第4話 九十七回と、十三球
「危ない!」
殿下が叫んだときには、球はもう厩舎の屋根を越えていた。
かん、こん、と瓦の上を転がる音がして、それきり何も聞こえなくなる。屋根の向こうで、鳩が三羽まとめて飛び立った。
「……今のは、風が」
「無風です、殿下」
ニコ様が、木の盾を構えたまま即答する。
王宮の裏庭の、いちばん西の外れ。使われなくなった古い厩舎の前に、踏み固められた土の広場がある。干し草の残り香と、日に焼けた板壁のにおい。ここなら誰にも見られないから、と殿下は言った。見られて困るのは、投げる殿下のほうか、捕る私のほうか。たぶん両方だ。
私は父に言われたとおり、乗馬服で来ていた。膝の出る、動きやすいやつ。ベルタは馬車で待っている。見ていたら心臓がもたない、そうだ。
練習に使う球は、羊の革を縫い合わせて中に羊毛を詰めたものだった。王宮の子どもたちが投げ方を習うときに使うらしい。手に乗せると、前の人生で毎日握っていた三号球より、ひと回り小さくて軽い。縫い目が指にちょうど引っかかる。
「もう一回、いい?」
「何回でもどうぞ」
殿下は籠から次の球を取り、二十歩向こうに立つ私をまっすぐ見た。
二十歩。たぶん、十四メートルくらい。
前の人生で、私がしゃがんでいた場所から投手板までが十三・一一メートル。ほとんど同じ距離だ。そう思ったら、膝が勝手に曲がりかけた。乗馬服でも、さすがにここでしゃがむのはまずい。
殿下が投げる。
右手の上手投げ。腕を後ろへ引いて、肩の上から振り下ろす。宮廷の正式な投げ方だ。
球は私の右、三歩外へ。
走る。地面すれすれで手を伸ばして、捕る。
殿下の口が、丸く開いたまま止まる。
次は頭の上、はるか上。下がりながら見上げ、背中から倒れる寸前で捕る。
次は私の五歩手前の地面。跳ね上がった球を、胸で前に落として、拾う。
次は、ニコ様。
「八回目です」
盾の縁から額をのぞかせて、ニコ様が言った。今のは盾の上を越えて、きれいに額へ吸い込まれていった。私が回り込む前に。
「ごめん! ニコ、今のは本当にごめん」
「謝罪の回数も数えましょうか」
「それはやめて。お願いだから」
十球、十一球、十二球。
殿下の球は、毎回まったく違う場所へ行く。右に抜けるのでも、高く浮くのでもなく、どこへ行くかが投げた本人にもわかっていない。風に舞う落ち葉みたいな球だ。
それなのに、私は全部捕っていた。
追いかけている間、頭の中がしんと静かになる。球の回転、高さ、落ちてくる場所。見えているものが、体のどこへ手を出せばいいかを教えてくれる。走って、伸びて、閉じる。手のひらの中で、ぱしっと羊革が鳴る。
久しぶりだ、この感じ。
九歳で前の人生を思い出してから、私はずっと令嬢をやってきた。刺繍をして、お茶を淹れて、夜会で笑う。どれも嫌いではなかったけれど、どれをしていても、体の半分が眠っているような気がしていた。
その半分が、今、目を覚ましている。土を蹴る足の裏も、球を追う首筋も、ちゃんと私の言うことを聞く。
「すごいな……!」
殿下が両手を広げて、籠の横で跳ねた。
「全部だよ、ニコ。十二球、全部。屋根のは別として」
「屋根のは別として、全部です」
ニコ様は盾を下ろして、私をじっと見た。それから、ぼそっと言う。
「……騎士団の捕球訓練に、来ていただきたいくらいです」
褒められたのだと気づくまで、少しかかった。
「ドゥアルテ嬢、どこで習ったの? そんな捕り方」
「兄が昔、庭で木の実を投げてくれたので」
嘘ではない。九つの年、兄の投げたクルミを捕った瞬間に、私は前の人生を丸ごと思い出したのだから。ただ、そのあとに思い出した二十六年ぶんの人生のことは、言っても信じてもらえない。
「お兄さんに感謝しなきゃ。僕にも兄がいるけど、木の実を投げてくれたことは一度もないな」
殿下は笑って、籠に手を入れた。
捕った球は、投げて返す。
私が下手から軽く放ると、球は殿下の胸元にすとんと収まる。殿下はそのたびに「え?」という顔をした。自分の投げた球と、同じ球だとは思えないらしい。
十三球目を投げる前、殿下はつま先で地面を、とん、とん、とんと三回叩いた。
あれ、と思う。
さっきも叩いていた。その前も。投げる前に、必ず三回。
それから腕を引く。肘が、肩の高さより下がっている。ロドリゴ様と同じ癖。肘が下がると、腕は遅れてしなり、球は指先から抜けるときに向きが定まらない。
でも、それだけでは九十七回ゼロの説明にならない。ロドリゴ様の暴投は、いつも決まって右に三歩だった。下手な人の球は、下手なりに同じ方向へ逸れる。
殿下の球には、それすらない。
十三球目。腕が振り下ろされる、その瞬間。
殿下の左手が、ぴくりと動いた。
何も持っていない左手が、ほんの一瞬、何かを掴みにいこうとするみたいに指を開いて、すぐに閉じる。右手から離れた球は、私の左の地面に突き刺さるように跳ねた。
私はそれを、膝を落としてブロッキングの形で止めた。胸に当たった球の重さが、肋骨にじんと残る。
「今日はこのくらいにしようか。ドゥアルテ嬢、手が真っ赤だ」
言われて見下ろすと、両の手のひらが、熟れた李の皮みたいな色になっていた。羊毛入りの軽い球でも、素手で何十回も捕ればこうなる。右の肩の奥にも、返球を繰り返したあとの鈍い重さが溜まっていた。前の人生で痛めた場所と、ちょうど同じところに。
「一度だけ、って約束だったね。ありがとう。本当に、楽しかった」
殿下は籠を抱えて笑った。昨夜の露台と同じ、上手な笑い方。これでおしまい、と自分に言い聞かせているような。
一度だけ。私が言った言葉だ。
それなのに、口が勝手に動いた。
「殿下。明日、もう一度来てもいいですか」
殿下の腕から、籠が落ちた。羊革の球が十いくつ、土の上に散らばる。
「……いいの?」
「確かめたいことがあります」
自分から何かを頼んだのは、いつ以来だろう。言ってから、心臓がばくばくしはじめる。
殿下の左手を見る。籠を拾おうとして、また、先に左手が伸びていた。




