10 お祭りの桃
祭りの前日、桃の箱が倉へ入った。
朝のうちに摘んだものだった。まだ日が高くなる前、果樹園の者たちが一つずつ手で受け、薄い紙に包み、藁を敷いた箱へ並べたものだ。
今年の桃はよかった。
箱を開けると、倉の中の空気が変わる。甘いだけではない。皮のうぶ毛に残る青い匂いと、熟れはじめた果肉の香りが混じる。近づきすぎると、口の中にもう汁が広がるようだった。
パルマは箱の数を確認する。
市場へ出す上物。祭りで領地の子供たちへ配る分。屋敷の食卓へ回す分。
傷のある中で、今日中に煮た方が良い分。
それぞれに、木札を一つずつ差す。
――祭り用。
その札を、カティは朝から何度も見に来ていた。
「カティ、まだ食べられない?」
「明日ですよ」
乳母が言うと、カティは唇を尖らせる。
「明日、ロンと半分こ?」
「ロン様の分もありますよ」
「じゃあ、カティは丸いの。ロンはちいさいの」
「お嬢様」
乳母がたしなめると、カティは慌てて言い直した。
「ロンも丸いの」
ロンベルトは、乳母の腕の中で桃の箱を見ていた。
まだ二歳のロンには、祭りも木札も分からない。ただ、甘い匂いがすることだけは分かるらしい。小さな手を伸ばして、藁の端をつまもうとする。
「明日よ」
パルマが言うと、ロンは手を引っ込めた。
「もも」
「そう。明日、桃を食べましょう」
カティは、うん、と大きく頷く。その顔を見るだけで、パルマは少しだけ肩の力が抜ける。
桃は食べ物だ。そして売り物でもある。領地の収入でもある。
だが、四歳の子供にとっては、楽しい明日を待つ理由だ。それを守ることも、家の仕事の一つだった。
*
昼前、フェルナンが倉へ来たが、ひとりではなかった。
アエリアが、少し後ろに立っていた。薄い夏のショールを肩にかけ、両手には小さな籠を持っている。
パルマは木札を差す手を止めた。
「何か御用ですか」
フェルナンが先に口を開く。
「アエリアさんが、少しなら桃が食べられそうだと言うんだ」
「そうですか」
「昨日からあまり食べていないらしい」
パルマが顔を上げると、アエリアは目を伏せる。
「申し訳ございません、奥様。私、そんな、立派なものをいただこうなどとは思っておりませんの。売り物にならないもので結構です。ただ、甘い香りがすれば、少し喉を通るかもしれないと……」
――売り物にならないもの。
その言葉を言いながら、アエリアの目は箱の上を流れていた。
傷物の箱は、倉の奥に置いてある。台所へ回すものだ。皮に小さな傷があったり、片側だけ柔らかくなりすぎていたりする。生で食べられるものは切り分けて家族や使用人皆で食べるし、無理そうなら早めに鍋で煮てしまう。
だがアエリアの視線は、そこへは決して行かない。市場用の箱を、それから、祭り用の箱を見る。
香りが強いのは、祭り用の方だった。
子供たちへ配るため、食べ頃のものを選んである。市場で長く持たせる必要がないから、明日いちばん甘いものを入れた。
「傷物なら、台所にあります」
パルマが言うと、フェルナンがすぐに首を振った。
「傷んだものでは、腹を壊すかもしれないだろう」
「煮れば問題ありません」
「でも、彼女はそのまま少し食べたいんだ」
「では、屋敷の食卓用から一つ出しましょう」
パルマは、倉番に合図した。倉番は頷き、別の箱を開けようとする。
その時、アエリアが一歩、祭り用の箱へ近づいた。
「まあ、こちらはよい香りですのね」
指先が、箱の縁に触れるが、フェルナンは止めない。
「それは祭り用です!」
パルマが言うと、アエリアは指を引っ込めた。
「ごめんなさい。私、知らなくて」
――知らなくて。
まただ。パルマは何も言っていない。
倉番が屋敷用の桃を一つ取り出す。大きさは中くらい。傷はない。今日の食卓に出すには充分なものだった。
それをアエリアの籠へ入れようとした時、廊下から小さな足音がした。
「お母様、桃見るだけ!」
カティだった。
乳母が追ってくる。腕にはロンがいる。止めたのだろうが、祭り用の桃が届いたと知って、カティはじっとしていられなかったらしい。
カティは倉へ入るなり、アエリアの籠を見た。
「それ、カティの桃?」
「違います」
パルマが答える前に、アエリアが微笑んだ。
「まあ。カティちゃんは、桃が大好きなのね」
「ちゃんじゃないよ」
カティは少しむっとした顔をした。
「カティよ」
「ごめんなさい、カティ」
アエリアは柔らかく言って、籠を胸の前に抱えた。ロンが乳母の腕から身を乗り出す。
「もも」
小さな手が、籠の方へ伸びた。アエリアの籠が、半歩下がる。
チッ、と再び舌打ちの音が――倉の中で、その音は思ったよりはっきり響いた。
ロンの手が止まり、乳母の肩へ顔を押しつける。
カティが目を丸くした。
「今、アエリアさん、舌を鳴らした」
「カティ」
フェルナンの声が強くなった。
「そんなことを言ってはいけない」
「でも、鳴らしたよ」
「聞き間違いだ。アエリアさんは今、とてもつらいんだ。旦那さんに置いていかれて、食べるものもろくに」
「フェルナン」
パルマは夫の名を呼ぶ。フェルナンは、まだカティを見ていた。
「謝りなさい」
カティの顔から、色が引く。乳母が息をのむ。
パルマは、箱の縁に置いていた手を離した。
「誰にですか」
「アエリアさんにだ。ひどいことを言った」
「カティは、聞いたことを言いました」
「子供の《《聞き間違い》》で、人を傷つけていいわけではない」
フェルナンは本気だった。本気で、四歳の娘に謝らせようとしていた。
籠を抱えたまま、アエリアは目を潤ませる。
「いいのです、フェルナン様。私が悪いのですわ。お子様たちの楽しみにまで、手を伸ばしてしまって……」
――手を伸ばしてしまって。
だが伸ばした手を戻す気はない。謝る形だけ整えて、籠は抱えたまま。
「アエリアさん」
パルマは言った。
「その桃を戻してください」
「え……?」
「戻してください」
倉番が動いた。アエリアの前に立つ。アエリアは一瞬、フェルナンを見た。
「パルマ、桃ひとつで」
「戻してください」
パルマは夫を見ずに言った。




