距離と代償
ユエは半歩だけ距離を取った。
自然すぎて、気づかれないほどに。
だが、空気は変わらない。
入口に立っていたのはメイランだった。
何も言わない。
ただ、視線だけで全てを把握する。
ユエの頬に熱が上がる。
アルコールではない。
——自覚。
乱れた呼吸。
潤んだ瞳。
そして、わずかに色づいた唇。
対してアドリアンは、完璧だった。
——ほとんど。
ただ一つを除いて。
口元に残る、かすかな紅。
沈黙が伸びる。
「ここにいるとは思わなかったわ」
柔らかな声。だが緊張を隠してはいない。
アドリアンはハンカチを取り出し、何事もないようにそれを拭った。
「少し話をしていただけだ」
非の打ち所のない返答。
石が水面に落ちるように、静かに波紋が広がる。
メイランはユエを見る。
ユエは視線を保とうとしたが、わずかに揺らいだ。
罪悪感ではない。
——認識。
自分が線を越えたこと。
そして、それを見られたこと。
「邪魔だったかしら?」
怒りはない。
——査定だ。
「いや、問題ない」
だが、もう遅い。
メイランはすべて理解していた。
距離。
痕跡。
そして——
後悔のなさ。
その沈黙の中で、ユエは悟る。
型を壊すということは——
自分だけの問題じゃない。
他人の視線をも、変える。
「話があるの、アドリアン。炎国の件で」
空気が変わる。だが消えない。
——緊張は残る。
その夜、ヴァルモン邸は完璧な静けさに包まれていた。
だが——
その中で生まれた亀裂は、
決して小さくはなかった。
アドリアンはソファに座り、天井を見上げる。
彼は選んだ。
そして——
選択には、代償がある。
ベッドとソファの距離は、わずか数メートル。
だが、その夜——
それは越えられない境界だった。
メイランは何も言わない。
彼も、何も言わない。
それでも、互いにわかっている。
眠れない夜。
沈黙。
そして、残る言葉。
「望んだことが問題なのよ」
それが、すべてだった。
豪奢な部屋の中で——
距離は、空間ではなく。
選択によって測られていた。




