1 もう、うんざりです
「もう、うんざりです」
パルマは、桃の箱の前で言った。
朝摘みの桃は、薄い藁の上に一つずつ並べられて、箱を開けただけで、甘い香りが倉の中へ広がる。明日の朝には、ちょうどよく熟れて市場へ出せる。
その箱の前に、アエリア・セルデスが立っていた。
腕にかけた籠には、すでに桃が三つ入っている。どれも大きく、色づきがよく、傷もない。
「パルマ」
フェルナンが困ったように眉を寄せた。
「桃ひとつふたつのことで、そんな言い方をしなくても」
「桃ひとつふたつではありません」
パルマは箱の端に差してあった木札を立て直した。
――祭り用。
娘のカティはまだ読めないその札を、昨日から何度も指でなぞっていた。祭りの日に、弟のロンと一緒に食べるのだと乳母に話していた桃だ。
「それ、カティの桃」
小さな声がした。
振り向くと、四歳のカティは乳母のスカートを握って立っていた。乳母の腕には、二歳のロンベルトが抱かれている。ロンは桃の匂いに気づいたのか、まだ眠そうな顔のまま手を伸ばした。
アエリアの籠が、ほんの少し後ろへ下がる。
ち、と小さな音がした。
ロンの手が止まった。乳母の肩へ顔を押しつける。カティは目を丸くして、それからアエリアを見た。
「今、アエリアさん、舌を鳴らした」
「カティ」
フェルナンの声が強くなった。
「そんなことを言ってはいけないよ。アエリアさんは今、とてもつらいんだ。旦那さんに置いていかれて、食事もあまり喉を通らないそうじゃないか」
アエリアは籠を胸の前で抱えた。
「いいのです、フェルナン様。私が悪いのですわ。お嬢様の大事な桃とも知らずに……」
そう言いつつも、決して籠から桃を戻そうとはしない。
パルマは、その手を見ていた。何もできないと訴えるには似合いの、白く細い指だった。
けれど桃を選ぶ時だけは迷っていない。
香りの立ち方、色づき、実の張り。明日の市場で一番よい値がつくものを、アエリアは外さなかった。
「戻してください」
「え?」
「その桃は、領地の子供たちに配る分です。あなたへのお見舞いではありません」
フェルナンが息を吸った。
「パルマ、夫に捨てられた人に、桃くらい譲れないのか」
その言葉で、パルマは夫を改めて見る。
五年暮らした男だ。人当たりはよい。領民の話を聞くのも嫌がらない。畑で転んだ老人を家まで送ったこともあるし、冬前に薪の足りない家を見つけて、手配したこともある。
だからこそ、任せていた。
この領地の数字はパルマが見る。土地、収益、市場への出荷、保存食の割り振り、倉の中身。フェルナンには、住民の暮らしを見る役目を渡していた。困った者がいれば話を聞き、必要なものがあれば屋敷へ伝える。
それで、うまく回っていると思っていた。
だが。
「譲るものを決めるのは、あなたではありません」
「けど、アエリアさんは」
「フェルナン」
パルマは、夫の言葉を途中で切った。
カティが乳母のスカートを握る手に、少し力を入れる。ロンはもう桃を見ていなかった。
「その桃は、カティが楽しみにしていたものです。ロンも食べます。領地の子供たちにも配ります。市場に出せば、冬の薪代にもなります」
「……また用意すればいいだろう」
フェルナンは不服そうにそう言う。
パルマは木箱の縁に置いていた手を離す。桃の香りが甘い。よく熟れた、今年一番の桃だった。
木の世話をした者がいる。朝早く摘んだ者がいる。傷まないよう藁を替えた者がいる。市場へ持っていく順番を決めた者がいる。
それを夫は、また、と言った。
「もう、本当に、うんざりなんです」
もう一度、パルマは言い、今度は、フェルナンだけを見る。
「アエリアさんが夫のジョバンニさんに置いていかれたのは、一月前のことでしたね」
フェルナンの顔がわずかにこわばった。
「今、それを」
「いいえ。今だからこそ、その話をします」
パルマはアエリアの籠を指した。
「その桃を戻してください。それから、あなたがこの屋敷で何を受け取り、何を返さなかったのか、順に確認しましょう」
アエリアの唇が震えた。
「私、そんなつもりでは……」
「あなたのつもりは、あとで伺います」
桃の箱を閉じるように、パルマは木札を箱の内側へ置いた。
一月前、ジョバンニ・セルデスが消えた。
さらに遡れば、一年前の春、セルデス夫妻はエルデート領へやって来た。
あの時フェルナンは、良い夫婦が来たと言った。
訳ありらしいが、静かに暮らしたいのだろう。若い二人が土地に根づいてくれるなら、それは領地にとっても悪いことではない、と。
パルマも、その時はそう思った。
そして少なくとも、桃の箱の前で夫を見限る日が来るとは思っていなかった。




