2 やってきた若夫婦
この春、セルデス夫妻は、エルデート子爵領の南端にある空き家へ入った。
古い果樹小屋を改めた家だった。
二部屋と小さな台所。裏には細い畑があり、井戸も近い。屋根は前年の秋に直してある。新しく住み着く夫婦へ貸すには、悪くない場所だった。
当初、その家を貸すと決めたのは、パルマだった。
そもそも、エルデート子爵家はパルマのものである。父の代から続く花と果物の領地を、彼女は婿を迎えて継いでいた。
夫のフェルナンは人当たりがよく、領民の訴えを聞いたり、怪我人の見舞いへ行ったり、冬前に薪の足りない家を見て回ったりするのに向いていた。
一方、土地と収益、倉の中身、市場へ出す果物の数、保存食の割り振り、職人や季節働きへの支払いは、すべてパルマが見ていた。
花は摘めば終わりではない。乾かす分、香油に回す分、薬草袋に入れる分がある。
果物も同じだ。市場へ出す上物、果実酒にするもの、干すもの、ジャムに煮るもの、賄いへ回す傷物。それぞれに行き先がある。
余って見えるものほど、すでに誰かの手と口へつながっていた。
だから、新しく住み着く者へ何を貸し、何を渡し、どの仕事へ入れるかは、パルマが決める。
*
最初にセルデス夫妻を見つけたのは、フェルナンだった。
「若い夫婦だよ。セルデスというらしい」
夕食の席で、フェルナンはそう言った。
その日は、早生のプラムを煮たものが食後に出ていた。
カティは匙で皿の底をつつき、ロンは乳母の腕の中で眠りかけていた。パルマは翌朝の市場へ回す葡萄の数を頭の中で数えながら、夫の話を聞いた。
「夫の方は、ジョバンニ・セルデス。手紙は書けるし、計算も少しできる。果樹の扱いは覚えたいそうだ。妻の方は…… アエリアさんといったかなぁ」
フェルナンは、その名を少し柔らかく言った。
「実家で、あまりよい扱いを受けなかったそうだ」
「扱い? どういう?」
パルマは匙を置いた。
「細かいことまでは聞いていないんだが、どうも、家の者にずいぶん厳しくされたらしい。下働きのようなこともさせられ、何をしても叱られたと」
「それで、この領へ?」
「ああ。ジョバンニが連れ出したそうだ」
フェルナンは、少し誇らしげだった。
「なかなか勇気のある男じゃないか。家から逃げてきた妻を守るために、知らない土地へ来たんだ」
パルマは夫に、すぐには返事をしなかった。
家から逃げてきた若い妻。守ろうとする若い夫。話としては分かりやすい。だが分かりやすい話ほど、聞く時には少し手を止めた方がいい。
「ジョバンニさんには、果樹園の下仕事を回しましょう。住み始めたばかりなら、まず日銭が要ります。読み書きができるなら、収穫量の写しも手伝わせられます」
「助かるよ」
「アエリアさんには……」
「しばらく休ませてやりたいな。慣れない土地で、疲れているだろうし」
「しばらく、なら」
パルマはそう答えた。
エルデート領には、外から人が来る。果樹の季節には人手が要るし、花の乾燥小屋にも手が要る。長く住み着く者もいれば、ひと夏だけ働いて去る者もいる。新しく来た者へ、最初の麦や薪を貸すことは珍しくない。
ただし、貸したものは帳面に載る。返せる者には返してもらう。返せない者には、別の仕事を回す。それで領地は回っていた。
*
翌日、パルマはセルデス夫妻に会った。
ジョバンニは、よく日に焼けた若い男だった。緊張しているのか、帽子を何度も持ち替える。背は高く、手も大きい。けれどその手は、畑仕事に慣れた者の手ではなかった。
アエリアは、その半歩後ろに立っていた。
薄い色の服を着て、肩に小さなショールをかけている。春の午後で、屋敷の玄関先は暖かかったが、彼女は指先を胸の前で重ねていた。目を伏せると、長い睫毛の影が頬に落ちる。
「このたびは、ご厚情をいただきまして……」
アエリアはそう言って、深く頭を下げる。声は細い。けれど、言葉はきちんとしたものだった。
「顔を上げてください。エルデート領では、働く気のある人なら歓迎いたします」
パルマが言うと、ジョバンニが先に顔を上げた。
「働きます。何でもします。アエリアは、少し…… その、疲れていて」
「無理のないところからで構いません。家の中の仕事もあります。果物を包む紙を折る、傷みのあるものを分ける、乾燥花の茎を揃える。座ってできる仕事も多いですから」
その時、アエリアの指がショールの端を握った。ほんの少し。
「……私、果物のことはよく分かりませんの」
「分からなくてもこちらで教えますので、覚えられます」
パルマは答えた。
「この領では、誰でも最初はそうです」
アエリアは微笑んだ。礼儀正しい、だが困ったような微笑みだった。
「はい。落ち着きましたら、きっと」
その「落ち着きましたら」が、最初の一つだった。
その時のパルマは、まだそれを流した。新しく土地へ来たばかりの女が、不安を口にすることはある。夫に連れられて、実家から離れて、知る人もない場所へ来たなら、数日くらい泣くこともあるだろう。
だから最初に渡したのは、麦袋を一つ。豆を少し。薪を三日分。古いが壊れていない鍋。粗い布を二枚。
それから、傷のあるプラムを小籠に半分。
「売り物にならないものです。今日中に煮るといいでしょう」
パルマがそう言うと、アエリアは小籠を覗き込んだ。
そして、隣に置いてあった市場用の箱へ、ちらりと目を移した。ほんの一瞬だった。
けれどその目は、売り物のプラムがどれかを間違えていなかった。
パルマは覚えている。
その時、アエリアは「分かりません」と言ったばかりだった。




