12 遠方より来る人たち
パルマはその日、そのまま仕事を続けた。祭りの前日なのだ。
桃の箱を移し、菓子に回す干し葡萄を数え直し、広場へ飾る花の束を確認しなければならない。
南端の家の女ひとりに、領地の祭りを止めさせるつもりはなかった。
だが、念のため、控えの部屋には、侍女を二人置いた。
ひとりは台所頭の妹で、夫と息子を南端の家に引きずられかけた女だった。もうひとりは、乾燥小屋の女たちをまとめる古参である。
どちらも、泣く女の顔だけで物を渡すような性分ではない。
「奥様、本当にこのままでよろしいのですか」
台所頭の妹が、扉の前でパルマに尋ねた。
「というと? 何かあったの?」
「泣いております。ずっと」
「水は?」
「お出ししました」
「食事は?」
「賄いと同じものを。豆の煮たものと、普通のパンと、薄いスープです」
「そう。食べましたか?」
「パンを少しだけ。スープは匂いが強いと」
「そのままでいいわ。そう選んでるのだから」
侍女は頷いた。扉の向こうから、かすれた声が聞こえる。
「こんな椅子では、座っていられませんわ…… 背が、腰が痛くて」
「では、立っていても構いません」
古参の女が、扉の内側から答えた。
「水がぬるい……」
「井戸水です。皆それを飲みます」
「せめて、香りのよいお茶を……」
「奥様のご指示がありません」
「私、客として来たのに……」
「客ではないと、先ほど奥様がおっしゃいました」
そこまで聞いて、パルマはふう、と息を吐く。扉の前に立つ必要はない。アエリアが何を言うかは、もう大体分かる。
よい椅子。よい茶。よいパン。そばに居てくれる誰か。そして「お客様扱い」。
だがそのどれも、今日は出ない。出すつもりもない。
「何かあれば呼んで」
「はい、奥様」
パルマが廊下を戻ると、フェルナンが待っていた。倉からこちらへ来る間に、何度か使用人に止められたのだろう。顔に苛立ちが浮いている。
「アエリアさんに会わせてくれ」
「会わせません」
「なぜだ」
「あなたが会うと、話が進まないじゃないですか」
フェルナンは目を見開いた。
「彼女は今、怯えているんだ!」
「怯えているなら、なおさら余計な約束などしない人間がそばにいるべきです」
「余計な約束?」
「『リクローデへ戻さない。僕が何とかする。君は何もしなくていい』。そういう約束です」
フェルナンは言葉に詰まる。言ったのだろう。言っていないと言い切れない顔だった。
「パルマ、僕は」
「ともかく!」
パルマは夫の言葉を遮る。
「明日の祭りが終わるまで、戻ってください」
「僕を、締め出すのか」
「ええ」
パルマは答えた。
「あなたは、倉へ彼女を連れてきて、娘に謝らせようとして、その上、息子が怖がったのを見ていなかった。だから、今のあなたに任せることはありません」
フェルナンは顔を歪めた。
「僕は、そんなつもりでは」
「ああもう、その言葉も、聞き飽きました」
パルマはそのまま彼を置いて歩き出した。
*
翌朝、祭りは予定通り始まった。
広場には白と薄紅の花が飾られ、果物箱の上に布がかけられた。子供たちは朝から落ち着かない。桃を配るのは昼前だというのに、何度も箱の方を見に来る。
カティもロンベルトも、乳母に手を引かれて広場へ出た。
「カティの桃、ある?」
「あります」
パルマが言うと、カティは胸を張った。
「ロンのも?」
「あります」
「アエリアさんには?」
その質問に、近くにいた女たちが一斉に耳を傾けた。パルマは、娘の目線に合わせて少し屈む。
「アエリアさんの分は、別に決めます。《《カティやロンのものを取ることはないわ》》」
カティは安心したように頷いた。その顔を見て、果樹園の妻ミラが小さく言った。
「そうでなくちゃ」
声は小さかったが、周囲の女たちには届いた。
桃を配る時、広場には甘い匂いが満ちた。
包丁を入れると、白い果肉から透明な汁がにじむ。皿の上へ一切れずつ置くと、子供たちの目が輝く。
暑い日差しの下で、桃の甘さはまるで祝福のようだった。
カティは両手で皿を持ち、ロンは乳母に小さく切ってもらった桃を口に入れた。ロンは少し目を丸くし、それから頬をゆるめる。
「もも――!」
周囲の女たちが笑った。
――と、その時、広場の外れで馬車が止まった。
「え、どこの馬車?」
誰かが口にする。エルデート領の馬車ではない。車体には、見慣れない紋章がある。
桃の枝と、細い刃物を組み合わせた印。果物を扱う家の紋章だろう。馬車の後ろには、騎乗の男が二人ついている。
パルマは皿を侍女へ渡した。
馬車の扉が開き、最初に降りてきたのは、日に焼けた年配の男だった。服は上等だが、飾りは少ない。続いて、背筋の伸びた女。さらに、若い男がひとり、年嵩の男がひとり。
そして、最後に降りてきたのは、ジョバンニだった。
広場の男たちがざわめく。
その時フェルナンは、少し離れた場所にいた。アエリアには会わせてもらえず、祭りの手伝いにも身が入らないまま、広場の端で立っていたのだ。
ジョバンニを見て、彼が一歩前へ出る。
「ジョバンニ」
ジョバンニは、フェルナンを見た。顔色は悪い。だが、南端の家で削られていた時より、目ははっきりしていた。
年配の男が、パルマへ向かって深く礼をした。
「エルデート子爵夫人でいらっしゃいますね。突然の訪問をお許しください。リクローデ男爵領、ラグラス家のガスパルと申します」
女も礼をする。
「妻のメリーナでございます」
若い男が続いた。
「アエリアの兄、ルシアンです」
年嵩の男は短く頭を下げる。
「叔父のバルトです。荷物をまとめる役で参りました」
最後の一言で、周囲の女たちが一瞬、互いを見た。パルマは礼を返した。
「よくお越しくださいました。こちらから手紙を出す前に、ご足労をかけたようですね」
「ジョバンニが、こちらへ来ましたので」
ガスパルは、隣のジョバンニを見た。
「我が家へ戻ってきた、と言うべきでしょうか。彼は、娘を連れて逃げた男ですからな」
フェルナンが口を挟んだ。
「逃げた、ですって? あなた方は、アエリアさんを苦しめた家ではないのですか」
その場の空気が、少し硬くなった。メリーナがフェルナンを見る。責めるというより、もっと疲れた、見慣れたものを見る目だった。
「……なるほど、娘は、そう申しておりましたか」
「下働きのようなことをさせられ、何をしても叱られたと」
「我が家は果物の家です、ですから娘には、果物の選別を教えました。使用人へ指示するなら、まず自分で手順を覚えなさいと言いました。市場へ出す上物と、家で食べる傷物の区別を知りなさいとも言いました」
メリーナは一息にそれだけ言う。広場の女たちが、じわりと近づいた。
「それを、下働きと呼んだのですね」
パルマが言うと、メリーナは頷いた。
「ええ。あの子にとって、《《自分の皿に乗るまでの手間は、すべて自分を虐げるもの》》なのです」
カティが乳母の手を握る。パルマは娘を見てから、ガスパルへ向き直った。
「アエリアさんはこちらでお預かりしています。呼びましょう」
「お願いいたします」
控えの部屋から連れてこられたアエリアは、最初、しくしくと泣いていた。
だが広場に立つ両親と兄と叔父を見た瞬間、泣き声が止まった。顔色が変わる。
「いや……」
小さく言った。
「どうして?!」
メリーナは娘を見た。
「迎えに来たのよ、アエリア」
「いやよ……」
「あなたの夫が、私たちの家へ来たの。《《もう無理》》だと。《《助けてほしい》》と」
アエリアはジョバンニを見た。その目が、泣く女のものから変わる。
「あなた……」
声が低くなった。
「……あなたが言ったの? 私を実家に売ったの?!」
ジョバンニは肩をすくめた。ラグラス家の兄ルシアンが、すぐに一歩前へ出て、ジョバンニとアエリアの間に立った。
「売ったのではない、迎えに来ただけだ」
「黙って、お兄様!」
アエリアの声が鋭くなった。広場の男たちが、はっとする。フェルナンもだ。
彼の知る彼女は、細い声で泣く女だった。目を伏せ、指先を震わせ、何もできないと訴える女だった。
だが目の前のアエリアは、違った。
「何よ、皆して! 私が悪いって言いたいの? こんな田舎の果物の匂いに囲まれて、安っぽい桃を配って、偉そうに!」
女たちの眉が動いた。ミラが低く言う。
「安っぽい?」
アエリアは聞いていない。
「私は客なの! 夫に捨てられた可哀想な女なの! 少しくらい優しくされたっていいじゃない。桃くらい、花くらい、パンくらい、何よ。皆、箱だの札だの薪だの、けちくさいことばかり」
「やれやれ! 皆、聞いたかい!」
市場へ箱を運ぶ男の母親が、隣の嫁に言った。
「あの人は、うちの蜂蜜漬けも、あの調子で食べたんだよ!」
乾燥小屋の女が続く。
「花くらい、ですって!」
「うちの子の梨も、少しくらいだったんでしょうね!」
女たちの声が広場に広がる。
男たちは、口をぽかんと開けたまま立っていた。自分が運んだ梨や薪や白パンが、彼女の中でどんな扱いを受けていたのか、ようやく追いついてきたようだった。
だが、フェルナンだけは、まだ動けない。
「アエリアさん……」
「何よ」
アエリアは彼を見た。その顔には、いつもの涙はない。
「あなたも使えないわね。あれだけ私のためと言っておいて、桃ひとつ守れないの? 奥様の前では何も言えないの? 役立たず」
フェルナンの顔から血の気が一気に引く。今の一言で彼の中の何かは確かに折れた。
「アエリア」
ガスパルが短く呼んだ。アエリアは父を睨んだ。
「嫌よ! 帰らない。あんな家、絶対に嫌! 朝から果物を触らされて、箱を数えろだの、札を読めだの、使用人の前で恥をかかされて!」
「恥をかいたのは、指示もできないのに使用人を叱ったからだ」
兄のルシアンが言った。
「お前は上物を自分の皿へ寄せ、市場用の箱から桃を抜き、使用人に傷物を食べさせようとした」
「うるさい!」
アエリアは地団駄を踏みながら叫ぶ。
「うるさい、うるさい、うるさい! 皆、私を責めるばかり! だから嫌なのよ。どいつもこいつも、帳面だの仕事だの役目だの! 私はそんなもののために生まれたんじゃない! 綺麗な服を着て、いいお茶を飲んで、誰かに可哀想って言われていればよかったのに!」




