花粉がついていた。
「パルマ、少し話が」
「こちらも話があります」
パルマは帳面を開いた。
「今日、領民の女たちが来ました」
フェルナンの表情が曇る。
「アエリアさんのことで、何かひどいことを言いに来たのか」
「いいえ。自分の家の果物と薪と夫の時間が、アエリアさんのところへ流れているという話です」
「そんな言い方をしなくても」
「では、どう言えばよろしいのですか」
パルマは帳面をフェルナンの前に置いた。
「梨二つ。乾燥花一束。薪半束。白パン一つ。燻し肉。蜂蜜漬けのプラム。膝掛け」
「皆が、少しずつ助けているだけだろう」
「それを、《《誰が頼みましたか》》」
「彼女が困っているから」
「アエリアさんが困っていると、誰かの家の梨を持っていってよいのですか」
フェルナンは黙った。
「誰の子供の梨を」
パルマはもう一度聞いた。
「誰の冬の薪を。誰の仕事の花を。誰の食卓のパンを」
「パルマ……」
「あなたは領民の暮らしを見る役でしたね」
「ああ」
「見ていないでじゃないですか」
フェルナンの顔がこわばった。パルマは帳面を閉じる。
「ここしばらくのあなたが見ていたのは、アエリアさんが泣く顔だけです」
フェルナンは何か言い返そうとした。けれど言葉が出なかった。
外では、果物箱を運ぶ車輪の音がしていた。明日の市場へ出す箱だ。
誰かが摘み、誰かが選び、誰かが包み、誰かが運ぶ。
そしてその中から、少しくらい、と抜いていく者がいる。
パルマは、もうそれを善意とは呼ばなかった。




