5 リクローデの桃
翌朝、パルマは市場へ出す葡萄の箱を見に行った。
エルデート領の市場は、領主館から馬車で半刻ほどの場所にある。
夏前のこの時期はまだ葡萄も桃も本番ではないが、早いものは出る。
花と果物の領地は、朝が早い。日が高くなる前に摘み、選び、箱に詰める。暑さが来る前に動かさなければ、実がすぐゆるむ。
市場の端には、他領から来る商人もいる。
パルマは、葡萄の箱を一つ開けさせた。粒はそろっている。皮に張りがあり、軸も青い。これなら予定通り出せる。
「リクローデの方からも、今年は早い桃が来ているそうね」
何気ない顔でそう言うと、馴染みの果物商が顔を上げた。
「ああ、来ておりますよ。まだ数は多くありませんが。あちらの桃は、やはり香りが違いますな」
「リクローデ男爵領は、果樹の家が多いのでしょう」
「多いですね。古くからの家がいくつもございます。ラグラス、オルネ、ヴェルナ…… あのあたりは、箱の詰め方まで家で癖が違う」
ラグラス。パルマは、葡萄の軸を確かめる手を止めなかった。
「ラグラス家というと」
「おや、奥様もご存じで?」
「名前だけ。こちらへ来た者の故郷だと聞きました」
商人は一度、周囲を見た。
市場に噂は多い。多いからこそ、誰の耳に入れるかは選ぶ。パルマが領地の出荷を握っていることを、この男はよく知っていた。
「ラグラスの娘さんが、ちょっとばかし前に家を出たとは聞きました」
「家を?」
「ええ。親の決めた縁談が嫌で、よその若い男と逃げたとか。まあ、あの手の話は尾がつきますから、どこまで本当か」
「その娘さんの名は?」
「たしか、アエリアとか」
パルマは葡萄の箱を閉じた。
「そう」
「奥様?」
「いえ。リクローデの桃が入ったら、ひと箱見せてください。買うかどうかは、実を見てから決めます」
「もちろんでございます」
市場を出る時、馬車の中に桃の香りが一つもないことに、パルマは少しだけほっとした。
*
屋敷へ戻ると、フェルナンが玄関前にいた。
外套も着ず、帽子だけ手にしている。どこかへ出るつもりだったらしい。
「アエリアさんのところへ?」
パルマが聞くと、フェルナンは少し困ったように笑った。
「様子を見てくるだけだよ。ジョバンニが今日は果樹園の方で長くなるそうだから」
「ジョバンニさんは、昨日も長く働いていました」
「ああ。よくやっている」
「ええ。彼は本当によくやっています」
パルマは頷いた。
「それで、《《アエリアさんは》》今日、何をなさる予定ですか」
「まだ、そこまでは」
「紙折りは三枚でした。花の茎は見ただけで具合が悪くなる、果物の選別は、実家を思い出すのでつらい、椅子は合わない、麦粥は喉を通らない」
フェルナンの顔から笑みが消えた。
「パルマ……」
「今日、何をなさる予定ですか」
同じことを聞くと、フェルナンは目を伏せた。
「まずは、食べられるものを」
「また桃ですか?」
「桃なら少し食べられるんだ」
「そうでしょうね」
パルマは手袋を外し、侍女へ渡した。
「リクローデは桃の名産地ですもの」
フェルナンが顔を上げた。
「何を」
「市場で聞いただけです。アエリアさんのご実家は、リクローデ男爵領のラグラス家。古くから果樹を扱う家だそうですね」
「……彼女は、その家で傷つけられたんだ」
「その家から、縁談を嫌って出たとも聞きました」
「噂だろう」
「ええ、噂です。だから、まだ断定はしません」
パルマは玄関の奥へ入った。
「ただ、アエリアさんが果物を知らないという言葉は、そろそろ信じにくくなりましたわ」
フェルナンはその言葉には何も返してこなかった。
*
その日の夕方、ジョバンニはいつもより遅く屋敷へやって来た。
来た、というより、立っていた。裏口のそばで、番人に声をかけることもせず、帽子を両手で握り、顔色が悪かった。
その時パルマは、台所へ果物の賄い分を見に来たところだった。
「ジョバンニさん?」
声をかけると、ジョバンニははっとした。
「あ、奥様……」
「どうしました」
「……お願いが、あります」
その声は、ひどく小さかった。
パルマは、番人と台所の女に目を向けた。二人は少し離れる。声が届かないほどではない。だが、間に入らない程度には距離ができた。
「何でしょう」
「明日から、自分の仕事を増やしていただけないでしょうか」
「今でも貴方は充分働いているでしょう」
「夜でもいいです。いえ、夜がいいです。箱を運ぶでも、倉を掃くでも、何でも」
「そんな…… 眠らなければ、保たないでしょう」
ジョバンニは帽子を握る指に力を入れた。
「……家に戻る方が、保ちません」
前にも、彼は同じようなことを言っていた。
パルマは黙って待つ。急かすと、人は必要なことだけでなく、言わなくていいことまでこぼす。
だが、この男には、こぼす場所がなかったのかもしれない。
「アエリアは、朝になると今日は起きられないと言います。昼になると、何か食べられそうだと言います。夕方になると、僕が冷たいと言います。夜になると、明日こそは変わると言います」
ジョバンニは一度、目を閉じた。
「毎日、明日なんです」
パルマは、台所の木台に置かれたプラムを見た。
熟れすぎたものは賄いに回す。まだ張りのあるものは明日の箱へ入れる。今日と明日は、果物ですら分けなければならないというのに。
「実家へ、戻ることは」
「嫌だと」
返事は早かった。
「それだけは嫌だと。あの家へ戻るくらいなら死んだ方がましだと。僕がその話をすると、三日は泣きます」
「三日……」
「仕事を休むしかありません。火を使えない。食べられない。眠れない。僕がそばにいないと怖い。けれど、果物は欲しい。甘いものなら食べられる。粗い寝具では眠れない。水がぬるい。茶が薄い。椅子が低い」
ジョバンニは、笑おうとして失敗した。
「すみません。妻のことを、こんなふうに」
「……あなたの仕事代から引くものが、増えていますよ」
「分かっています」
「このままでは、借りが返せません」
「分かってはいるんです」
ジョバンニは、もう一度、同じ言葉を放ち、それから、深く頭を下げた。
「だからお願いします、仕事をください」
パルマはその頭を見ていた。救ったつもりの女を養うために、さらに働こうとする男。
気の毒ではある。だが、気の毒だからと言って、正しいとは限らない。
「明日は、朝から果物箱の藁替えを手伝ってください。日暮れまで。夜仕事は出しません」
「ありがとうございます」
「それから」
ジョバンニが顔を上げる。
「リクローデのラグラス家へ、こちらから手紙を出します」
帽子が、ジョバンニの手の中でつぶれた。
「それは」
「確認です。アエリアさんの話が、どこまで事実かを知る必要があります」
「……待ってください!」
声が震えていた。
「彼女に知られたら……」
「知られたら?」
「……僕が……」
ジョバンニは、それ以上言えなかった。




