16 出て行く者
「母上……!」
「実家へ戻りなさい。パルマ様の家に、今のあなたを置いていただくわけにはいきません」
「でも、僕は」
「まだ夫のつもりでいるのですか!」
その言葉に、フェルナンは黙った。フェルナンの兄が、引き取るように言う。
「離縁の手続きに入る。それはこちらで預かる。お前が勝手に戻らないよう、俺が見る」
「兄上、そんな……」
「お前はそこまでのことをしたんだ」
兄の声は地を這うように低い。
「お前は女にうつつを抜かしただけではないんだ。家の物を流し、領民の家も巻き込んだ。それに子供を傷つけた。これで、まだ自分が屋敷に残れると思っているなら、昨日までのことの意味が何も分かっていない」
フェルナンは、両手で顔を覆う。その仕草に、パルマは少し前なら胸を痛めたかもしれない。
だが今の彼女は泣く彼を見て、何かを差し出す人間でいる余裕はない。
「子供たちには……」
フェルナンが、手の中から声を出した。
「カティとロンには、会わせてもらえるだろうか?」
応接室の扉の向こうで、遠くカティの声がする。乳母に何か読んでもらっているのだろう。昨日より少し明るい声だった。
「当面は認めません」
フェルナンが顔を上げた。
「パルマ」
「カティは昨日、あなたに嘘つきという意味のことを言われました。ロンは、アエリアさんを見ると乳母に隠れました。あなたはその二人の前で、何をどう謝るのか、まだ分かっていません」
「……分かっている!」
「いいえ」
パルマは首を振った。
「今のあなたは、謝って自分自身が許されたいだけです」
フェルナンは言葉を失った。
「子供たちに会う話は、離婚の手続きが進み、あなたが実家で落ち着いてからです。乳母と私が同席し、短い時間から始めるかどうかを決めます」
「僕は、父親なのに……」
フェルナンの呟きは、ほとんど子供のようだった。
「昨日、父親でいなかったからです」
パルマの言葉に、フェルナンの母が、目を閉じた。
兄嫁がそっと彼女の背に手を添える。フェルナンの兄は、もう弟を見ていなかった。卓の上の鍵の束を見ていた。
鍵は、返された。しかし返されたからといって、開けてしまったものが元に戻るわけではない。
「荷物は、今日中にまとめさせます」
パルマは続けた。
「私物だけです。書類、帳面、印章、領地に関わるものは持ち出せません。あなたの衣服、本、身の回りの物は、兄上に確認していただきます」
フェルナンの兄が頷いた。
「こちらで見る」
「フェルナンがアエリアさんへ渡した本や品で、戻っていないものも一覧にします」
「弁済する」
兄が即座に言った。フェルナンが顔を上げる。
「兄上、そこまで」
「黙っていろ」
また同じ声だった。フェルナンは黙った。パルマの叔父が腕を組んだまま言う。
「離縁状は、こちらで用意する。フェルナン殿の実家からも承認をいただく形でよろしいか」
フェルナンの母が頷いた。
「異存はございません。こちらの不始末です」
「不始末は、フェルナン殿個人のものです」
パルマの母が言った。
「家同士で必要な手続きはしますが、母君がすべて背負うことではありません」
その言葉に、フェルナンの母は初めて小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
フェルナンは、椅子に座ったまま動かなかった。
自分を置いて話が進むことに、まだ慣れていないかのようだ。
これまで彼は、誰かの困りごとの中心へ入っていけた。聞き役になり、慰め、少し物を渡し、よい人でいられた。
だが今は、話し合いの中心にいるのに、何も決められない。決める資格を失ったからだ。
*
話が終わる頃、廊下で小さな足音がした。
カティだった。乳母が止めている。けれど、扉の隙間からこちらをのぞいていた。
パルマは立ち上がり、扉の方へ行った。
「カティ」
「おとうさま、帰るの?」
フェルナンが椅子から立ちかけたが、パルマは手で制した。
「ええ。しばらく、お父様のご実家へ帰ります」
カティは少し考えた。
「今日の夜ごはん、いる?」
フェルナンの顔が歪んだ。答えようとして、声が出ない。パルマは娘の髪に触れた。
「今日は、いません」
「ほんと?」
「本当です」
カティは頷いた。安心したのか、寂しいのか、まだ自分でも分からない顔だった。
「じゃあ、ロンと食べる」
「そうしましょう」
カティは、少しだけ父を見たが、走り寄ることはせず、乳母の手を握り、奥へ戻っていく。
フェルナンは立ったまま、その背中を見送った。
先日、同じ背中を見送った時、彼は南端の家へ行った。だがもう今日は、どこへも行けない。
*
昼過ぎ、フェルナンの荷はまとめられた。
衣服が数着。私物の本。小物箱。筆記具。旅用の外套。パルマから贈られた袖留めは、彼が箱へ入れようとして、止められた。
「それは」
兄嫁が静かに言った。
「置いていきなさい」
フェルナンは袖留めを見た。結婚して最初の冬に、パルマが贈ったものだった。派手ではないが、細工はよい。領地の花を小さく彫ってある。
「これは、僕の」
「今は、持っていかない方がいい」
兄嫁の声は柔らかかったが、フェルナンは逆らえず、袖留めは、机の上に戻された。
夕方、馬車が屋敷の前に用意された。
フェルナンの母と兄夫婦も同じ馬車に乗る。母は、パルマの手を取った。
「パルマ様」
「はい」
「孫たちのこと、よろしくお願いいたします」
「もちろんです」
「フェルナンのことは、こちらで預かります。二度と勝手にこちらへ来させません」
パルマは頷いた。
「お願いします」
フェルナンは馬車の前で、最後にもう一度屋敷を見た。
五年暮らした家だった。けれど、それは彼の家ではなかった。
彼は、婿としてここにいた。支える者として迎えられた。
その役目を、別の女の涙に差し出してしまった。
「パルマ」
名を呼ばれて、パルマは彼を見た。
「僕は、本当に…… そんなつもりじゃなかった」
パルマは、少しだけ目を伏せた。その言葉も、何度目か分からない。
「そうですね」
パルマは答えた。
「けれど、そんなつもりではないことに、大事なカティとロンを差し出すわけにはいきません」
フェルナンは、何も言えなかった。
馬車の扉が閉まり、車輪が動き出す。
パルマは、それを玄関前で見送った。母と叔父が少し離れて立っている。使用人たちも、出すぎない距離で見ていた。
馬車が門を出ると、屋敷の中が妙に広くなった。
静かだった。けれど、空ではない。
奥の部屋では、カティとロンが夕食を待っている。台所では、夕食用のパンが切られ、冷たい水に浸した桃が別皿へ移されていた。
昨日の指跡のついた桃は、傷の部分を薄く落とされ、台所の者たちの皿に載っている。
パルマは振り返った。
「夕食の支度を」
台所頭が頭を下げる。
「はい、奥様」
「カティとロンには、桃を少し。昨日のものではなく、別のものを」
「かしこまりました」
傷のついたものは、傷のつかないものと同じ皿には載せない。
けれど、傷んだところを落とせば、食べられるものもある。
それを見分けるのも、家を持つ者の仕事なのだ。




