第3話 投げ文板と、手渡しの招待状
朝食の皿の横に置かれた書状は、ベルモンテ伯爵家の紋章で封がしてあった。
届けに来た使用人は、玄関で父にそれを手渡すと、一礼もそこそこに帰っていったらしい。投げて寄こさなかったのは、たぶん伯爵家の最後の礼儀だ。
「よし」
父は書状を読み終えると、いつもの調子で言った。
「鞍革が六十枚、手袋用の羊革が二百、靴底が八十。全部取り消しだそうだ。よし、わかった」
よし、と言いながら、父の指はパンをちぎりかけたところで止まっている。
父のマヌエル・ドゥアルテ子爵は、貴族の当主というより革なめし職人の親方だ。両手の指は樹皮の汁で茶色く染まり、爪の間の色は一生取れない。その手が、パンの上で動かないのを見るのは初めてだった。試合の途中で監督が急に黙り込んだときみたいに、食堂の空気が落ち着かない。
「お父様。ベルモンテ家の注文は、工房のどのくらいですか」
「ん? まあ、三割ってとこだな」
三割。
干し場に並ぶ革の三枚に一枚が、売り先をなくしたことになる。
「私のせいです」
「お前のせいなもんか。あの坊主が投げて、お前が捕った。それだけだ」
父はやっとパンを口に放り込み、もぐもぐしながら目を細める。
「それより聞いたぞ。蝋燭の下に横っ跳びしたんだってな。肘は大丈夫か。父さんも見たかったなあ」
昨夜、父は工房の窯の具合が悪くて夜会に来なかった。来ていたら、拍手をしたのはたぶん殿下ではなくこの人だったと思う。
昼前、干し場で革の向きを変えていると、ベルタが中央広場から戻ってきた。
前掛けのポケットから、折りたたんだ紙を引っぱり出す。
「お嬢様、写してきましたよ。投げ文板」
中央広場の噴水の横には、誰でも紙を貼れる大きな板がある。投げ文板と呼ばれていて、鐘が鳴った噂も、迷子の猫も、恋の悪口も、全部そこに集まる。ベルタは字がきれいなので、こういうときに頼りになる。
「読みますね。全部は無理なんで、目立つのだけ」
ベルタは干し場の柵に紙を広げた。干してある鞣しかけの革が風でばたばた鳴って、紙の端を押さえる指が忙しい。
〈昨夜、時鐘の十を過ぎてすぐの第一神殿の一つ。あれは王宮だ。賭けてたやつは外れ。俺は当てた〉
〈捕り令嬢がまた捕ったんだってさ。今度は婚約破棄を。四年かかって元の場所に戻っただけじゃないのかい〉
〈うちのお嬢様がその場にいらしたそうですが、蝋燭の真下へ飛び込んで、床を滑って、それでも膝をついたまま礼をなさったとか。所作がきれいだったと、お嬢様がそこだけ三回おっしゃいました〉
〈騎士団の先輩が言ってた。あの距離をドレスで三歩。騎士でも無理だって〉
〈捕るしか能のない女が、捕れるものを捕った。それの何がすごいのか、誰か説明してくれ〉
「最後のは、剥がしてやろうかと思いました」
「剥がさなかったの?」
「上から別の紙が貼られてたんで。『説明してやる、まずお前が投げてみろ』って」
ベルタはもう一枚、小さな紙切れを出した。
「それと、鐘守のホアキン爺さんの貼り紙。毎朝、前の日の鐘の数を出すんです。鐘の数で賭けをしてる胴元たちには、蛇みたいに嫌われてますけど」
〈昨日の鐘数、三百八十七。うち第一神殿、三十八。夜の十の刻以降、一〉
「三百八十七回も、誰かが何かを誓ったのね」
「ほとんどは市場の売り買いですよ。小麦一袋とか、ロバの貸し借りとか」
ベルタは紙をたたみながら、ちらりと私の左肘を見た。
「で、その夜の一つが、お嬢様のです」
私は干し場の革に手を当てた。石灰と樹皮の汁のにおいが、手のひらから上ってくる。生まれたときから嗅いでいるにおいなのに、今日は少しだけ鼻の奥にしみた。
捕れるものを捕った。それの何がすごいのか。
書いた人の言うことは、半分くらい正しい。前の人生でも、私は投手の球を捕っていただけだ。勝ち星がつくのは投手で、新聞に写真が載るのも投手。捕手はその後ろでしゃがんでいる。私はそれが好きだった。
自分から何かを欲しがったことがあったか、と昨夜ロドリゴ様は言った。
本塁の後ろより欲しい場所を、私は思いつかない。
「お嬢様。今日の午後のこと、旦那様に言いました?」
「……まだ」
「ですってば。言わずに行く気でしょう」
図星だった。
そのとき、表の門のほうで馬のいななきが聞こえた。工房の若い職人が、慌てた顔で干し場に駆け込んでくる。
「お嬢様、お客です。王宮の騎士様が」
玄関に立っていたのは、昨夜、白百合を額で受けた騎士だった。
陽の下で見ると、思ったより若い。短く刈った髪に、額の真ん中だけ少し赤い跡が残っている。
「第二王子殿下の護衛、ニコ・アルメイダです。殿下から、招待状を」
ニコ様は封筒を両手で差し出した。三歩離れたりせず、ちゃんと私の手のひらに置く。
「手渡しで、ありがとうございます」
「殿下は最初、門の外から投げると言いました。止めました」
淡々と言われて、私は笑いそうになるのをこらえた。宣言さえしなければ、投げてもただの手紙だ。でも人に物を投げて寄こすのは、この国ではいちばんの無作法になる。殿下ならたぶん、本気でやろうとした。
後ろで、父が「王宮の騎士様だと?」と、革の前掛けのまま出てきた。封筒の紋章を見て、それから私を見る。
「イネス。説明しろ」
「はい。……今日の午後、殿下の投げる球を、捕りに行きます」
父は三回まばたきをした。それから、なぜか嬉しそうに頷いた。
「よし。乗馬服で行け。ドレスはもう裂くな」
ニコ様は父と私を交互に見てから、口の端を、髪の毛一本ぶんだけ動かした。笑ったのかもしれない。
「では、午後の二の刻に迎えを。それと、ドゥアルテ嬢」
「はい」
「殿下は昨夜、眠れなかったそうです。部屋の壁に九十七回投げて、九十七回とも壁のどこかに当てました」
「どこか、ですか」
「狙った場所に当たったのは、ゼロ回です」
ニコ様は一礼して、門の外の馬へ戻っていった。
九十七回投げて、一回も狙った場所へ行かない。それはもう下手というより、別の何かだ。どこかで体が、狙いと違う命令を出している。
気がつくと、いつもの癖で、左の人差し指の関節を親指で押していた。




