6 白パンと燻し肉
その夜、フェルナンは戻りが遅かった。
戻った時、アエリアの家で夕食を取ってきたのだと言った。
食事と言っても、彼が持っていった白パンと燻し肉を少し分けただけだと。
「白パンと燻し肉」
パルマは聞き返した。
「台所から、客用のものが少し残っていたから」
「客用の燻し肉は、明日の商会主との昼食に使います」
「少しだよ」
「少しずつ? 積み重なれば足りなくなりますよ」
フェルナンは疲れたように椅子へ座った。
「……君は本当に、全部数えるんだな」
「当然でしょう」
パルマは答えた。
「数えないと、足りなくなった時に誰が困るか分からなくなりますから」
フェルナンは妻の言葉に、返事ができなかった。
*
翌朝、ジョバンニがいなくなったという報告が入った。
果樹園の者が、南端の家へ呼びに行ったが、戻ってきた時、門の前で帽子を脱いで言いにくそうにした。
「セルデスさんが、いません」
パルマは、その時ちょうど市場へ出す梨の数を確認していた。梨は桃より涼しい香りがする。包丁を入れると水がしっとりと出る。
「アエリアさんは?」
「家にいます。泣いていて、話にならないと」
「フェルナンは」
「もう向かわれました」
早いことだ、とパルマは思った。
夫は、領地の倉の鍵を探す時より、外の女の涙へ向かう時の方が速い。
パルマは梨の箱に蓋をした。
「馬車を用意して。乳母に、カティとロンを屋敷の奥から出さないよう伝えてください」
侍女が頷く。
「それから、リクローデへ出す手紙は急がなくて結構です」
「よろしいのですか」
「ええ」
パルマは手袋をはめた。
「向こうから、何か来るかもしれませんから」
*
南端の家へ着く前から、泣き声が聞こえた。
アエリアは、戸口の内側に座り込んでいた。髪は乱れ、薄いショールを肩にかけ、顔を覆っていた。
フェルナンはそのそばに膝をつき、何度も声をかけていた。
「アエリアさん、大丈夫だ。落ち着いて」
「どうして…… どうして私ばかり……」
アエリアは泣きながら言った。
「あの人まで、私を置いていくなんて」
部屋の隅には、食べかけの白パンがあった。皿の上には、薄く切られた燻し肉が二枚残っている。古い椅子には、パルマが渡した厚布が敷かれていた。だがその上には誰も座っていない。
パルマは部屋を見回す。麦袋は口が開いたまま。豆壺には蓋がない。鍋は洗われていない。窓辺には、乾きかけた花が置かれている。誰かが慰めに持ってきたものだろうが、花瓶の水は既に濁っていた。
そしてジョバンニの荷は、消えていた。作業着も、帽子も、仕事用の靴も。棚にあったはずの筆記道具もない。
逃げたのは衝動ではない、とパルマは確信する。彼は持っていくものを選んでいる。
「ジョバンニさんは、どちらへ」
アエリアは顔を上げ、泣き濡れた目が、パルマを見た。
「分かりません…… 私、何も……」
「何か書き置きは」
「ないよ」
フェルナンが代わりに答えた。
「奴は男として最低だ。妻を置いて逃げるなんて」
パルマはフェルナンを見た。
「まず探しましょう」
「ああ、もちろんだ。すぐに人を」
「リクローデ方面へ」
アエリアの泣き声が止まる。ほんの一瞬。パルマはそれを聞いた。
「なぜ、リクローデへ?」
フェルナンが尋ねる。
「ジョバンニさんは、アエリアさんの実家の話を怖がっていました」
「彼が?」
「ええ」
パルマはアエリアを見る。
「《《だから》》、逃げるなら、そこかもしれません」
アエリアの唇が震えた。
「いや……」
声は細かった。
「リクローデだけは、いや……」
フェルナンはすぐに彼女の肩へ手を伸ばした。
「大丈夫だ。君を戻したりしない」
パルマは、夫の手を見る。
最近、この手は子供達に触れただろうか?
今朝カティの髪を撫でることもせず、ロンが朝食で梨を落とした時にも拾わない。市場へ出す箱も、見ていない。
けれどアエリアの肩には、迷わず伸びる。
「戻すかどうかは、今決めることではありません」
「パルマ!」
「ジョバンニさんがリクローデへ向かったなら、理由があります」
「妻を置いて逃げた男の理由なんて」
「理由がなければ、アエリアさんが一番嫌がる場所へは向かいません」
アエリアが泣き出した。さっきより大きな声だった。
フェルナンはパルマを責めるように見た。
「君は、今それを言うのか」
「今だから言います」
パルマは、部屋の隅の皿を指した。
「その燻し肉は、屋敷の客用です。白パンも同じ。あなたが持ち出したのでしょう、フェルナン」
「今はそんな話を」
「今だからするんです」
パルマはきっぱりと言う。
「この家では、何もかもが今はまだ、今は無理、今はつらい、で済まされてきました。けれど、持ち出されたものは、今、予定より確実に減っています」
フェルナンは黙り、アエリアの泣き声だけが続く。
「人を出してジョバンニさんを探します。リクローデにも確認を取ります」
「奥様……」
アエリアは顔を覆ったまま、震える声を出した。
「私を、あの家へ帰すおつもりですか」
「まだ決めていません」
「帰ったら、また働かされます。何もできない私に、できるまでやれと言うのです。私、もう壊れてしまいます」
「何もできない」
パルマは繰り返した。その言葉に、アエリアは小さく頷いた。
「はい…… 今は、何も……」
パルマは、皿の上に残った燻し肉を見る。薄切りの、香草で燻した上等なものだった。皿の端には、桃の皮も残っていた。昨夜、フェルナンが持っていったのだろう。
「そうですか」
パルマはそれだけ言った。
何もできない女が、上等な燻し肉と桃だけは食べている。
そのことも、しっかり覚えておこう。




