第2話 ノーコン殿下の頼みごと
はい、と言ってしまった口を、手で押さえたい。
押さえられないのは、右手に銀の留め具を握っているからだ。左手は、裂けたドレスの裾をつかんでいる。両手がふさがっている令嬢は、自分の失言も止められない。
「よかった! いや、待って。まだ何を頼むか言ってなかったね」
殿下は自分の額をぺちんと叩いた。王族が人前で自分の額を叩くところなんて、生まれて初めて見る。
そのとき、視界の端で何かが動いた。
ロドリゴ様が、壁際の花台から白百合をわしづかみにしている。花瓶の水が袖からぼたぼた垂れて、寄木の床に点々と染みを作っていく。顔が赤い。さっきまでの得意げな赤さとは、色の種類が違う。
「パウラ!」
人の輪の向こうで、ソウザ男爵令嬢のパウラ様が、扇を半分だけ開いて振り返った。
「婚約を!」
白百合が宙を飛ぶ。
狙いはまた、三歩ほど右へ逸れている。四年かけて、少しも直っていない。そしてパウラ様は、片足をすっと引いただけだった。上体はまったく動かず、扇の角度も変わらない。百合はパウラ様のいた場所を素通りして、くるくる回りながら私のほうへ来る。
来る。
手が、勝手に上がりかけた。
まずい、と頭ではわかっている。あれを捕ったら、私はまたロドリゴ様と婚約する。でも腕の筋肉は、四年前の夏とまったく同じように、球の軌道に合わせて伸びていこうとする。
「失礼!」
横から伸びてきた大きな手が、私の両手首をまとめて押さえる。殿下の手だ。同時に、殿下の護衛の騎士が私たちの前へ飛び込み、白百合は騎士の額にばさりと当たって、床に落ちた。
鐘は鳴らない。
花びらが二枚、騎士の髪に引っかかっている。
「……殿下のおそばで物に当たるのは、これで七回目です」
騎士が無表情のまま言った。
「今のは僕が投げたんじゃないよ、ニコ」
「数え方を変えるつもりはありません」
どこかで誰かが噴き出した。それを合図にしたみたいに、広間のあちこちから笑い声が上がる。今度の笑いは、私に向いていない。
ロドリゴ様は濡れた袖のまま立ち尽くし、パウラ様はもう背中を向けて、扇をゆっくり閉じている。避けた花束がその後どこへ行ったのか、パウラ様は一度も振り返らない。
「ごめん。手首、痛くなかった?」
夜風の通る露台に出てから、殿下はまずそう言った。
「いいえ。助かりました。あのままだと、捕っていました」
「だよね。腕がもう、捕る形になってた」
手すりに肘をついて、殿下は楽しそうに私を見る。後ろではニコと呼ばれた騎士が、額の花粉を手巾で拭いている。王宮の露台から見下ろす王都は、ところどころに灯が残っていて、七つの神殿の鐘楼だけが黒い影になって突き出ていた。
「それで、さっきのお願いなんだけど」
声が、一段低くなる。
「僕は求婚の試投を十二回やって、十二回とも失敗してる。宮廷の作法どおり、花嫁候補の令嬢を二十歩向こうに立たせて、花束を投げるんだ。一回目は噴水に落ちた。三回目は見物していた司教の帽子を落とした。五回目はニコ」
「六回目もです。額でした」
「十二回目は鳩」
指を折って数え終えると、殿下は笑った。笑い方の上手な人だ。上手すぎて、どこまでが本当に可笑しいのかわからない。
「この国の王子は、二十二の誕生日までに、建国祭の大投擲で求婚することになってる。僕の誕生日は建国祭の当日。あと四十五日」
「失敗したら、どうなるのですか」
「宮廷投擲官が、僕の代わりに投げてくれる。代投っていうんだ。花束も、相手も、全部ちゃんと用意してくれる」
手すりの上で、殿下の指が組まれる。
「……僕の求婚を、僕じゃない人が投げるんだよ。変だと思わない?」
冗談めかした口調のままなのに、組んだ指だけが白くなっていた。
「練習相手なら、宮廷投擲官の方々がいらっしゃるのでは」
「彼らは、捕る前に避けるんだ。僕の球は危ないから。正しい判断だよね」
くるりと、殿下がこちらへ向き直る。
「でも君は、蝋燭の真下に跳び込んだ。僕の球がどこへ行っても、君なら追いかけてくれる気がする。だから、練習の受け手をお願いしたい。もちろん宣言はしない。ただの練習だから、鐘は鳴らない」
断る理由なら、いくらでもあった。
婚約を破棄されたその晩に、王子殿下と二人で投げ合いをする令嬢がどう噂されるか。父の工房の取引先が、どれだけベルモンテ伯爵家とつながっているか。
なのに、胸の奥でまったく別のことを考えている自分がいた。
十二回も失敗する投げ方とは、どんな投げ方なのだろう。
「あら、ドゥアルテさん」
露台の入り口で、扇の陰から声がした。パウラ様が、こちらを見ずに通り過ぎようとしている。
「今夜も、いい手だったわね。……あの夏のことは、いつかちゃんと話すわ。わたし、あなたに借りがあるの」
「借り、ですか?」
パウラ様は答えなかった。片足を引くときと同じ滑らかさで、夜会のざわめきの中へ戻っていく。
「ソウザ嬢は、王都でいちばん物を捕らない人だよ。この四年で十九回、求婚を避けたって」
殿下が、感心したように言う。捕る側の人間と、避ける側の人間。世の中にはその二種類がいるのだと、私は初めて考える。私はどう見ても、捕る側だ。
「お嬢様!」
控えの間から、侍女のベルタが肩掛けを抱えて走ってきた。私の裂けた裾と擦りむけた肘を見て、それから殿下を見て、その場で固まる。
「一度だけなら」
ベルタが口を開く前に、私は言った。
「一度だけ、お受けします。殿下の球を見せてください」
「ありがとう! 本当に、すごく、ありがとう!」
両手を広げかけた殿下は、ベルタの視線に気づいて、途中でそっと下ろした。
「明日の午後、王宮の裏で。迎えを出すよ」
帰りの馬車で、ベルタは「一度だけって、お嬢様、それ四年前も言いましたよね」とため息をついた。
四年前の私は、何も言っていない。ただ捕っただけ。
今夜は違う。一度だけ、と自分の口で言った。それが少し可笑しくて、少しだけ怖い。
揺れる馬車の中で思い出すのは、殿下が手すりに置いていた右肘の角度ばかりだった。あの肘の下がり方なら、球はたぶん、外へ抜ける。




