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夫に捨てられた可哀想な奥様に、娘の桃まで譲るつもりはありません  作者: さんけい


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4 傷つかない仕事

「傷つかない仕事を探しましょう」


 パルマがそう言うと、フェルナンは少しだけほっとした顔をした。その顔を見て、パルマは筆を取り直す。

 フェルナンは優しい。少なくとも、本人はそう思っている。困っている者に仕事を回し、麦を貸し、薪を渡す。その一つ一つに悪意はない。

 ……悪意がないから、面倒だった。


 *


 翌日、パルマは紙折りの仕事を用意させた。

 葡萄を包むための薄紙である。大きさをそろえて折り目をつけ、束にする。

 この仕事に力はいらない。座ったままでいい。果物を選別するより、乾燥花を扱うより、よほど気を遣わずに済む。


 昼前、アエリアは屋敷に来た。フェルナンが連れてきたのだ。


「アエリアさん、ここで大丈夫かしら」


 パルマが尋ねると、アエリアは小さくうなずいた。


「はい。私にもできることがあるなら……」


 声は細い。けれど、座る椅子を見る目は速かった。

 その部屋には、作業用の長机と椅子が並んでいる。季節働きの女たちが、花を束ねたり、紙を折ったり、果物の包み紐を切ったりする部屋だった。椅子は丈夫だが、客間のものではない。

 アエリアは一度、椅子の座面を見てから座ったが、すぐに紙へ手を伸ばすことはしなかった。


「どうかしましたか」

「いえ……」


 アエリアは薄紙を一枚持ち上げた。


「これを、こう折ればよろしいのですね」

「見本の通りに」


 パルマが示すと、アエリアは丁寧に一枚折った。

 少し遅いが、できないことはない。

 二枚目も折った。三枚目も折った。だが四枚目で、指が止まった。


「すみません。紙の音が、少し」

「紙の音?」

「実家で、帳簿を写す時に、いつも……」


 そこまで言って、アエリアは唇を噛んだ。するとフェルナンがすぐに身を乗り出す。


「無理をしなくていい」


 ――無理をしなくていい。


 この言葉は便利だった。

 パルマは、折られた紙を数えた。三枚。四枚目は途中で止まっている。葡萄一房にも足りない。


「では今日はここまでにしましょう」

「パルマ」

「その代わり、今日の仕事代は出ません」


 フェルナンか黙り、アエリアは顔を伏せた。


「もちろんです。私、役に立てませんでしたもの」


 そう言いながら、彼女は折りかけの紙をそっと机の端に置く。その指先が、その横に置いてあった小皿へ触れる。

 小皿には、作業の合間につまむための干し葡萄が入っていた。季節働きの女たちへ出すものだ。去年の葡萄を干したもので、甘みが強い。


「こちらは」

「働く者用です」


 パルマが答えると、アエリアの指はすぐ離れた。


「失礼しました。私、知らなくて」


 ――知らない。


 アエリアは、よくそう言った。


 ――知らなくて。

 ――分からなくて。

 ――慣れていなくて。

 ――怖くて。

 ――今はまだ。


 言葉はいつも柔らかい。

 だが干し葡萄が働く者用だと知った瞬間、指は離れる。

 仕事代は受け取れないと分かると、すぐ立ち上がる。椅子が合わないと、翌日まで痛む。


 *


 帰り際、アエリアは部屋の入口で足を止めた。


「フェルナン様、私、少しだけお水をいただいてもよろしいでしょうか」

「ああ、もちろん」


 フェルナンが水差しへ向かった。その間に、アエリアの目は長机の上を流れた。

 薄紙――紐――小皿の干し葡萄――窓際の籠に入れられたプラム。

 傷のあるものではない。午後、子供たちへ出すために冷やしてあった分だった。

 アエリアの目が、そこで止まった。

 そしてパルマは、その目を見ていた。


「アエリアさん」

「はい」

「そちらは、子供たちのものです」

「まあ」


 アエリアは目を伏せた。


「私、見ていただけですのに」


 見ていただけ。

 たしかに、手は伸びていない。籠へ近づいてもいない。《《だから》》フェルナンは気づかない。

 水を持って戻ったフェルナンは、ただアエリアの《《顔色だけ》》を見た。


「大丈夫かい」

「はい。ご迷惑ばかりで……」

「迷惑じゃない」


 フェルナンは即座に言い、パルマは、その返事の早さに気付いた。

 迷惑かどうかを決めるのは、この場においては彼ではないだろう?


 水を飲み終えたアエリアは、深く頭を下げて帰った。フェルナンは門まで送っていくと言い、二人で部屋を出た。

 残ったのは、折られた薄紙が三枚。折りかけが一枚。

 パルマはそれを見て、干し葡萄の小皿を下げさせた。


 *


 その日の夕方、ジョバンニがまた屋敷へ来た。

 仕事帰りの服のままだった。袖に土がつき、額に汗が残っている。春とはいえ、日中の果樹園は暑い。


「今日、アエリアがご迷惑をおかけしたと聞きまして」

「迷惑というほどではありません」


 パルマは言った。


「ただ、紙折りの仕事は三枚で終わりました」


 ジョバンニはほんの短い間、目を閉じた。


「……申し訳ありません」

「あなたが謝ることではありません」

「いえ」


 ジョバンニは帽子を握り直した。


「僕が、できると言いました。家を出れば、アエリアも楽になると。実家のことを思い出さない場所なら、少しずつできるようになると」

「そうでしたか」

「でも、何をしても、彼女は駄目なんです」


 その声は春に来た時より乾いていた。


「紙の音が駄目。椅子が駄目。果物の酸味が駄目。塩肉は固くて駄目。豆は匂いが駄目。麦粥は実家を思い出すから駄目」


 ジョバンニは一気にそう言うと、そこで言葉を切った。そして少しして、苦く笑う。


「桃は、好きなんですが」


 パルマは返事をしなかった。


「仕事代から、いただいた麦と薪の分を引いてください。足りなければ、明日からもう少し働きます」

「今の仕事に加えて、ですか」

「はい」

「倒れますよ」

「《《家に戻っても、眠れませんから》》」


 それを言ったあと、ジョバンニはすぐに頭を下げた。


「すみません。今のは、聞かなかったことにしてください」


 パルマは、帳面を閉じた。


「ジョバンニさん」

「はい」

「アエリアさんの実家は、どちらでしたか」


 ジョバンニの手が止まった。


「……北東です。リクローデ男爵領の、果樹を扱う家で」

「果樹を」

「はい」


 パルマは、昼間のアエリアの目を思い出した。

 プラムの籠を見る目。初めて来た日に、市場用の箱を見た目。桃を選ぶ指。


 ――果物のことは分からない。


 そう言った女の故郷は、果樹の家だった。


「そうですか」


 パルマはそれだけ言う。ジョバンニは、何かに気づいたように顔を上げたが、何も言わなかった。


 *


 その夜、フェルナンは食卓で言った。


「アエリアさんは、しばらく屋敷の仕事は難しいかもしれないな」


 カティは乳母に切ってもらったプラムを食べていた。ロンは半分眠りながら、匙を握っている。

 パルマは、娘の皿に残った果汁を見る。熟れたプラムは甘いだけではない。皮の近くに少し酸味がある。カティはその酸っぱさに目を細め、それからもう一口食べる。


「難しいなら、しばらく仕事代は出せません」

「パルマ、そういう言い方は」

「働いていない人に、仕事代は出せない。当然でしょう」

「彼女は夫に連れられて、実家を出たんだ。頼る人がいない」

「ジョバンニさんがいます」

「そのジョバンニも疲れているだろう」

「なら、なおさらアエリアさんができることを探すべきです」


 フェルナンはため息をついた。


「君は強いから、そう言えるんだ」


 パルマは顔を上げた。

 カティが匙を止める。ロンは何も知らず、乳母の腕の中へもたれた。


「強いからではありません」


 パルマは言った。


「私はこの家のものをどこへ回すか決める役目だから、言っているのです」


 フェルナンは黙る。その沈黙を、カティの匙が皿に触れる小さな音が切った。

 パルマはもう一度、皿の上のプラムを見た。


 ――良いものだけは分かる女。


 それはまだ、彼の前では言葉にはしなかった。


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