第1話 破棄、承りました
投げられたものを、私は捕ってしまう。
この国でいちばん持っていてはいけない癖だと思う。
春の夜会が開かれる王宮の鏡の間は、蝋燭の熱で少し甘いにおいがする。天井の大シャンデリアには百二十本の蝋燭が立っていて、壁一面の鏡がその火を何倍にも増やしている。その光の真ん中で、婚約者のロドリゴ・ベルモンテ様が、銀のリボン留めを指先につまんで掲げていた。
親指の先ほどの小さな留め具。四年前の夏、私の手に飛び込んできた花束を束ねていたものだ。
あの日の園遊会のことは、今でも匂いまで覚えている。刈ったばかりの芝と、白い薔薇。十五歳のロドリゴ様が「婚約を」と叫んで花束を投げ、それが狙った相手の三歩右、つまり私の目の前へ飛んできた。考えるより先に、手が出ていた。
芝の上で花束を抱えた十四歳の私と、真っ赤になった十五歳のロドリゴ様のあいだで、受領鐘が一つ鳴った。
それ以来、社交界での私の呼び名は「捕り令嬢」になった。面と向かって呼ぶ人はいない。扇の陰で、楽しそうに呼ぶだけだ。
ロンダ王国では、中身を声に出して投げた物を、相手が地面に落とさず手で受け止めると、それが神前の誓いになる。求婚なら花束を、決闘なら手袋を。誓いを解くときは、証の品を「解消を」と宣言して投げ返し、相手に受け取らせる。
「イネス・ドゥアルテ。今夜、君との婚約を解消する」
楽団の弦が一本ずつ止まっていく。人の輪が、私とロドリゴ様のあいだに十歩ほどの空白を作った。
あの留め具を私が捕れば、婚約は終わる。落とせば続く。
それだけの話なのに、広間の誰もが息をひそめて、私の手を見ていた。
「君は捕っただけだ」
ロドリゴ様は私ではなく、周りの顔を順に見ながら言った。
「四年前、私はソウザ男爵令嬢に求婚した。その花束を、横にいた君が勝手に捕った。それから四年、君は一度でも自分から何かを欲しがったことがあったか? ないだろう。君は、投げられたものを捕るだけの女だ」
くすくすと笑う声がする。ご令嬢たちの扇が一斉に開いて、波打ち際みたいにさざめいた。
言い返す言葉なら、いくつか浮かぶ。あなたの投げた花束が、パウラ様の三歩も右へ逸れていたこと。この四年、婚約者として並んで立った夜会の数。
でも、どれも口から出る前にしぼんでいく。最後の一つだけが、胸に小骨みたいに刺さったまま残った。
自分から何かを欲しがったことがあったか。
……ない、かもしれない。
右手の親指で、左手の人差し指の関節を押す。前の人生で突き指をして、曲がったまま治らなかった指。今の私の指はまっすぐなのに、考えごとをすると、つい押してしまう。
「解消を!」
ロドリゴ様が腕を振りかぶった。
肘が肩より下がっている。踏み出した足が外を向いている。あ、と思ったときには、留め具は私の頭上をはるかに越えて、天井へ向かって昇っていた。
その先にあるのは、百二十本の蝋燭を抱えたシャンデリア。
鎖に引っかかれば落ちてこない。落ちてこなければ誓いは解けない。跳ね返り方が悪ければ、火のついた蝋燭がまとめて降ってくる。真下には、扇を開いたご令嬢たちの結い上げた髪がいくつも並んでいる。
体のほうが先に動いていた。
ドレスの裾を左手でつかみ、かかとの低い靴で寄木の床を蹴る。前の人生で数えきれないほど走った距離に比べれば、三歩なんて、ないのと同じ。
私は二十六の年まで、日本という国でソフトボールの捕手をしていた。ホームベースの後ろにしゃがみ、十三・一一メートル先から来る球を捕るのが仕事。ファウルフライを追ってフェンスに肩から突っ込んだことも、一度や二度ではない。
留め具が鎖の手前で失速し、くるりと向きを変える。蝋燭の火が鏡に映り込んで、目がくらむ。まぶしい光の粒の中に、銀色の点が一つだけ、ほかと違う速さで動いている。
見えている。なら、捕れる。
最後の一歩で跳んだ。体を横に倒し、右手をいっぱいに伸ばす。指先に冷たい金属が触れた瞬間、手のひらを閉じる。
次に来たのは床だった。左の肘から寄木の上を滑り、膝のあたりでドレスの裂ける音がして、誰かの椅子の脚の手前でようやく止まる。
右手を開く。
銀のリボン留めが、汗ばんだ手のひらの真ん中にあった。
窓の外から、短い音が一つだけ届く。
ゴーンと尾を引く時鐘とはまるで違う、芯のある、硬い音。王宮からいちばん近い、中央広場の第一神殿の受領鐘だ。誓いが成ったとき、その場所に最も近い神殿の鐘だけが、誰も撞いていないのにひとりでに鳴る。
広間は静まり返っていた。シャンデリアの火が、まだ少し揺れている。
私は膝をついたまま裂けた裾を整え、立ち上がった。肘がじんじんする。ロドリゴ様のほうへ向き直って、令嬢として習ったとおりの角度で頭を下げる。
「破棄、承りました。ロドリゴ様、長いあいだお世話になりました」
ロドリゴ様の口が、半分開いたまま止まっている。
自分の投げた物がどこへ飛んだのか、この人はたぶん最後まで目で追っていなかった。四年前の夏も、今夜も。
誰も、何も言わない。
その沈黙の中で、ぱん、と手を打つ音がした。
ぱん、ぱん、ぱん。
一人だけの拍手が鏡の壁に跳ね返って、何重にも聞こえる。人の輪の向こうから、背の高い青年が手を叩きながら、ほとんど駆けるようにこちらへ来た。金糸の刺繍の上着に、少し癖のある黒髪。護衛らしい騎士が、慌ててその後ろを追ってくる。
ご令嬢たちが一斉に膝を折った。私も遅れて、裂けた裾のまま膝を折る。
第二王子、ティアゴ・デ・ロンダ殿下。
王宮でいちばん投げるのが下手な方だと聞いている。求婚の試投を十二回して、十二回とも、受け手の令嬢の手に届かなかった方。
「今の、見た? 見たよね、ニコ。蝋燭の真下だよ。ドレスで、横っ跳びで、片手で!」
殿下は護衛の騎士を振り返って早口で言い、それから私の前で両手を大きく広げた。目がきらきらしている。夜会でこんな顔をしている人を、私は初めて見た。
「ドゥアルテ嬢、お願いがある」
「は、はい」
返事だけが先に出た。私の悪い癖の二つ目だ。頼まれると、中身を聞く前に受けてしまう。
殿下は、留め具を握ったままの私の右手をじっと見て、それから言った。
「僕の球を、捕ってくれないか」




