3 よいものだけは分かるらしい
だが一週間は、一週間で終わらなかった。
最初のうちは、パルマも急かさなかった。
知らない土地へ来たばかりの者を、すぐに畑へ出す必要はない。春の作業は多いが、手はほかにもある。
ジョバンニは、果樹園の下仕事へ入った。
枝を運び、根元の草を抜き、古い支柱を取り替える。言われたことはする。
少し不器用ではあったが、逃げるような男ではなかった。昼には他の男たちと同じ賄いを食べ、夕方には、借りた家へ戻っていく。
そしてその手には、いつも何かがあった。
麦の小袋。傷のある果物。乾燥花を束ねそこねたもの。余った薪。古い布。
どれも、最初に住み着く者へ渡す範囲のものだった。
帳面にも載せてある。返せる分は仕事で返してもらう。返せない分は、落ち着いてから別の軽い仕事へ回す。
……そのはずだった。
けれど、アエリアは《《なかなか落ち着かなかった》》。
*
「今日は、少し頭が重いそうなんだ」
フェルナンが言ったのは、十日ほど経った頃だった。
その日は、乾燥小屋で花の茎を揃える仕事を回す予定だった。座ってできる。花の向きをそろえ、傷んだものを分け、束ねる前の下仕事をするだけだ。
パルマは帳面の端に挟んでいた札を一枚抜いた。
「では、明日にしましょう」
「悪いな」
「貴方が謝ることではありませんでしょう? アエリアさんの仕事です」
フェルナンは少し黙る。
「そうなんだが、彼女はまだ、色々つらいらしい。実家でずいぶん厳しくされていたみたいで、仕事という言葉を聞くだけで身がすくむと……」
「それをジョバンニさんが?」
「いや、アエリアさんが」
パルマは札を戻した。
身がすくむ。なるほどそれは気の毒なことだ。
ただ、アエリアの身体は、果物の籠を受け取る時にはすくまない。
最初に渡した傷物のプラムは、二日後には別の果物に替えてほしいと言ってきた。酸味が強くて喉を通らなかったらしい。
そこでフェルナンは、台所へ寄り、賄いに回す予定だった梨を二つ持たせた。ところがそれも、少し固かったという。
次に出したのは、熟れの進んだ桃だった。売り物にはならない。今日中に食べなければ傷むものだ。
アエリアは、《《それは》》よく食べた。
「桃なら食べられるそうだよ」
フェルナンは明るく言った。
「よかったじゃないか。何も食べられないよりは」
「ええ」
パルマは答えた。
「よかったですね」
それ以上は言わなかった。
ただ、それから台所には、賄いに回す果物と市場に出す果物を、前より離して置くよう命じた。
*
アエリアは、屋敷へ来る時、必ず遠慮を口にした。
「本当に、売り物にならないもので結構ですの」
そして籠の中をのぞき、指先で果物を少し回す。
「これなど、もう傷みかけているのではありませんか」
彼女がそう言って選んだ桃は、決して傷みかけではない。皮の赤みが深くなり、香りが立ち、翌朝の市場へ出せば真っ先に買い手がつく上物の実だった。
パルマが別の小さい桃を出すと、アエリアは微笑んだ。
「まあ、こちらでよろしいのですか? 私、分からなくて」
分からないと言う声は、いつも柔らかい。
けれど、よいものへ伸びる手は柔らかくなかった。
*
半月が過ぎる頃、アエリアは家の椅子が合わないと言い出した。
「腰が痛むそうなんだ」
また、フェルナンだった。
パルマはその時、香油用の花の出荷数を確認していた。乾燥させる花は、咲いたらすべて同じように使えるわけではない。香りの強いもの、色の残るもの、薬草袋に向くもの。それぞれに分ける。
「空き家に置いてあった椅子は古いですからね」
「ああ。だから、屋敷で使っていない椅子を一つ譲れないかと思って」
「どの椅子ですか」
「東の物置にある、背もたれの高いものだよ。もう使っていないだろう」
パルマは顔を上げた。
「あれは診療所へ回す予定です。産後の女や、年寄りが座るのにちょうどいいので」
「でも今すぐではないだろう」
「今すぐではありません。けれど行き先はもう決まっています」
フェルナンは困ったように笑った。
「パルマは、何でも行き先を決めているんだな」
「決めておかないと、必要な時に足りなくなります」
フェルナンはそれには返事をせず、少しだけ声を落とした。
「アエリアさんは、あまり眠れていないようなんだ。椅子があれば、昼間だけでも休めるかもしれない」
「休むための椅子なら、別のものを出します」
パルマは倉番を呼び、客用ではないが丈夫な椅子を一脚出させた。背もたれは低く、飾りはない。だが座面は張り替えたばかりで、実用には充分だった。
それを見たアエリアは、丁寧に礼を言った。
「ありがとうございます。私のために、こんなによくしていただいて」
だが翌日、フェルナンがまた言った。
「やはり、背もたれが低いと疲れるそうだ」
パルマは、その時はじめて、夫を少し長く見た。
「……フェルナン」
「何だい」
「貴方は昨日、その椅子に座りましたか?」
「いや」
「では、アエリアさんだけがそう言ったのですね」
「ああ。彼女は遠慮していたけれど、ジョバンニが困っていて」
――困っている。
その言葉は、この春から何度も出てきた。
アエリアが困っている。ジョバンニが困っている。慣れない土地で困っている。実家のことを思い出して困っている。椅子が合わなくて困っている。果物が食べられなくて困っている。
確かに、困っている者を助けるのは、領主家の仕事だ。
だが、困っている者が、いつもよい果物の前に立ち、よい椅子の名を覚え、よい茶の香りにだけ顔を上げるのなら、それは少し別の話になる。
「診療所へ回す椅子は出しません」
パルマはきっぱりと言った。
「代わりに、座面へ敷く厚布を渡します。古い綿を詰め直せば使えます」
「それでは」
「それで足りないなら、ジョバンニさんの仕事代から少しずつ引いて、新しい椅子を買うことになります」
フェルナンは黙った。
*
その日の夕方、ジョバンニが屋敷へやって来た。
帽子を両手で持ち、玄関先で何度も頭を下げる彼の顔は疲れていた。春先に見た時より、目の下が少し暗い。
「……椅子のことは、もう結構です」
彼はそう言った。
「本当に、申し訳ありません。今ある椅子で何とかします。厚布をいただけるだけで、充分です」
パルマは、奥から厚布を持ってこさせた。
「仕事代から引きますか」
「はい」
ジョバンニは迷わず答えた。
「お願いします」
その時、アエリアは来なかった。その代わり、翌日、フェルナンが言った。
「アエリアさんが、ジョバンニに怒られたそうだ」
「そうですか」
「椅子のことで、恥をかいたと」
パルマは帳面に線を引いた。
「恥をかいたのは、ジョバンニさんでしょう?」
「パルマ」
フェルナンの声に、少しだけ咎める色が混じった。
「彼女は傷つきやすいんだ」
パルマは筆を置いた。
「では、傷つかない仕事を探しましょう」




