表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫に捨てられた可哀想な奥様に、娘の桃まで譲るつもりはありません  作者: さんけい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/17

6 白パンと燻し肉

 その夜、フェルナンは戻りが遅かった。


 戻った時、アエリアの家で夕食を取ってきたのだと言った。

 食事と言っても、彼が持っていった白パンと燻し肉を少し分けただけだと。


「白パンと燻し肉」


 パルマは聞き返した。


「台所から、客用のものが少し残っていたから」

「客用の燻し肉は、明日の商会主との昼食に使います」

「少しだよ」

「少しずつ? 積み重なれば足りなくなりますよ」


 フェルナンは疲れたように椅子へ座った。


「……君は本当に、全部数えるんだな」

「当然でしょう」


 パルマは答えた。


「数えないと、足りなくなった時に誰が困るか分からなくなりますから」


 フェルナンは妻の言葉に、返事ができなかった。


 *


 翌朝、ジョバンニがいなくなったという報告が入った。

 果樹園の者が、南端の家へ呼びに行ったが、戻ってきた時、門の前で帽子を脱いで言いにくそうにした。


「セルデスさんが、いません」


 パルマは、その時ちょうど市場へ出す梨の数を確認していた。梨は桃より涼しい香りがする。包丁を入れると水がしっとりと出る。


「アエリアさんは?」

「家にいます。泣いていて、話にならないと」

「フェルナンは」

「もう向かわれました」


 早いことだ、とパルマは思った。

 夫は、領地の倉の鍵を探す時より、外の女の涙へ向かう時の方が速い。

 パルマは梨の箱に蓋をした。


「馬車を用意して。乳母に、カティとロンを屋敷の奥から出さないよう伝えてください」


 侍女が頷く。


「それから、リクローデへ出す手紙は急がなくて結構です」

「よろしいのですか」

「ええ」


 パルマは手袋をはめた。


「向こうから、何か来るかもしれませんから」


 *


 南端の家へ着く前から、泣き声が聞こえた。

 アエリアは、戸口の内側に座り込んでいた。髪は乱れ、薄いショールを肩にかけ、顔を覆っていた。

 フェルナンはそのそばに膝をつき、何度も声をかけていた。


「アエリアさん、大丈夫だ。落ち着いて」

「どうして…… どうして私ばかり……」


 アエリアは泣きながら言った。


「あの人まで、私を置いていくなんて」


 部屋の隅には、食べかけの白パンがあった。皿の上には、薄く切られた燻し肉が二枚残っている。古い椅子には、パルマが渡した厚布が敷かれていた。だがその上には誰も座っていない。

 パルマは部屋を見回す。麦袋は口が開いたまま。豆壺には蓋がない。鍋は洗われていない。窓辺には、乾きかけた花が置かれている。誰かが慰めに持ってきたものだろうが、花瓶の水は既に濁っていた。

 そしてジョバンニの荷は、消えていた。作業着も、帽子も、仕事用の靴も。棚にあったはずの筆記道具もない。

 逃げたのは衝動ではない、とパルマは確信する。彼は持っていくものを選んでいる。


「ジョバンニさんは、どちらへ」


 アエリアは顔を上げ、泣き濡れた目が、パルマを見た。


「分かりません…… 私、何も……」

「何か書き置きは」

「ないよ」


 フェルナンが代わりに答えた。


「奴は男として最低だ。妻を置いて逃げるなんて」


 パルマはフェルナンを見た。


「まず探しましょう」

「ああ、もちろんだ。すぐに人を」

「リクローデ方面へ」


 アエリアの泣き声が止まる。ほんの一瞬。パルマはそれを聞いた。


「なぜ、リクローデへ?」


 フェルナンが尋ねる。


「ジョバンニさんは、アエリアさんの実家の話を怖がっていました」

「彼が?」

「ええ」


 パルマはアエリアを見る。


「《《だから》》、逃げるなら、そこかもしれません」


 アエリアの唇が震えた。


「いや……」


 声は細かった。


「リクローデだけは、いや……」


 フェルナンはすぐに彼女の肩へ手を伸ばした。


「大丈夫だ。君を戻したりしない」


 パルマは、夫の手を見る。

 最近、この手は子供達に触れただろうか?

 今朝カティの髪を撫でることもせず、ロンが朝食で梨を落とした時にも拾わない。市場へ出す箱も、見ていない。

 けれどアエリアの肩には、迷わず伸びる。


「戻すかどうかは、今決めることではありません」

「パルマ!」

「ジョバンニさんがリクローデへ向かったなら、理由があります」

「妻を置いて逃げた男の理由なんて」

「理由がなければ、()()()()()()()()()()()()()()へは向かいません」


 アエリアが泣き出した。さっきより大きな声だった。

 フェルナンはパルマを責めるように見た。


「君は、今それを言うのか」

「今だから言います」


 パルマは、部屋の隅の皿を指した。


「その燻し肉は、屋敷の客用です。白パンも同じ。あなたが持ち出したのでしょう、フェルナン」

「今はそんな話を」

「今だからするんです」


 パルマはきっぱりと言う。


「この家では、何もかもが今はまだ、今は無理、今はつらい、で済まされてきました。けれど、持ち出されたものは、今、予定より確実に減っています」


 フェルナンは黙り、アエリアの泣き声だけが続く。


「人を出してジョバンニさんを探します。リクローデにも確認を取ります」

「奥様……」


 アエリアは顔を覆ったまま、震える声を出した。


「私を、あの家へ帰すおつもりですか」

「まだ決めていません」

「帰ったら、また働かされます。何もできない私に、できるまでやれと言うのです。私、もう壊れてしまいます」

「何もできない」


 パルマは繰り返した。その言葉に、アエリアは小さく頷いた。


「はい…… 今は、何も……」


 パルマは、皿の上に残った燻し肉を見る。薄切りの、香草で燻した上等なものだった。皿の端には、桃の皮も残っていた。昨夜、フェルナンが持っていったのだろう。


「そうですか」


 パルマはそれだけ言った。

 何もできない女が、上等な燻し肉と桃だけは食べている。

 そのことも、しっかり覚えておこう。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ