第5話 家畜番の投げ方
朝の旧厩舎前で、私は足もとの小石を一つ拾った。
丸くて、親指の先くらいの、なんでもない石。それを持って、殿下の目の前まで歩いていく。一歩、二歩。三歩より近ければ、何を渡しても誓いにはならない。
「殿下、これを」
手のひらに乗せて差し出すと、殿下は「ん?」と眉を寄せながら受け取った。
左手で。
何のためらいもなく、指先でつまむように。
「これ、何かのおまじない?」
「殿下。今、どちらの手で取りましたか」
殿下の目が、自分の左手に落ちる。それから、ぱっと石が右手に持ち替えられた。持ち替えるのが速すぎて、それがかえって答えになっている。
後ろでニコ様が、盾の縁を指で一度叩いた。
「……六つのときにね、直されたんだ」
干し草の束に腰を下ろして、殿下はぽつりと言った。昨日までのよく回る口が、今朝は少し重い。
「王族は右手で投げる。食事も、剣も、署名も右。左手で物を投げると、宮廷投擲官の先生に手の甲を定規で叩かれた。左手を背中で縛られて、一日中過ごしたこともあるよ。おかげで今は、ちゃんと右で何でもできる」
「何でも、ですか」
「投げる以外は」
笑ってはいる。けれど、目は石を見ている。
「左は間違いだって、ずっと言われてきたから。僕もそう思ってる」
私は昨日の十三球目を思い出していた。右腕を振り下ろす瞬間、空っぽの左手が何かを掴みにいこうとする。体のほうは、六つの年からずっと、投げる手はこっちだと言い続けていたのだ。十五年も。
前の人生のチームにも、子どものころ左利きを直されて、大人になってから左に戻した外野手がいた。戻したその年に、彼女の送球は別人みたいにまっすぐになった。本人がいちばん驚いていたのを覚えている。
「殿下、左で投げてみませんか」
「え」
「それと、上からではなく、下から」
殿下の顔から、すっと表情が抜けた。
「下手投げは……家畜番の投げ方だよ」
ニコ様も、盾を構えたまま眉を動かしている。
知っている。この国では、腕を下から振って物を放るのは、羊を追う少年や、下町の鐘撃ちの子どもたちの投げ方だ。宮廷で誰かがそれをやれば、扇の陰で笑われる。王子が大投擲でそれをやったら、たぶん笑われるくらいでは済まない。
「では、家畜番の投げ方を、一度だけ見てください」
私は二十歩下がった。乗馬服の上着を脱いで、干し草の上に置く。袖をまくると、朝の空気が腕に冷たい。
前の人生の私は捕手だったけれど、投手の練習相手もずいぶんした。ブルペンで、投手が投げ込みたい球を、横で私が先に投げて見せる。何千回も見て、何百回も真似をした腕の振り。
右足を引き、腕を大きく後ろから前へ、体の横で一回転させる。腰の横を通るとき、手首を返して離す。
球は、殿下の胸元へまっすぐ飛んでいった。
捕ろうとした殿下の両手のあいだを、球は見事に通り抜けた。羊革の球が、上着のボタンに当たって足もとに落ちる。
「……今の、下から投げたの?」
「はい。家畜番の投げ方です」
「家畜番すごいな」
落ちた球を拾った殿下が、それを裏返したり、匂いをかいだりする。球に何か仕掛けがあると思っているみたいに。
「殿下はまず、一回転させなくていいです。振り子みたいに、腕を後ろへ引いて、前へ振るだけ。足を一歩出して、腰の横で離す。左手で」
一球目は、私の十歩手前の地面に落ちて、ころころと転がってくる。
「ごめん!」
「謝らなくていいです。今の、方向はまっすぐでした」
本当にそうなのだ。昨日の球は、どこへ行くか本人にもわからなかった。今の球は短かったけれど、私に向かってまっすぐ転がってくる。それだけで、まるで別の人の球だ。
二球目は頭の上を越えていく。でもこれも、まっすぐ。真後ろへ走って、背中越しに捕る。
「離すのが遅いです。もう半拍早く。それと、つま先で地面を叩かないでください」
「叩いてた?」
「三回。毎回です」
殿下は自分の足を見下ろして、信じられないという顔になる。ニコ様が後ろで小さく頷いている。気づいていたのに言わなかったのか、言っても聞かなかったのか。
殿下が息を吸う。今度は、足が動かない。
左腕が後ろへ引かれ、前へ。腰の横を通る。
離れた。
球は、地面と平行に、まっすぐ飛んできた。
速くはない。山なりでもない。ただ、私の胸の真ん中へ、吸い込まれるように。
両手を構えて待つ。待つだけでいい。走らなくても、跳ばなくても、手を伸ばさなくても。球のほうから、ここへ来る。
すぱん。
羊革の球が、手のひらの真ん中で鳴った。
「ナイスボール!」
声が出ていた。前の人生で毎日、何百回も叫んでいた言葉。この国の誰も知らない言葉。
殿下が、きょとんとしている。
「な、ないす……?」
「いい球、という意味です。今のは、すごくいい球でした」
殿下の顔が、少しずつ崩れていく。驚きから、笑いへ。昨日までの上手な笑い方ではない。もっと下手で、どうしようもなく嬉しそうな顔。
両手が、空に向かって大きく広がった。
「入った……! ニコ、見た!? 入ったよ! 胸の真ん中! イネス嬢が一歩も動かなかった!」
「見ました。殿下、今のは、当たりませんでした」
「当たらなかったね!」
ニコ様が当たらなかったことを報告して、殿下が当たらなかったことを喜んでいる。なんだか変な二人だと思って、私も笑ってしまった。
イネス嬢、と呼ばれたことに気づいたのは、少しあとだった。
それから殿下は十球投げて、三球を私の胸に届けた。三球に一球。昨日の九十七回ゼロから考えれば、もう別の人だ。
残りの七球も、全部まっすぐだった。短いか、長いか。右か左にずれることは、もうほとんどない。
「殿下。今日のうちに、半分は入るようになります」
「本当に?」
「捕手は、嘘をつきません」
捕手、という聞き慣れない言葉に、殿下の眉が上がる。説明しようとしたとき、厩舎の陰のほうから、乾いた拍手が聞こえた。
ぱち、ぱち、ぱち。
昨夜の殿下の拍手とは、まるで違う音。手袋をはめた手で叩いている音だ。
振り返ると、厩舎の角に、白い手袋の男が立っていた。




