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夫に捨てられた可哀想な奥様に、娘の桃まで譲るつもりはありません  作者: さんけい


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10/17

10 お祭りの桃

 祭りの前日、桃の箱が倉へ入った。


 朝のうちに摘んだものだった。まだ日が高くなる前、果樹園の者たちが一つずつ手で受け、薄い紙に包み、藁を敷いた箱へ並べたものだ。

 今年の桃はよかった。

 箱を開けると、倉の中の空気が変わる。甘いだけではない。皮のうぶ毛に残る青い匂いと、熟れはじめた果肉の香りが混じる。近づきすぎると、口の中にもう汁が広がるようだった。

 パルマは箱の数を確認する。

 市場へ出す上物。祭りで領地の子供たちへ配る分。屋敷の食卓へ回す分。

 傷のある中で、今日中に煮た方が良い分。

 それぞれに、木札を一つずつ差す。


 ――祭り用。


 その札を、カティは朝から何度も見に来ていた。


「カティ、まだ食べられない?」

「明日ですよ」


 乳母が言うと、カティは唇を尖らせる。


「明日、ロンと半分こ?」

「ロン様の分もありますよ」

「じゃあ、カティは丸いの。ロンはちいさいの」

「お嬢様」


 乳母がたしなめると、カティは慌てて言い直した。


「ロンも丸いの」


 ロンベルトは、乳母の腕の中で桃の箱を見ていた。

 まだ二歳のロンには、祭りも木札も分からない。ただ、甘い匂いがすることだけは分かるらしい。小さな手を伸ばして、藁の端をつまもうとする。


「明日よ」


 パルマが言うと、ロンは手を引っ込めた。


「もも」

「そう。明日、桃を食べましょう」


 カティは、うん、と大きく頷く。その顔を見るだけで、パルマは少しだけ肩の力が抜ける。

 桃は食べ物だ。そして売り物でもある。領地の収入でもある。

 だが、四歳の子供にとっては、楽しい明日を待つ理由だ。それを守ることも、家の仕事の一つだった。


 *


 昼前、フェルナンが倉へ来たが、ひとりではなかった。

 アエリアが、少し後ろに立っていた。薄い夏のショールを肩にかけ、両手には小さな籠を持っている。

 パルマは木札を差す手を止めた。


「何か御用ですか」


 フェルナンが先に口を開く。


「アエリアさんが、少しなら桃が食べられそうだと言うんだ」

「そうですか」

「昨日からあまり食べていないらしい」


 パルマが顔を上げると、アエリアは目を伏せる。


「申し訳ございません、奥様。私、そんな、立派なものをいただこうなどとは思っておりませんの。売り物にならないもので結構です。ただ、甘い香りがすれば、少し喉を通るかもしれないと……」


 ――売り物にならないもの。


 その言葉を言いながら、アエリアの目は箱の上を流れていた。

 傷物の箱は、倉の奥に置いてある。台所へ回すものだ。皮に小さな傷があったり、片側だけ柔らかくなりすぎていたりする。生で食べられるものは切り分けて家族や使用人皆で食べるし、無理そうなら早めに鍋で煮てしまう。

 だがアエリアの視線は、そこへは決して行かない。市場用の箱を、それから、祭り用の箱を見る。

 香りが強いのは、祭り用の方だった。

 子供たちへ配るため、食べ頃のものを選んである。市場で長く持たせる必要がないから、明日いちばん甘いものを入れた。


「傷物なら、台所にあります」


 パルマが言うと、フェルナンがすぐに首を振った。


「傷んだものでは、腹を壊すかもしれないだろう」

「煮れば問題ありません」

「でも、彼女はそのまま少し食べたいんだ」

「では、屋敷の食卓用から一つ出しましょう」


 パルマは、倉番に合図した。倉番は頷き、別の箱を開けようとする。

 その時、アエリアが一歩、祭り用の箱へ近づいた。


「まあ、こちらはよい香りですのね」


 指先が、箱の縁に触れるが、フェルナンは止めない。


「それは祭り用です!」


 パルマが言うと、アエリアは指を引っ込めた。


「ごめんなさい。私、知らなくて」


 ――知らなくて。


 まただ。パルマは何も言っていない。

 倉番が屋敷用の桃を一つ取り出す。大きさは中くらい。傷はない。今日の食卓に出すには充分なものだった。

 それをアエリアの籠へ入れようとした時、廊下から小さな足音がした。


「お母様、桃見るだけ!」


 カティだった。

 乳母が追ってくる。腕にはロンがいる。止めたのだろうが、祭り用の桃が届いたと知って、カティはじっとしていられなかったらしい。

 カティは倉へ入るなり、アエリアの籠を見た。


「それ、カティの桃?」

「違います」


 パルマが答える前に、アエリアが微笑んだ。


「まあ。カティちゃんは、桃が大好きなのね」

「ちゃんじゃないよ」


 カティは少しむっとした顔をした。


「カティよ」

「ごめんなさい、カティ」


 アエリアは柔らかく言って、籠を胸の前に抱えた。ロンが乳母の腕から身を乗り出す。


「もも」


 小さな手が、籠の方へ伸びた。アエリアの籠が、半歩下がる。

 チッ、と再び舌打ちの音が――倉の中で、その音は思ったよりはっきり響いた。

 ロンの手が止まり、乳母の肩へ顔を押しつける。

 カティが目を丸くした。


「今、アエリアさん、舌を鳴らした」

「カティ」


 フェルナンの声が強くなった。


「そんなことを言ってはいけない」

「でも、鳴らしたよ」

「聞き間違いだ。アエリアさんは今、とてもつらいんだ。旦那さんに置いていかれて、食べるものもろくに」

「フェルナン」


 パルマは夫の名を呼ぶ。フェルナンは、まだカティを見ていた。


「謝りなさい」


 カティの顔から、色が引く。乳母が息をのむ。

 パルマは、箱の縁に置いていた手を離した。


「誰にですか」

「アエリアさんにだ。ひどいことを言った」

「カティは、聞いたことを言いました」

「子供の《《聞き間違い》》で、人を傷つけていいわけではない」


 フェルナンは本気だった。本気で、四歳の娘に謝らせようとしていた。

 籠を抱えたまま、アエリアは目を潤ませる。


「いいのです、フェルナン様。私が悪いのですわ。お子様たちの楽しみにまで、手を伸ばしてしまって……」


 ――手を伸ばしてしまって。


 だが伸ばした手を戻す気はない。謝る形だけ整えて、籠は抱えたまま。


「アエリアさん」


 パルマは言った。


「その桃を戻してください」

「え……?」

「戻してください」


 倉番が動いた。アエリアの前に立つ。アエリアは一瞬、フェルナンを見た。


「パルマ、桃ひとつで」

「戻してください」


 パルマは夫を見ずに言った。


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