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夫に捨てられた可哀想な奥様に、娘の桃まで譲るつもりはありません  作者: さんけい


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12/17

12 遠方より来る人たち

 パルマはその日、そのまま仕事を続けた。祭りの前日なのだ。

 桃の箱を移し、菓子に回す干し葡萄を数え直し、広場へ飾る花の束を確認しなければならない。

 南端の家の女ひとりに、領地の祭りを止めさせるつもりはなかった。

 だが、念のため、控えの部屋には、侍女を二人置いた。

 ひとりは台所頭の妹で、夫と息子を南端の家に引きずられかけた女だった。もうひとりは、乾燥小屋の女たちをまとめる古参である。

 どちらも、泣く女の顔だけで物を渡すような性分ではない。


「奥様、本当にこのままでよろしいのですか」


 台所頭の妹が、扉の前でパルマに尋ねた。


「というと? 何かあったの?」

「泣いております。ずっと」

「水は?」

「お出ししました」

「食事は?」

「賄いと同じものを。豆の煮たものと、普通のパンと、薄いスープです」

「そう。食べましたか?」

「パンを少しだけ。スープは匂いが強いと」

「そのままでいいわ。そう選んでるのだから」


 侍女は頷いた。扉の向こうから、かすれた声が聞こえる。


「こんな椅子では、座っていられませんわ…… 背が、腰が痛くて」

「では、立っていても構いません」


 古参の女が、扉の内側から答えた。


「水がぬるい……」

「井戸水です。皆それを飲みます」

「せめて、香りのよいお茶を……」

「奥様のご指示がありません」

「私、客として来たのに……」

「客ではないと、先ほど奥様がおっしゃいました」


 そこまで聞いて、パルマはふう、と息を吐く。扉の前に立つ必要はない。アエリアが何を言うかは、もう大体分かる。

 よい椅子。よい茶。よいパン。そばに居てくれる誰か。そして「お客様扱い」。

 だがそのどれも、今日は出ない。出すつもりもない。


「何かあれば呼んで」

「はい、奥様」


 パルマが廊下を戻ると、フェルナンが待っていた。倉からこちらへ来る間に、何度か使用人に止められたのだろう。顔に苛立ちが浮いている。


「アエリアさんに会わせてくれ」

「会わせません」

「なぜだ」

「あなたが会うと、話が進まないじゃないですか」


 フェルナンは目を見開いた。


「彼女は今、怯えているんだ!」

「怯えているなら、なおさら余計な約束などしない人間がそばにいるべきです」

「余計な約束?」

「『リクローデへ戻さない。僕が何とかする。君は何もしなくていい』。そういう約束です」


 フェルナンは言葉に詰まる。言ったのだろう。言っていないと言い切れない顔だった。


「パルマ、僕は」

「ともかく!」


 パルマは夫の言葉を遮る。


「明日の祭りが終わるまで、戻ってください」

「僕を、締め出すのか」

「ええ」


 パルマは答えた。


「あなたは、倉へ彼女を連れてきて、娘に謝らせようとして、その上、息子が怖がったのを見ていなかった。だから、今のあなたに任せることはありません」


 フェルナンは顔を歪めた。


「僕は、そんなつもりでは」

「ああもう、その言葉も、聞き飽きました」


 パルマはそのまま彼を置いて歩き出した。


 *


 翌朝、祭りは予定通り始まった。

 広場には白と薄紅の花が飾られ、果物箱の上に布がかけられた。子供たちは朝から落ち着かない。桃を配るのは昼前だというのに、何度も箱の方を見に来る。

 カティもロンベルトも、乳母に手を引かれて広場へ出た。


「カティの桃、ある?」

「あります」


 パルマが言うと、カティは胸を張った。


「ロンのも?」

「あります」

「アエリアさんには?」


 その質問に、近くにいた女たちが一斉に耳を傾けた。パルマは、娘の目線に合わせて少し屈む。


「アエリアさんの分は、別に決めます。《《カティやロンのものを取ることはないわ》》」


 カティは安心したように頷いた。その顔を見て、果樹園の妻ミラが小さく言った。


「そうでなくちゃ」


 声は小さかったが、周囲の女たちには届いた。


 桃を配る時、広場には甘い匂いが満ちた。

 包丁を入れると、白い果肉から透明な汁がにじむ。皿の上へ一切れずつ置くと、子供たちの目が輝く。

 暑い日差しの下で、桃の甘さはまるで祝福のようだった。

 カティは両手で皿を持ち、ロンは乳母に小さく切ってもらった桃を口に入れた。ロンは少し目を丸くし、それから頬をゆるめる。


「もも――!」


 周囲の女たちが笑った。

 ――と、その時、広場の外れで馬車が止まった。


「え、どこの馬車?」


 誰かが口にする。エルデート領の馬車ではない。車体には、見慣れない紋章がある。

 桃の枝と、細い刃物を組み合わせた印。果物を扱う家の紋章だろう。馬車の後ろには、騎乗の男が二人ついている。

 パルマは皿を侍女へ渡した。

 馬車の扉が開き、最初に降りてきたのは、日に焼けた年配の男だった。服は上等だが、飾りは少ない。続いて、背筋の伸びた女。さらに、若い男がひとり、年嵩の男がひとり。

 そして、最後に降りてきたのは、ジョバンニだった。

 広場の男たちがざわめく。

 その時フェルナンは、少し離れた場所にいた。アエリアには会わせてもらえず、祭りの手伝いにも身が入らないまま、広場の端で立っていたのだ。

 ジョバンニを見て、彼が一歩前へ出る。


「ジョバンニ」


 ジョバンニは、フェルナンを見た。顔色は悪い。だが、南端の家で削られていた時より、目ははっきりしていた。

 年配の男が、パルマへ向かって深く礼をした。


「エルデート子爵夫人でいらっしゃいますね。突然の訪問をお許しください。リクローデ男爵領、ラグラス家のガスパルと申します」


 女も礼をする。


「妻のメリーナでございます」


 若い男が続いた。


「アエリアの兄、ルシアンです」


 年嵩の男は短く頭を下げる。


「叔父のバルトです。荷物をまとめる役で参りました」


 最後の一言で、周囲の女たちが一瞬、互いを見た。パルマは礼を返した。


「よくお越しくださいました。こちらから手紙を出す前に、ご足労をかけたようですね」

「ジョバンニが、こちらへ来ましたので」


 ガスパルは、隣のジョバンニを見た。


「我が家へ戻ってきた、と言うべきでしょうか。彼は、娘を連れて逃げた男ですからな」


 フェルナンが口を挟んだ。


「逃げた、ですって? あなた方は、アエリアさんを苦しめた家ではないのですか」


 その場の空気が、少し硬くなった。メリーナがフェルナンを見る。責めるというより、もっと疲れた、見慣れたものを見る目だった。


「……なるほど、娘は、そう申しておりましたか」

「下働きのようなことをさせられ、何をしても叱られたと」

「我が家は果物の家です、ですから娘には、果物の選別を教えました。使用人へ指示するなら、まず自分で手順を覚えなさいと言いました。市場へ出す上物と、家で食べる傷物の区別を知りなさいとも言いました」


 メリーナは一息にそれだけ言う。広場の女たちが、じわりと近づいた。


「それを、下働きと呼んだのですね」


 パルマが言うと、メリーナは頷いた。


「ええ。あの子にとって、《《自分の皿に乗るまでの手間は、すべて自分を虐げるもの》》なのです」


 カティが乳母の手を握る。パルマは娘を見てから、ガスパルへ向き直った。


「アエリアさんはこちらでお預かりしています。呼びましょう」

「お願いいたします」


 控えの部屋から連れてこられたアエリアは、最初、しくしくと泣いていた。

 だが広場に立つ両親と兄と叔父を見た瞬間、泣き声が止まった。顔色が変わる。


「いや……」


 小さく言った。


「どうして?!」


 メリーナは娘を見た。


「迎えに来たのよ、アエリア」

「いやよ……」

「あなたの夫が、私たちの家へ来たの。《《もう無理》》だと。《《助けてほしい》》と」


 アエリアはジョバンニを見た。その目が、泣く女のものから変わる。


「あなた……」


 声が低くなった。


「……あなたが言ったの? 私を実家に売ったの?!」


 ジョバンニは肩をすくめた。ラグラス家の兄ルシアンが、すぐに一歩前へ出て、ジョバンニとアエリアの間に立った。


「売ったのではない、迎えに来ただけだ」

「黙って、お兄様!」


 アエリアの声が鋭くなった。広場の男たちが、はっとする。フェルナンもだ。

 彼の知る彼女は、細い声で泣く女だった。目を伏せ、指先を震わせ、何もできないと訴える女だった。

 だが目の前のアエリアは、違った。


「何よ、皆して! 私が悪いって言いたいの? こんな田舎の果物の匂いに囲まれて、安っぽい桃を配って、偉そうに!」


 女たちの眉が動いた。ミラが低く言う。


「安っぽい?」


 アエリアは聞いていない。


「私は客なの! 夫に捨てられた可哀想な女なの! 少しくらい優しくされたっていいじゃない。桃くらい、花くらい、パンくらい、何よ。皆、箱だの札だの薪だの、けちくさいことばかり」

「やれやれ! 皆、聞いたかい!」


 市場へ箱を運ぶ男の母親が、隣の嫁に言った。


「あの人は、うちの蜂蜜漬けも、あの調子で食べたんだよ!」


 乾燥小屋の女が続く。


「花くらい、ですって!」

「うちの子の梨も、少しくらいだったんでしょうね!」


 女たちの声が広場に広がる。

 男たちは、口をぽかんと開けたまま立っていた。自分が運んだ梨や薪や白パンが、彼女の中でどんな扱いを受けていたのか、ようやく追いついてきたようだった。

 だが、フェルナンだけは、まだ動けない。


「アエリアさん……」

「何よ」


 アエリアは彼を見た。その顔には、いつもの涙はない。


「あなたも使えないわね。あれだけ私のためと言っておいて、桃ひとつ守れないの? 奥様の前では何も言えないの? 役立たず」


 フェルナンの顔から血の気が一気に引く。今の一言で彼の中の何かは確かに折れた。


「アエリア」


 ガスパルが短く呼んだ。アエリアは父を睨んだ。


「嫌よ! 帰らない。あんな家、絶対に嫌! 朝から果物を触らされて、箱を数えろだの、札を読めだの、使用人の前で恥をかかされて!」

「恥をかいたのは、指示もできないのに使用人を叱ったからだ」


 兄のルシアンが言った。


「お前は上物を自分の皿へ寄せ、市場用の箱から桃を抜き、使用人に傷物を食べさせようとした」

「うるさい!」


 アエリアは地団駄を踏みながら叫ぶ。


「うるさい、うるさい、うるさい! 皆、私を責めるばかり! だから嫌なのよ。どいつもこいつも、帳面だの仕事だの役目だの! 私はそんなもののために生まれたんじゃない! 綺麗な服を着て、いいお茶を飲んで、誰かに可哀想って言われていればよかったのに!」



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