17 次の収穫
離縁は、秋の初めに成立した。夏祭りから、既にひと月半ほど経った頃だった。
フェルナンは実家へ戻ったまま、エルデート領へ来ることはなかった。
離縁状には彼の署名と、実家の兄の署名が添えられていた。子供たちとの面会については、当面、パルマの許可と乳母の同席を条件とする、と決められた。
カティはにその話をしたが、ふうん、という顔のまま、問いかけてきた。
「お父様、遠く?」
「ええ。お父様のご実家にいます」
「ごはんの時、来ない?」
「来ません」
「ほんと?」
「本当です」
カティは少し考えてから、ロンベルトの皿へ葡萄を一粒置いた。
「じゃあ、ロン、食べていいよ」
ロンはそれをつまみ、薄い皮を歯で破った。甘い果汁が口に広がったのか、目を丸くして、もう一粒と手を伸ばす。
カティは笑った。
その笑い声が食堂に戻ってきた時、パルマはようやく、ひとつ息をついた。
屋敷は静かになった。けれど、暗くはなかった。
倉の鍵は元の数に戻り、台所の出入りはしばらく記録が続けられた。
領民の家から持ち出された梨や薪や蜂蜜漬けについては、ラグラス家から弁済が届いた。フェルナンの実家からも、彼が促した分について別に謝罪と金が送られてきた。
*
女たちは、最初のうちこそ怒っていた。
「うちの梨、ほんとに腹が立ちましたよ」
「蜂蜜漬けなんて、嫁が産後に食べる分だったんですから」
「花くらい、ですって。花を干す手間を知らないから、そんなことが言えるんですよ」
台所や乾燥小屋でそう言い合っていたが、金が戻り、パルマが一軒ずつ詫びと説明を入れると、怒りは少しずつ畑や市場の忙しさに溶けていった。
よい季節は、人を待たない。桃の次は、葡萄が来る。
その葡萄が本格的に色づき始めた頃、リクローデから厚い手紙が届いた。
差出人は、ラグラス家のメリーナだった。
封を切ると、桃の花を押した小さな紙片が一枚、挟まれていた。香りはほとんど残っていない。ただ、薄く乾いた花びらの形だけが、丁寧に残されている。
パルマは窓辺の机で、手紙を広げた。
***
エルデート子爵夫人パルマ様
先日は、娘アエリアの件で大変なご迷惑をおかけいたしました。
改めて、ラグラス家より深くお詫び申し上げます。
お約束した弁済金は、第一便としてお送りいたしました。
残りについては、ジョバンニの借り分、娘が口にした品、持ち出した花や食料、領民の方々から流れたものを、そちらの帳面と照らし合わせて、順にお納めいたします。
娘は、戻ってから三日、ほとんど泣き通しました。
「私は客ではなかった」
「あの屋敷では使用人の隣に置かれた」
「桃ひとつで恥をかかされた」
「フェルナン様は何もしてくれなかった」
と、繰り返し申しておりました。
四日目に、兄のルシアンが、では客でない者として家の仕事を始めなさい、と言いました。
その朝は桃の箱の藁を替えさせました。
上物の箱ではありません。家で食べる分と、傷のあるものを分ける箱です。
娘は最初、手袋がない、腰が痛い、藁の匂いで気分が悪い、指が荒れる、と申しましたが、叔父のバルトが、荒れるほど働いてから言え、と返しました。
昼には、使用人たちと同じ台所の皿で食べさせました。小さい桃と、麦のパンと、豆の煮たものです。
娘は、小さい桃を見て、なぜこちらなのかと申しました。兄が、上物は市場へ行くからだ、と答えました。
娘は泣きました。しかし、その皿の桃は全部食べました。
五日目には、傷物の桃の傷んだところを落とす仕事をさせました。
娘は、果物のことなど分からない、と言いかけました。そこでジョバンニが、思わず笑いました。笑ったと言っても、すぐ青くなって謝っておりましたが。
娘はそれを見て怒り、包丁を置きましたので、その日は叔父が横に座りました。
六日目には、若い奉公人に向かって、あなたは私を可哀想だと思わないの、と言いました。
奉公人は、奥様に言われておりますので、とだけ答えました。
娘はその子を睨みましたが、相手の手応えがなかったため、すぐ母である私のところへ来て泣きました。
私は、泣くなら手を洗ってからにしなさい、と言いました。桃の汁で袖が汚れていたからです。
七日目には、朝食に白いパンを要求しました。ですが家族用の白パンは出しませんでした。
代わりに、昨日の麦パンを薄く切って焼いたものを出しました。娘は固いと言いました。父が、よく噛めばよい、と答えました。
十日目、娘は裏口から出ようとしました。行き先は、たぶん町の菓子屋です。叔父が見張っておりましたので、門の前で捕まりました。その時も、私を閉じ込めるのね、と叫びました。
叔父は、閉じ込めるのではない、仕事の途中で抜けた者を戻しているだけだ、と答えました。
ジョバンニについても、ご報告いたします。
彼は今、男衆と同じ宿舎で寝起きし、朝から果樹園に出ております。娘とは食事の席でも離しております。娘の声が大きくなると顔色を悪くしますが、以前よりは眠れているようです。
彼は、エルデートの奥様へ謝罪の手紙を書きたい、と申しております。ただ、まだ自分の言葉を整えられないようですので、急がせておりません。
娘は、ジョバンニを見ると、裏切り者、役立たず、と言います。そのたびに兄が、役立たずにしたのは誰か、と返します。すると娘は、うるさい、と叫びます。まだ、この繰り返しです。
ただし、昨日、娘は初めて、箱の札を最後まで読みました。市場用、家用、賄い用、加工用。その四つを、間違えずに読みました。
読めるなら、次は分けなさい、と父が言いました。娘は泣きました。けれど、その後で、三つだけですが桃を分けました。
ひとつは間違えました。上物を家用へ入れようとしたためです。叔父が見ていましたので、戻しました。
進みは遅いです。
ですが、泣いても桃の箱は動かず、叫んでも札は変わらず、誰も代わりに選ばない、ということを、ようやく娘は少しずつ知り始めております。
エルデートの小さなお嬢様が、「これはカティの桃だから、あげない」とおっしゃったと聞きました。
その言葉は、娘にも伝えました。娘は怒りました。
しかし、私どもは忘れません。あの場で守られるべきだったのは、可哀想と名乗った娘ではなく、桃を楽しみにしていた子供たちでした。
改めて、お詫び申し上げます。
そして、娘を客として扱わず、領地に住む一人の人間として扱ってくださったことに、感謝いたします。
リクローデ男爵領 ラグラス家
メリーナ・ラグラス
***
パルマは手紙を読み終え、しばらく机の上に置いておいた。
細かい手紙だった。だが細かいから、信じられた。
物語にしたい時ほど大きな言葉を使う。虐げられた、壊された、捨てられた。そういう言葉は強い。聞く者を急がせる。
けれど、実際の暮らしは、もっと小さい。
どの箱へ入れ、どの皿へ載せ、誰が食べるか、誰が払うか、誰が片づけるか。
その小さいものを戻していくことが、家を立て直すことだった。
「お母様」
廊下からカティが顔をのぞかせた。
「リクローデから?」
「ええ」
「アエリアさん、まだ怒ってる?」
「怒っているようです」
「桃、とらない?」
「今は、とれないように見張られています」
カティは真剣に頷いた。
「見張るの大事」
「そうね」
ロンが後ろからよちよちと来て、カティのスカートを握った。
「ぶど」
「葡萄ね」
パルマが皿を指すと、カティは得意そうにロンへ一粒渡した。
「これはロンの」
「カティの分は?」
「あるよ」
そう言って、カティは自分の皿を両手で持った。
以前より少し、皿を大事に持つようになった。
誰かに取られるからではない。自分のものを、自分のものとして扱ってよいと知ったからだ。
*
その日の午後、葡萄の収穫が始まった。
果樹園には、薄い紙袋を外す音があちこちで響いていた。日に透ける葡萄は、黒に近い紫や、青みの残る緑をしている。粒をそっと持ち上げると、皮の張りで熟れ具合が分かる。
パルマは、最初の房を手に取った。
粒はそろいすぎてはいない。けれど、軸が青く、香りはよい。市場へ出すには十分だった。
「今年も始まりましたね」
台所頭が隣で言った。
「ええ」
パルマは頷いた。
「箱を分けましょう。市場用、屋敷用、子供たちの分、賄い。小さいものは干し葡萄へ」
「はい、奥様」
遠くで、カティの笑い声がした。
ロンが葡萄の房を見て、手を伸ばしている。乳母が慌てて止め、カティが「まだよ」と姉らしい顔で言っている。
パルマは、その声を聞きながら木札を取った。
新しい収穫には、新しい札が要る。
行き先を決め、守るものを守る。
必要なものを、必要な場所へ渡す。
花と果物の領地は、そうやって次の季節へ進んでいく。
パルマは葡萄の箱へ、最初の札を差した。
END




